◎「赤煉瓦建造物番付:茨城県場所」 令和元年八月

 

         勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

              (16位~30位)

      前頭・・・・16.(常陸太田市)旧稲田家住宅赤煉瓦蔵

      前頭・・・・17.(土浦市)旧野村さとう店煉瓦蔵

      前頭・・・・18.(稲敷市)関口邸長屋門及び蔵

      前頭・・・・19.(常総市)長田屋陶器店

      前頭・・・・20.(古河市)青木酒造煉瓦塀及び煉瓦蔵

      前頭・・・・21.(土浦市)関家煉瓦蔵

      前頭・・・・22.(結城市)結城酒造株式会社煉瓦煙突

      前頭・・・・23.(古河市古河市立第一小学校赤門

      前頭・・・・24.(龍ケ崎市)旧諸岡家住宅煉瓦門及び塀

      前頭・・・・25.(結城市)武勇煙突

      前頭・・・・26.(行方市曹洞宗常安寺煉瓦門

      前頭・・・・27.(水戸市)少友幼稚園の煉瓦門柱及び煉瓦壁

      前頭・・・・28.(古河市)関善商店煉瓦蔵

      前頭・・・・29.(常陸太田市)萩谷家煉瓦蔵

      前頭・・・・30.(石岡市常陸国総社宮の煉瓦造高燈籠

 

 

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16 1910(明治43)年、酒造業の稲田敬造が袖蔵として建てた。梁間2間・桁行3間・3階建てのやや小規模の建物であるが、腰壁や軒下蛇腹には焼過煉瓦を、壁部には良質の手抜きの赤煉瓦を使用している。特に軒下蛇腹の積み方は、装飾的にも技術的にも高度な卓越した仕上がりで他に類を見ないほどの美しさである。宮大工棟梁斎藤辰吉、仕事師飯塚伊之吉(煉瓦職工)などの氏名を記した墨書が残っている。県内で3階建て赤煉瓦造はこの建物を含め2棟のみである。登録有形文化財(建造物)に2014年10月7日登録された。

 

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17 この建物は旧野村太助商店の砂糖蔵である。同商店は幕末から続いた豪商であった。水戸街道に面し店蔵、土蔵の袖蔵、奥に母屋、中庭、文庫蔵があった。その奥に1892(明治25)年、赤煉瓦の砂糖蔵を建てた。現在は土浦市観光協会が管理して軽食・喫茶などを提供する休憩所になっている。2階建であったが、吹抜けに改築し丸太で組んだ小屋組が見える。良質な手抜き煉瓦をイギリス積み、覆輪目地で仕上げている。東日本大震災で壁面に亀裂が入り、修復した痕跡が残っている。登録有形文化財(建造物)に2016年8月1日登録された。

 

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18-1 稲敷市鳩崎の関口邸に茨城県内で唯一の赤煉瓦長屋門がある。関口家は1815(文化12)年から醤油醸造業を営み、かなりの資産家であった。1889(明治22)年パリ万国博覧会に醤油を出品し入賞。醤油のほかにソース、ビール、茶園、煉瓦製造など多角的な事業をしていた。長屋門の大きさは10間×2.5間(目測)、手抜き煉瓦のフランス積み。正面入口は大きな煉瓦造アーチがあり、その奥に観音開きの大木戸がある。

 

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18-2 長屋門から入つて正面に主屋、その裏側に蔵がある。煉瓦造蔵の大きさは4間×2.5間(目測)である。全体はフランス積みで、長手の部分は「手抜きの赤煉瓦」、小口の部分は「釉薬塗りの黒煉瓦」であり、全国的にも極めて珍しい煉瓦造である。

 煉瓦積みの歴史のなかで、フランス積みは明治20年頃で終了し、その後はイギリス積みに変わったという定説がある。この関口邸においては長屋門及び蔵は1902(明治35)年頃に建築しているので例外のようである。

 

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19 現在の当主は6代目、煉瓦造の店舗は1883(明治16)年建築という。銀座煉瓦街の完成は明治10年頃であり、地方都市での煉瓦造店舗の建築としては、かなり早い時期である。この地は水海道の河岸の横であり、江戸(東京)との河川交易の拠点で長田屋には煉瓦で店舗を建築するだけの財力があったと見られる。間口4間、奥行6間、2階建て、手抜き煉瓦のイギリス積みである。2階部分には大きなアーチ窓が3ヶ所見える。

 

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20 青木酒造は松本屋という屋号を持つ酒屋である。創業は1831(天保2)年で古河市内で唯一の酒造会社である。白漆喰の店舗の前の両側に煉瓦塀がつらなる。右側の煉瓦塀は附属屋をかねていて、小ぶりの煉瓦造煙突が建っている。煉瓦は手抜きのイギリス積みである。右側の重厚な煉瓦塀はフランス積みである。この塀の煉瓦は1887(明治20)年創業の東輝煉化製造所、または翌1888(明治21)年創業の下野煉化製造会社のものと見られる。

 

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21 建築年代は明治中期。もとは野村家関連の塩蔵であり、蔵内部は2階構造で引き出しのついた階段が取り付けてあったという。塩蔵であったため蔵内部は塩でふけた感じがするという。天井の棟木には墨書があったという。屋根は瓦葺きで、屋根下の妻飾りは数種類の煉瓦を使用した繊細な幾何的模様を作り出しており、当時の技術の高さを伝えている。(出典:茨城県の近代化遺産164頁)東日本大震災の被害を修復した痕跡が残っている。

 

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22 高さ約10mの煉瓦煙突は、安政蔵の北側にあり1903(明治36)年の建設と伝える。安政蔵の釜場と地下で結ばれており、酒造施設の近代的な工夫がうかがえるとともに、商業都市として栄え、酒造業も盛んであった結城の景観のシンボルともなっている。登録有形文化財(建造物)に2000年4月28日登録された。(出典:文化庁データベース)

 

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23 1904(明治37)年10月、古河尋常小学校新築時に、住民の寄付によって建設された煉瓦造りの正門。煉瓦の色から赤門と呼び親しまれている。旧下野煉化製造会社(シモレン)で製造した煉瓦が使用されている。

 

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24 龍ケ崎町長も務めた実業家諸岡良佐の邸宅から移築した煉瓦造の門及び塀。門柱一対は高さ3.8m。その両側にやや低い脇門の門柱一対と高さ2.2mの塀がある。門柱上部に帯状の凸部を廻らし、柱天に柱頭飾風の張出しを付ける。重厚な表構えを伝える門塀である。諸岡良佐の邸宅は、1910(明治43)年、竜ケ崎駅近くに新築された。2006(平成27)年に解体され、門や塀は一時保管の後、2015(平成27)年に現在地へ移築された。(出典:いばらきの文化財登録有形文化財に登録された。

 

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25 脇蔵の南、仕込み蔵と旧釜蔵が造る入隅に位置する。旧釜場蔵地下の釜場と接続して、現在も使用している。煉瓦造。高さ11mで、東西1.2m、南北1.1mの矩形平面になる。土蔵漆喰仕上げの白と煉瓦色が好対照をなし、地域に親しまれている。建築は大正期。登録有形文化財(建造物)に2011年7月25日登録された。(出典:文化庁データベース)

 

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26 約420年前、現在地に移り大平山常安寺と改称した曹洞宗のお寺の煉瓦門。本堂の方から撮影したので、煉瓦門の裏側が見えている。煉瓦門の煉瓦はすべて手抜きの焼過煉瓦のフランス積み。左側の壁に白煉瓦で囲った銘板に、檀家の寄付で1911(明治44)年11月建立した旨の文言が刻まれている。煉瓦10段の長さ、枚数などから計算すると、煉瓦門の高さは約3.79mであった。

 

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27 幼稚園は英国人クエーカー教徒による水戸の伝道拠点として1912(明治45)年開設された「水戸基督友会堂」に始まる。この頃の写真に煉瓦造門柱が写っているという。イデス・シャープレスが「幼児期は大切な時期」と考え1917(大正6)年私立幼稚園を開設した。少友幼稚園は伝統的に英国にならって赤煉瓦を多用した建物を造っていた。東日本大震災で被害をうけたが、すべての建物を煉瓦造で復元したという。

 

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28 関善商店は、数多く残る古河の茶問屋のひとつで、1892(明治25)年頃に創業したという。店舗の南側裏手に、土蔵1棟と煉瓦蔵1棟が並んでいる。煉瓦蔵は東西2間半、南北5間の2階建てで、大正時代の初めに建てられたものである。煉瓦蔵は茶の保管に適さず、主に製茶の道具納めるのに利用したという。旧下野煉化製造会社(シモレン)の煉瓦で建てたという。(出典:茨城県の近代化遺産179頁)

写真は煉瓦蔵の裏側を写したもの、煉瓦外壁は長手積みである。

 

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29 常陸太田市藤田町にある萩谷家煉瓦蔵。萩谷家はもと醸造業であった。訪問したのは7年前であり、周りは田畑が多く、人家はまばらであった。煉瓦蔵は四隅に柱形の凸部があり、基礎には太い御影石を敷き、腰部と壁の間にも石材を挿入し、出入口の周りにも石材を多用するなど贅沢で頑丈な煉瓦造になっていた。窓や出入口は土蔵造りの要素を多く取り入れた構造になっていた。煉瓦の積み方はイギリス積み、刻印は発見できなかった。

 

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30 常陸国総社宮は茨城県では最も古い由緒正しい格式の高い神社である。神社の入口に建つ煉瓦造高燈籠の笠部と火袋部が東日本大震災で落下し破損した。この高燈籠には銘板が付いており、竣工は1912(大正元)年10月9日、煉瓦師は当町の大野啓助、大野大次郎、左官職は林村字根古屋の前島徳太郎などの氏名が刻んであった。この種の煉瓦造の高燈籠や灯明台は全国的に珍しく3ヶ所確認されているだけであり、煉瓦師(煉瓦職人)の氏名が刻まれた銘板の存在も貴重である。新品の煉瓦は使用せず、変形した煉瓦や焼過ぎ煉瓦など不揃いを使用し、古めかしく仕上げれているのは、煉瓦師の深い考えがあったと見られる。このような煉瓦の積み方は全国でこの総社宮高燈籠のみである。

 

    ◎日本赤煉瓦建築物番付 茨城県場所 令和元年八月

        勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

              〈6位~15位〉

   前頭・・・・6.(日立市北茨城市常磐線(旧日本鉄道)のトンネル群

   前頭・・・・7.(日立市)宮田川水抜橋梁

   前頭・・・・8.(ひたちなか市他)常磐線のアーチ橋・橋梁群

   前頭・・・・9.(下妻市)江連用水旧溝宮裏両樋

   前頭・・・・10.(古河市)亀屋商事(旧飯島製糸)煉瓦倉庫

   前頭・・・・11.(常総市)五木宗レンガ蔵

   前頭・・・・12.(石岡市)青栁新兵衛商店 煉瓦造店蔵・通用門・塀

   前頭・・・・13.(常総市)旧報徳銀行水海道支店

   前頭・・・・14.(常陸太田市)旧町屋変電所

   前頭・・・・15.(利根町)北用水樋門

 

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6-1 日立―小木津間にある「滑川トンネル」の上り線入口。旧日本鉄道が1897(明治30)年2月、磐城線として開業し、トンネルもこの時に造られた。日立駅から北上し福島県境まで、6ヶ所にトンネルがある。当初は単線であったが、1917(大正6)年から複線化が進められ、旧線に平行して鉄筋コンクリートのトンネルが完成した。

 

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6-2 左側が磯原ー大津港間にある「二ッ島トンネル」の上り線入口。右側が下り線の出口で鉄筋コンクリートで造られている。単線時代に造られた6ヶ所のトンネルは赤煉瓦造であり、トンネル全体の形状はよく似ている。

 

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7.日立ー小木津間にある「富田川水抜橋梁」(出典:茨城県の近代化遺産 P200)

「日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2000選」に選ばれている。

現場は樹木が繁り、河川もあり人を近づけないほど危険な場所で撮影できなかった。

 

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8-1 佐和ー東海間にある「高野疎水隧道」(ひたちなか市)。旧日本鉄道の磐城線(現在の常磐線)が開業した1897(明治30)年2月に竣工している。手前の煉瓦アーチ部分の上が、上り線になっている。アーチの巻厚3枚、要石なし、上端部は斜めになっている。奥の方は複線化のため拡張された鉄筋コンクリート造の隧道になっている。

 

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8-2 岩間ー友部間にある「小泉アーチ橋」(笠間市)。アーチ部は巻厚5枚、長手積、要石なし。側壁・坑門・翼壁(ウイング)は石材を使用。近くに稲田・真壁などの石の産地があるため、石材を多用したと見られる。複線化のために増設した部分は鉄筋コンクリート造ではなく、煉瓦及び石材を使用し単線時と同じ様式で造られており、全体が一体化している。

 

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9-1 江連用水旧溝宮裏両樋 江戸幕府の治水墾田策により、下妻以南から水海道に至る広大な湿地が開田されたが、上流は水不足、下流は冠水に悩まされた。1829(文政12)年江連用水が完成し農民の生活は安定した。用水路が老朽化したので、1900(明治33)年神社の裏に東西各3.6mの二連の煉瓦造の樋門を完成させた。

 

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9-2 江連用水旧溝宮裏両樋 1975(昭和50)年代に江連用水の流路が変更されたため、旧水路は排水路として利用されていた。その後、雨水幹線水路が完備され役目を終えた。歴史的に貴重な施設として、「日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2000選」に選ばれ保存されている。

 

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10-1 亀屋商事(旧飯島製糸)煉瓦倉庫 県道を隔てた向かいの敷地に南北棟で建つ。桁行約27.3m(15間)、梁間約5.46m(3間)規模の長大な煉瓦造2階建倉庫で、壁は1枚半厚のイギリス積、屋根は切妻造、桟瓦葺とする。1階の南北両妻壁を東方に延ばし下屋庇を架け、2戸口を設ける。製糸業の繁栄振りを物語る遺構。登録有形文化財(建造物)に2004年6月9日に登録されている。(出典:文化庁データーベース)

 

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10-2 亀屋商事(旧飯島製糸)煉瓦倉庫の南側面。窓には1階・2階ともに同じような鉄板張りの両開の開閉扉がある。煉瓦倉庫の全部の窓及び出入口には同じような鉄板張りの扉が設けられている。竣工は明治後期と記されている。

 

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11 五木宗レンガ蔵 鬼怒川左岸に発達した河岸問屋のひとつである五木田宗右衛門家の3階建煉瓦造蔵で、「五木宗レンガ造りの蔵」として親しまれている。腰積、胴蛇腹、開口部廻りなどに焼過煉瓦を使用した丁寧な造りになり、内部を構造補強し資料館等として活用されている。登録有形文化財(建造物)に2000年4月28日に登録されている。(出典:文化庁データベース)。別資料では1882(明治15)年建築、煉瓦は敷地内で焼成、施工は程田和平、所有者は五木田家で敷地内に居住している。

 

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12-1 青栁新兵衛商店煉瓦造店蔵 主屋と煉瓦造店蔵は1910(明治43)年に新築したという。陸軍近衛師団の演習視察に来られた若き皇族の宿舎に指名されたからである。その方は陸軍大将にまで昇任し、終戦直後には総理大臣に就任された東久邇宮稔彦殿下であった。店蔵には地上から2階軒下まで防火目的のため、煉瓦造の「うだつ」が造られている。

 

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12-2 青栁新兵衛商店 煉瓦造通用門 青栁家は高浜河岸から江戸へ米、雑穀、綿花などを船便で運ぶ廻船問屋を営んでいた。鉄道が開通した1896(明治29)年以降は石岡駅前に倉庫を建て、東京方面へ物資を運び手広く商いをしていた。屋敷内には数棟の米蔵があり、この通用門から多くの米や穀物が搬出入されたものと見られる。

 

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12-3 青栁新兵衛商店 煉瓦塀 青栁家の南側道路に面した場所に長い煉瓦塀がある。現在はやや短くなっているが、長さは66.45m(約36.5間)、高さは3.2m(約10尺6寸)、厚さ33.3cm(煉瓦1枚半)、イギリス積み、塀の上部には日本瓦が葺いてある。煉瓦塀の表側に帯鉄を4列取り付け、裏側に鉄製の補強材を設けて転倒防止の対策が採られている。

 

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13.旧福徳銀行水海道支店 1923(大正12)年頃水海道の商店街の中心地である宝町に建設された。大理石造りの荘厳な建物は町の自慢であった。金融界の吸収合併・再編成により数回名称を変えた後、市の所有となり市指定文化財になっている。東京駅と同じ小口の下駄っ歯積みであるか、煉瓦タイル貼りであるか、見解がわかれるところである。県内には類似の建築物が希少であるため番付に加えた。

 

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14 旧町屋変電所 1911(明治44)年1月から旧太田町などに電気を供給した町屋発電所の変電施設。せいの高い切妻屋根、煉瓦造建屋の北側に棟を落とした寄棟屋根の建屋をつなげる姿形をとる。寄棟建屋部分の西側及び北側の一部を煉瓦壁で造る。県内初期発電関連施設の遺構として貴重。建設は1909(明治42)年頃。登録有形文化財(建造物)1999年8月7日登録。(出典:文化庁データベース)

 

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15-1 北用水樋門 県は従来石や木や竹で造っていた堰などを煉瓦造に改修する事業を1900(明治33)年代に勧めた。北相馬郡利根町大字立木の用水路に建設された北用水樋門もその一つである。70~80年稼働した煉瓦造堰や水門は、老朽化で鉄筋コンクリート造に改築された。北用水樋門は改修の必要性が低く残存じた。

 

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15-2 北用水樋門 正面幅は約5.6m、配水口は幅約1.7m、高さ約1.0m。配水口の両側はすべて鼻黒煉瓦の小口積みで、曲線施工をしているのが特徴である。関谷忠正(茨城県技師)が設計した多くの煉瓦造水門の中でほぼ完全な形で残る唯一の水門である。曲線の翼壁上に石材を並べ、石の白さと煉瓦の色が見事に調和した美しい樋門である。

 

    ◎日本赤煉瓦建築物番付 茨城県場所 令和元年八月 

        勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

 すでに、「日本赤煉瓦建築番付関門場所」及び「日本赤煉瓦土木番付」を本ブログで紹介した。しかし、上記の番付表に載っていない赤煉瓦建築物が各地域にはかなり多く存在している。今回、茨城県内で愛され親しまれている赤煉瓦建築物を番付表にならって編集することにした。番付表は昔から、東西に分けて作成すべきであるが、ここでは大相撲の格付を参考にして順位を決めるようにした。「茨城県内赤煉瓦造ベスト30」とでも思っていただければありがたいです。

 赤煉瓦をこよなく愛し、全国の赤煉瓦造を全部見て廻るのを生涯の目標にしている者が、行司役として茨城県の赤煉瓦建築物の番付を写真付きで、まず1位~5位までを発表します。

横綱・・・・1.(牛久市)牛久シャトーカミヤ(重要文化財3件)

大関・・・・2.(稲敷市)横利根閘門(重要文化財1件)

関脇・・・・3.(阿見町)イセキ農機(旧霞ヶ浦海軍航空隊中央格納庫群)

小結・・・・4.(坂東市)反町閘門(登録有形文化財

小結・・・・5.(北茨城市大津港駅前煉瓦倉庫

 

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1-1 牛久シャトーカミヤの本館(事務棟:重要文化財、1903(明治36)年竣工

 

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1-2 牛久シャトーカミヤの本館:塔屋(時計台付)

 

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1-3 牛久シャトーカミヤの玄関出入口、昔は収穫したブドウを運ぶトロッコ軌道が

ブドウ畑から、向こうの醸造棟まで敷かれていた。

 

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1-4 牛久シャトーカミヤの醸造棟(重要文化財)現:神谷伝兵衛記念館になっている。

 

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1-5 牛久シャトーカミヤの醸造棟の右側部分、丸窓と2階窓上部のアーチが美しい。

 

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1-6 牛久シャトーカミヤの醸造棟の地下室にブドウ樽が並ぶ、煉瓦壁にはカビが

付着している。

 

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1-7 牛久シャトーカミヤの貯蔵庫(重要文化財)煉瓦は美しく痛んでいない。

 

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1-8 牛久シャトーカミヤの貯蔵庫 現:レストラン・キャノン(休業中)。

 

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2-1 横利根閘門(重要文化財):利根川と横利根川霞ヶ浦)の水位の調整・霞ヶ浦沿岸地域の治水、舟運の役目、わが国で最大の規模をもつ煉瓦造閘門である。 

 

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2-2 横利根閘門:閘門の大きさ有効長90.9m、幅員10.9m、深さ平均2.6m。

 

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2-3 横利根閘門:撮影した時、香取神宮の御座船が通過した。

 

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2-4 横利根閘門:複式閘門複扉式の閘門であり前後に大小4枚・計8枚の扉を有する。

御座船は利根川方向に航行している。扉4枚が開いている。

 

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2-5 横利根閘門:石材やコンクリートも大量に使用したが、煉瓦は約280万個を使用。

 

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3-1 イセキ農機(旧霞ヶ浦海軍航空隊中央格納庫群)(以下中央格納庫群という)。

 1921(大正10)年霞ヶ浦飛行場が開設された。英国から110機の飛行機を購入し、操縦・整備等を教えるセンピル大佐ら教官団が来日した。

 

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3-2 イセキ農機(旧中央格納庫群):彼らの助言で約1,650㎡(500坪)の整備工場と

約1,320㎡(400坪)の格納庫5棟が1924(大正13)年に飛行場の中央に完成した。

 

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3-3 イセキ農機(旧中央格納庫群):1932(昭和7)年の記録では、第1格納庫には、三式陸上練習機14機、第2・3・4格納庫にはそれぞれ十式艦上偵察機14機、第5格納庫には、一三式艦上攻撃機4機、三式陸上練習機8機を収容していた。

 

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3-4 イセキ農機(旧中央格納庫群):整備工場は各格納庫の真中に配置し、発動機修理・金属加工などの作業をしており、飛行機の中修理程度の工作設備を持っていた。

 

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3-5 イセキ農機(旧中央格納庫群):建物は鉄骨煉瓦造の平屋で、煉瓦は壁部のみ使用で1枚積み、煉瓦は深谷の日本煉瓦製造株式会社製(上敷免製造)。

 

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4-1 反町閘門:1900(明治33)年竣工、煉瓦造三連アーチ式の閘門。

 

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4-2 反町閘門:利根川から飯沼新田への逆流防止のための閘門。坂東市大崎の茨城県自然博物館の敷地内に1994(平成6)年に復元された。

 

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4-3 反町閘門:建設にかかわる記録が残されており、発注者の煉瓦見積枚数362,500枚

受注者の煉瓦見積枚数362,500枚。煉瓦積の職人の日当・手伝人の日当など業種別比較などの資料が残されている。

 

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4-4  反町閘門:裏側中央部 開閉扉は一方弁の役目、逆流防止が目的。手前が上流。

 

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4-5 反町閘門:裏側左部分。 

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5-1 大津港駅前煉瓦倉庫:夏の頃、左側の袖の部屋で観光案内とお土産を販売していた。

 

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5-2 大津港駅前煉瓦倉庫 煉瓦造としては意匠が良く、名のある技師が設計したものと見られる。

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5-3 大津港駅前煉瓦倉庫 建物は三区画に別けられている。中央部の窓には鉄格子が付いており貴重品か重要書類を保管していたと見られる。

 

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5-4 大津港駅前煉瓦倉庫 夏季の頃、観光案内所になっていた。

 

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5-5 大津港駅前煉瓦倉庫 中央部の2階部分には鉄格子があり、貴重品か重要書類が納められていたのか。

 

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5-6 大津港駅前煉瓦倉庫:右側部分の妻面、煉瓦の積み方に特徴がある。

 

以上、今回は1位~5位までを多数の写真付きで紹介した。次回は写真の枚数を減らして、赤煉瓦建築物を多く紹介したい。(Y.S)

 

 

 

                                             ◎2つのレンガの物語 

 

 東京産業考古学会の八木司郎会長の赤レンガブログにある「赤レンガ番付」を見ていて、浦賀船渠(横須賀市)」「半田赤レンガ建物(愛知県半田市)」を結びつけるあるエピソードを思い出しました。

 

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            (横須賀市浦賀にある浦賀ドック跡)

 

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         (愛知県半田市にある旧カブトビール工場)


 浦賀船渠(せんきょ=ドック)という会社は、明治30年に横須賀市浦賀に設立されました。当時の日本にはドック築造の技術がなかったため、ドイツ人技師のボーケルを雇いました。
(参考:ボーケルは日本人女性と結婚、浦賀に常駐。その2人の娘はたいそうな美人で、いずれもドイツ人と結婚したそうです)

 レンガドックを造るに当たっての課題は良質な赤レンガの確保でした。最初に依頼した業者のレンガはボーケルが求める水準に達せず、別の業者に切り替えることになり、明治31年に岡田松太郎と契約しました。

 その経緯を記している『浦賀船渠六十年史』(昭和32年刊行)に、岡田松太郎とはどこの誰なのか記されていませんでしたが、後に愛知県安城市に本社がある「岡田煉瓦製造所」の2代目社長であることが判明。

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             (赤レンガを積んだドックの内部)

 

 岡田煉瓦製造所の前身の「根崎煉化合資会社」(明治30年設立)の刻印があるレンガの現物が浦賀ドックで確認されています。

 岡田煉瓦製造所は現在も愛知県安城市にあります。

 平成9年に、社史『岡田煉瓦100年史』を刊行した時点では、同社として浦賀船渠納入の事実を把握しておらず、浦賀ドックについて調査・研究している団体「浦賀歴史研究所」のメンバーが社史刊行後に岡田煉瓦を訪問し、その旨を伝えたところ同社社長がびっくり仰天、その翌日、浦賀まで飛んできたそうです。

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 東京産業考古学会の八木司郎会長は岡田煉瓦の社長と親しく、同社の100年史も持っているそうです。

 その岡田煉瓦の社史を読むと、同社が最も誇りとしている自社製レンガを使った歴史的建造物は、愛知県半田市にある「半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)」であることがうかがえます。この建物の竣工は明治31年で、岡田煉瓦が浦賀船渠と契約した年と同じです。

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                (米軍機の機銃掃射跡)

 カブトビールという名のビールは、太平洋戦争で製造を中止するまで約50年間製造されていました。宮崎駿監督のアニメ映画「風立ちぬ-これは零戦の開発物語ですが-その映画の中に、カブトビールの広告塔が複数回登場します。名古屋駅前のシーンです。

 このビール工場の建物は戦時中、近くにあった中島飛行機の工場の倉庫として利用されていたこともあり、米軍機の機銃照射を何度か受け、その銃弾の跡が壁面に多く残っています。


 半田赤レンガ建物は一般公開されており、内部を見学することができます。現在では半田市を代表する観光名所です。

                   ◇

 なお、赤レンガ造りの浦賀ドックが完成して今年で120年になることを記念したシンポジウムが、今年11月23日横須賀市で開催されます。そこには岡田煉瓦の社長も出席されるそうです。              (K.O)

 

 

 

 

 

 

 

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            日本赤煉瓦建築番付について

 新元号「令和」になって初めての大相撲名古屋場所がはじまっている。上位になった力士は新番付表を手にして喜んでいる姿がテレビで毎回放映されている。 

  赤煉瓦ネットワークという団体がある。全国で22団体、約1000名の会員という。

 主な団体は横浜市舞鶴市北九州市半田市喜多方市敦賀市など市内にかなり多くの赤煉瓦建造物があり、その赤煉瓦をこよなく愛している人々が組織の中心になり、行政と協力し「個性あるまちづくり」をめざして活動している団体である。

 毎年1回大会が開催されており、今年で28回目になる。開催地は関西地方の最大煉瓦生産地であった岸和田市で開かれる。現在、岸和田には煉瓦工場はないが、煉瓦生産の遺構が数多く残っているという。

 2000(平成12)年、相撲の番付表にならって「日本赤煉瓦建築番付」が藤森照信氏・堀勇良氏・清水慶一氏・水野信太郎氏によって、全国で172ヶ所の赤煉瓦建築物を選び東西に別けて番付表を作成したのです。

 2013(平成25)年、北九州‣門司大会の時、「日本赤煉瓦建築番付・関門場所」として新しい番付表が藤原恵洋氏及び市原猛志氏が中心となり作成され、全国197ヶ所の赤煉瓦建築物が名を連ねている。

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 全国にはトンネル・橋梁・水路など土木事業として赤煉瓦が多用されている産業遺産がかなり存在していることは分かっていた。しかし、これまでの番付表は土木関連の赤煉瓦については除外して、建築物を対象にしたものであった。

 2018(平成30)年、横浜大会のとき小野田滋氏がまとめた「日本赤煉瓦土木番付」が

発表された。特筆すべき土木遺産については「碓氷峠鉄道施設第三橋梁」とし、他のトンネル・橋梁についてはまとめて「碓氷峠鉄道施設群」と表記している。全体としては個々の名称は少なく「琵琶湖疎水施設群」とか「紀の川橋梁煉瓦橋脚」、「日本鉄道煉瓦トンネル群(常磐線)」など群や集合体名で全国154ヶ所を東西に別けて番付表が作成されている。

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 筆者は2013(平成25)年の番付表197ヶ所の煉瓦建築物を全部見て廻ろうと考えていたが鹿児島と沖縄だけは、まだ撮影しに行っていない。さらに、「日本赤煉瓦土木番付」が発表されたので、赤煉瓦造の完全踏破は困難になったようである。

      2019年7月14日            八木司郎

 

 

 

 

         ~「三条金物」資料館のあり方~
              -収集品はどう見せるか-

 

 先日の日本経済新聞(6月26日付朝刊、文化面)に、博物館のコレクションについての記事がありました。
 鳥取県北栄町の郷土資料館が、収蔵庫が満杯になったことを理由に昨年、保存していた民具類を手放すため、他館や個人への譲渡会を開催したことを紹介した上で、全国の博物館・資料館はどこもコレクターの死去などによる寄贈や寄託の問い合わせが増えて、限られた収納スペースの中、どう対応すべきか戸惑っているとの内容でした。
                ◇
 この記事を読んで、産業考古学に何十年も関わっているB会員(80代)が、産業遺産の収集・保存問題について以前語っていたことを思い出しました。

「集めることもそうだけど、集めたモノをどう保存・展示していくかも難しい問題。資料館の責任者が代わって、それまで苦労して収集したものがすべて廃棄処分になってしまったケースや、集めたのはいいが、地下の倉庫に眠ったままになっているものもあるしで…」と。

 

 思うに産業遺産・遺物類に対する一般の人たちの関心、理解があまり高くなく、その「評価」が多様なことが一因ではないでしょうか。「産業遺産」とは言いますが、そもそもは役目を終えてカネを生まなくなった遺物、ゴミですから。遺産なのか、それともただのゴミなのか、判断は分かれます。
                  ◆
 先日、JR東日本の大人の休日倶楽部切符(4日間連続使用で1万5千円)で新潟県三条市に行ってきました。包丁、はさみなど「三条金物」で全国的に知られた町です。

 

 北三条駅のすぐ南側にある三条市歴史民俗産業資料館」にぶらりと立ち寄りました。入場料は無料でした。平日の昼下がり、見学者は私の他、コンパクトカメラで展示品をパチパチやっていた30代風の女性と、すべての展示物をじっくり丁寧に見ていた70~80代の男性の2人のみ。(2人はそれぞれ何の目的で来たのでしょうか?)
資料館の職員は事務所の奥の方で何やら忙しそうで、展示会場には姿を見せませんでした。
  鍛冶屋の仕事場を再現したセットがありましたので撮りました。下の写真。

 

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               (ノコギリ鍛冶の仕事場)

 展示は特に良くもなく悪くもなく、想像の範囲内でしたが、気になったのは、入口近くの壁に掛けられた大きめのパネル(A2~A1サイズ程度)に博物館・資料館の意義と役割が長々と記されていたことでした。


 それもごく一般的かつ平凡なことだったため、かえって驚きました。敢えてこうした文章を掲げる意味は何でしょうか。

 想像ですが、見学者がまばらな資料館の維持・運営に、税金を投じることに一体どれだけの意味があるのか、との市民の声があったのではないでしょうか。

 三条市地場産業の金物で栄えた町ですが、今はどこの地方都市もそうであるように、町中に人影はまばらで、閉めた工場や飲み屋が目に付きました。

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     (廃業して数十年になるという料亭。「味わいのある建物なので
      保存・活用が検討されたが、修理費用がかなりかかることが分
      かり、計画は断念され、いずれ解体されるようだ」とは近所の
      人の話)

                  ☆


 Bさんに話を戻すと、こうも言っていました。


 「産業遺産の見学会で何年か前に佐渡に行ったんだけど、廃校となった教室に漆塗りのお膳やお椀がずらっと並べてあって、それはその町の人たちから寄付された“生活遺産”とも言えるものなんだろうけど、展示物はどれも色褪せ、歪みも生じ、いずれ処分されてしまいそうな感じだった。桐箱に入れて蔵にでもしまっておけばいいのだろうが、それでは皆に見てもらえず意味がないので、こうして展示したんだと想像した。その趣旨はいいが、高価な品がもう財産ではなくなってしまった感じで…。これもなんだか複雑な心境で寂しかったわ」と。

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        (写真は富山県の旧家の蔵にしまってある漆塗りのお膳セット。

         輪島塗のようです。このように保存すれば漆食器は痛まない

         が、広く一般の人たちに見てもらうことにはならない)

 

 産業遺産・遺物類を集めるのは結構なことだが、どう保存し、見せていくか。難しい問題ですね。                           (以上)

東京産業考古学会6月見学会」

 

                                       ●東京五輪前の大森へ

 

                                 ~ブラックペーパー(海苔)の物語~


  東京産業考古学会の6月のイベントは、大田区にある海苔の資料館『大森 海苔のふるさと館』の見学でした。

 

 海苔養殖業はかつて、東京湾を代表する食の産業でした。しかし、東京都に面する海域での海苔養殖は、1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックの前年の摘み取りをもって、長い歴史に終止符が打たれました。漁業権を放棄させられたからです。

 来年(2020年)、ふたたび東京五輪が開かれます。その前年に当たる今年、東京の海苔養殖について、改めて振り返ってみようということになりました。(…というのがワタクシメの見学会の趣旨解釈)

 

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           (開館10周年を迎えた『海苔のふるさと館』)

 

 江戸前東京湾)で生まれ、全国に波及して行った食品として、にぎり鮨、てんぷら、佃煮などがありますが、海苔もそのひとつです。大森は海苔養殖の中心となった所で、ここから全国にその技術が広がっていきました。


 海苔のことは欧米では俗称、「ブラックペーパー」と呼んでいます。黒い紙ということですね。

 大森のふるさと館には、廃業した海苔漁民が使っていた竹ヒビ、海苔切り包丁、海苔貯蔵用の瓶、ベカ舟などさまざまな用具が展示されています。

 

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           (天日干しの海苔。“ブラックペーパー”です)

 

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       (海苔漁で着た厚手の半纏。袖の長さが左右で違うのは、作業をし

        やすくするため利き手を短くしたため)

 

 昭和35年撮影の大森周辺の大きな航空地図が壁面に貼ってありました。海の上に赤いシールがあり、そこが現在のふるさと館の場所とのこと。地図をよく見ると、旧呑川など東京湾に注ぐ小さな川の流域に、米粒のようなものが点々と並んでいます。海苔採りに使う「ベカ舟」です。


 ふるさと館の学芸員から説明を受けました。


 「昭和37年12月に東京都の全区域、17漁協、約4千戸の漁家が漁業権を放棄させられ、一斉に生活の根拠を失いました。最後の海苔の摘み取りは東京五輪が開かれた昭和39年の前年の春でした」「補償金は多い家では約3千万円。若い漁師は町工場に働きに出、役目を終えた海苔干し場は、多くが補償金で建てたアパートになりました」

 

         ~ ◇         ◆          ◇~

 

 10数年前、海苔の産業遺産を調査したことがあるワタクシメとして、学芸員の話を以下、補足させていただきます。(自宅の押し入れから資料箱を取り出して…)

 

 べか舟が繋留されている航空写真があった呑川ですが、1982(昭和57)年に埋め立てられて緑地帯になり、地元の人たちの散策の場になっています。そこを歩くと、今日では建て替えなどでかなり減りましたが、それでもブルーやグリーンの波形トタンを張り巡らした2階建てのアパートをあちらこちらで見ることが出来ます。空き室が目立ちますが。

 

 漁業権を放棄させられた海苔漁師たちは、建てたアパートの賃料で生活費をまかなうことにしたのです。住所で言えば、大森東や大森南あたりで多く見かけます。筆者はこれこそが、海苔産業が残した産業遺産だと考えています。歴史的建造物なのです。

 関係者に聞きますと、一般的なアパートは6畳一間か4.5畳一間で、風呂はなく、トイレは共用だったそうです。

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     (呑川を埋め立てた緑道沿いに建っているトタンふきのアパート。
       2004年撮影)

 

 それぞれの漁家が保有していた海苔干場(畑)の面積は様々ですが、平均的なアパートの建築費は300万円程度だったそうです。


 漁業補償は、対象となった都内の17組合(組合員4,190人)で、総額330億円が支払われました。単純計算で1組合員当たり1,180万円ということです。

 

 補償金交渉が決着した1962(昭和37)年当時の銀行の1年定期預金利息は5.5%でした。税金など除外して計算すれば、年間利息は月換算で5万4千円です。住む家さえあれば老夫婦2人は働かなくても利息だけでなんとか食べていける額といえます。
 

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      (海苔漁師が建てた代表的なアパート。2008年撮影)

 

 ちなみに前回の東京五輪で金メダル取った女子バレーボールチームの大松博文監督(当時、大日本紡績の資材係長、42歳)の月給は約6万5千円、キャプテンの河西昌枝さんは、寮費などを引かれた後の手取りは約1万8千円だったそうです。

 

 大森沖で最後の海苔摘みがなされて56年経ちました。今年5月から元号は令和。まさに昭和は遠くなりにけり…、ですね。

 

                  以上、ツキナミかつ平凡な締めでした。