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日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

日本赤煉瓦建造物番付

 


      ◎日本赤煉瓦建造物番付 神奈川県場所 令和二年十一月

          《ベスト30》のうち21~25位

        勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

《順位》   《所在地》   《 名 称 》

前頭・・・・21.(横須賀市)覚栄寺裏山貯水池

前頭・・・・22.(平塚市パイロットコーポレーションのレンガ棟「蒔絵工房NAMIKI」

        (旧第二海軍火薬廠安定度試験場)

前頭・・・・23.(横須賀市横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門

        (旧横須賀重砲兵連隊営門)

前頭・・・・24.(横須賀市海上自衛隊横須賀造修補給所煉瓦倉庫

        (旧横須賀海軍軍需部第二計器倉庫)

前頭・・・・25.(川崎市多摩川親水公園の煉瓦壁(旧明治製糖の護岸壁)

 

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21(1) 覚栄寺裏山貯水池・・・・覚栄寺本堂の左側に墓地がある。その墓地の間を抜けて

奥まったところに、写真のような貯水池がある。1895(明治28)年築造の旧海軍貯水池である。鉄格子で囲まれ中に入れない。横須賀市水道局が管理している看板があった。

 

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21(2) 覚栄寺裏山貯水池・・・・写真21(1)の鉄格子の左側に沿って、急な山を登った先に、誰も入った様子の無い雑木があった。 そこを抜けると写真のような煉瓦造があった。鉄の扉の下部は腐食しかなり傷んでいた。

 

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 21(3) 覚栄寺裏山貯水池・・・・ここの水源地は横須賀市が1908(明治41)年に築造した貯水池である。裏側にコンクリートで覆った大きなかまぼこ状の建造物があった。落ち葉と枯れた小枝が重なってよく分からない。コンクリートの下はアーチ状の天井がある煉瓦造貯水池と推察される。

 

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21(4) 覚栄寺裏山貯水池・・・・ 貯水池正面には、2カ所に出入口の鉄製の扉がある。写真は左側の扉。下部は腐食してボロボロであった。出入口の左右上部に丸窓があるのが印象的である。煉瓦造はイギリス積であり、煉瓦の一部は焼があまく、剥離が見られた。横須賀市はこの貯水池は使用していないという。

 

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 21(5) 覚栄寺裏山貯水池・・・・21(3)の写真の左側にコンクリート塗りの柱がある。その柱の中間より上のほうに、石板が埋め込まれていた。この石板に「明治四十一年六月竣成」と刻まれていた。 

 

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21(6)覚栄寺裏山貯水池・・・・覚栄寺は浄土宗のお寺である。そこに建つ解説板の後段に、「お堂の右手奥には『滝の井戸』と呼ばれる湧き水があり裏山の湧水は市の水道水源地となっていました」と記してある。21(1)はお寺の左手奥であったが、21(2)~(5)の煉瓦造貯水池は、お寺の本堂の右手奥に相当する位置であった。裏山全体は原始林に覆われており、小原台を含めてこの地域一帯は水を大量に蓄積していたようである。横須賀市走水浄水場は覚栄寺裏山貯水池の裏側に相当する場所にあり、まさに、覚栄寺裏山の湧水が横須賀水道の発祥の地である。

 

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 22(1) パイロットコーポレーションのレンガ棟「蒔絵工房NAMIKI」(旧第二海軍火薬廠安定度試験場)・・・・写真は「蒔絵工房NAMIKI」の正面玄関。パイロット万年筆の展示場。単なる展示場ではなく、一本80万円もする最高級蒔絵万年筆などが展示されている。まさに美術工芸品級の万年筆ばかりであった。

 

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22(2) パイロットコーポレーションのレンガ棟「蒔絵工房NAMIKI」・・・・1926(大正15)年より、日本が世界に誇る漆工芸のひとつ、蒔絵を施した高級万年筆を欧米に展開。後に人間国宝となる蒔絵師・松田権六氏を中心とした、蒔絵師グループ「国光会」を結成し、日本古来の伝統工芸である蒔絵の技を90年以上にわたって守り続けています。旧第二海軍火薬廠として使用されていた平塚近代史の遺構である煉瓦造りの建物を改装し、蒔絵万年筆の歴史と漆芸作品を展示しています。(「蒔絵工房NAMIKI」のホームページ参照)

 

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22(3) パイロットコーポレーションのレンガ棟(旧海軍火薬廠安定度試験場)・・・・海軍火薬廠は神奈川県旧平塚市・中郡大野町(現在の平塚市)にまたがる約38万坪の敷地に製造設備を建設した。日本帝国海軍の兵器に使用する爆薬・火薬を製造する海軍の工廠であった。組織改編により平塚本廠は第二火薬廠に改称されている。1945(昭和20)年7月、平塚は米軍の主要攻撃目標となり空襲により壊滅的な被害をうけた。敷地及び建物は終戦後、進駐軍が接取していた。

パイロットは第二次大戦の空襲で大塚工場が被災した。1948(昭和23)年に火薬廠の一部の払い下げをうけ、平塚市に生産拠点工場を移設した。以降、すべての万年筆を平塚工場で生産することにした。

 

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22(4) パイロットコーポレーションのレンガ棟 (旧第二海軍火薬廠安定度試験場)

・・・・平塚における火薬製造は1905(明治38)年、英国アームストロング、ノーベル、ヴィッカースの3社によって設立された日本爆発物製造株式会社平塚製造所を前身としている。1919(大正8)年4月、日本海軍により買収され、海軍火薬廠が発足した。

本レンガ棟の建設の時期が不明であるが、爆発物の安定度試験場は海軍が買収した時にはすでに存在していたと考えられる。しかし、1923(大正12)年の関東大震災では、この種の煉瓦造は崩壊したと推察される。半壊であれば、改修の跡が窺えるが、その痕跡は見られないので、震災後の建築のようである。

さらに、平塚の大空襲でも、被災せず残存したことは幸運であった。平塚では煉瓦造がこの建物以外には無いようである。パイロットコーポレーションのレンガ棟は平塚市の建造物の文化財に相当するものである。

 

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 22(5)パイロットコーポレーションのレンガ棟・・・・イギリス積でバッレス(控え柱)が密に建造されれいる。Ⅼ字形の煉瓦造で、建物の中央に通路が造られ、安定度試験場のため、細かく間仕切りされている。煉瓦の大きさは長さ210mm、幅95mm、厚さ55mmで比較的小ぶりであり、積み方は4段9寸(272mm)。窓からの侵入警戒のため建物の全周にわたって、警報装置を取り付けた痕跡が見られた。刻印は発見できなかった。 

 

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 23(1) 横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門(旧横須賀重砲兵連隊営門)・・・・写真は

旧横須賀重砲兵連隊営門。横須賀重砲兵連隊は1890(明治23)年に要塞砲兵第一連隊として設置された。現在残る門は連隊の正門で、1907(明治40)年10月26日に竣工されている。正面から向かって右側の門柱に「横須賀市立坂本中学校」の表札が掲げてある。

 

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23(2)  横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門(旧横須賀重砲兵連隊営門)・・・・正面から見て左側の門柱に「横須賀市立桜小学校」の表札が掲げてある。門柱はかなり堅牢であり、重砲兵連隊の勢力を現わしている。

門柱に連なってい残る約16mの塀は、1891(明治24)に出来上がったものと推定されている。門柱はその後、1907(明治40)年10月26日に竣工したという。長さ16mの塀の跡に連隊の正門が完成したことになる。なぜ、正門が後から完成したのか、疑問が残る。恐らく、以前の門柱は連隊の規模に照らしてやや小さかったと見られる。装備した火砲が大型化し、門柱の幅が狭かったこと、日露戦争で勝利し陸軍の権威を高めることなどが考えられる。後から完成した門柱は58cm角、高さ3.24m、塀の高さ1.8mで、堂々としている。

 

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 23(3) 横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門(旧横須賀重砲兵連隊営門)・・・・煉瓦塀の道路側に解説の柱が建ててあった。文言は次のとおり。「横須賀市指定市民文化資産 旧横須賀重砲兵連隊営門 連隊の正門で、1907(明治40)年10月に竣工した。これに連なる塀は、1891(明治24)に完成したものと推定される。本市に残る数少ない明治建造物である。」 

 

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 23(4) 横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門(旧横須賀重砲兵連隊営門)・・・・煉瓦壁の転倒防止のため、煉瓦壁の裏面に堅牢なささえ柱を設けている。丁寧な工事である。陸軍の塀が倒れたなど、恥になるような作業はしなかった。

 

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 24(1) 海上自衛隊横須賀造修補給所煉瓦倉庫(旧横須賀海軍軍需部第二計器庫)

・・・JR横須賀線田浦駅を海岸方面にでると旧横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫群がある。現存する倉庫は相模運輸倉庫が7棟。海上自衛隊横須賀造修補給所の倉庫が6棟ある。横須賀には多くの煉瓦造建築物があったが、関東大震災の影響で土木遺構以外で、その姿をみることはほとんどない。海上自衛隊の地区に1921(大正10)年築の煉瓦造「旧第二計器庫」が残っている。イギリス積、2階建、キングポストトラスの木造の小屋組、梁間17.1m、桁行72.48m、間柱で挟まれた中央を通路としている。

 

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 24(2) 海上自衛隊横須賀造修補給所煉瓦倉庫(旧横須賀海軍軍需部第二計器庫)

・・・・外壁は帯鉄で巻かれ、その上にコンクリートの付け柱が等間隔で設置されており、内部にも同じように付け柱が見られるという。帯鉄や付け柱は震災後に補強のためつけられたものとみられる。

 

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24(3)海上自衛隊横須賀造修補給 所煉瓦倉庫(旧横須賀海軍軍需部第二計器庫)

・・・・煉瓦造取り巻く帯鉄、コンクリートの付け柱がよく見える。妻面が波板鉄板で覆われている。建設当初は煉瓦造であったと見られる。多分関東大震災で妻面が損傷したので除去したかもしれない。相模運輸倉庫エリア にもう一棟煉瓦造があるが、全面をモルタルで塗り固めているという。この煉瓦造はこの「第二計器庫」よりも古い建築物であるという。この建物から「小菅集治監製煉瓦」を現わす刻印が確認されたという。

 (「神奈川県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」参照)

 

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 25(1)多摩川親水公園の煉瓦壁(旧明治製糖の護岸壁)・・・・1906(明治39)年、川崎駅西口に川崎市最古の大工場である横濱製糖川崎工場が開設された。1912(明治45)年、明治製糖(現・大日本明治製糖)と合併し、1923(大正12)年、関東大震災により壊滅的打撃を受けたが、最新設備の整った工場として復興を遂げた。

川崎工場裏手の多摩川沿いには、煉瓦造の護岸壁(河岸、海岸などの水際の浸食防止のための壁)が建設され、ここに「テルファー」と呼ばれる当時最新の移動式クレーンが設置された。横浜港から〝はしけ〟(大型船と陸との間を往復して貨物や乗客を運ぶ小舟)により運ばれた原料は、テルファーで陸揚げされ工場内へ運搬されていたようである。多摩川沿いには煉瓦造の護岸壁が現存している。

 

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 25(2) 多摩川親水公園の煉瓦壁(旧明治製糖の護岸壁)・・・・川崎は、安価な工場用地と二ヶ領用水の工業用水が確保できた点、原料や製品の輸送が陸上・海上ともに便利な点、大都市に隣接しているという立地条件などから、この明治製糖を皮切りに次々と工場が建設された。当初、明治製糖川崎工場の資材水上運搬施設の一部として建築された赤煉瓦造の護岸壁。現在は、多摩川親水公園の一部として市民に親しまれている。

 

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 25(3) 多摩川親水公園の煉瓦壁(旧明治製糖の護岸壁)・・・当初、明治製糖川崎工場の資材水上運搬用施設の一部として建築された赤煉瓦造りの護岸壁でした。

現在は多摩川親水公園の一部として市民に親しまれている。

赤煉瓦造の壁は長さ約300m、イギリス積、煉瓦壁の高さは平均2.5m。約半分は埋まっていると考えられるので、建設当初は高さ約5m以上の赤煉瓦壁であったと推定している。