◇道の駅駅長は、芥川龍之介の孫

 

  先日、八王子の絹遺産見学会報告の中で、八王子の道の駅「八王子滝山」について書いたら、見学会に参加した方から、以下の情報が寄せられました。

 

 「あの道の駅の初代駅長は、作家の芥川龍之介の孫、芥川麻実子(まみこ)さんが務めた。作曲家・芥川也寸志(龍之介の三男)の長女で、1948年生まれ、道路絡みの仕事をしているみたい」とのことでした。

 

  そういえば、見学会の時にガイドの方が「龍之介の孫」のようなことを言っていたのを思い出した次第です。龍之介の孫、覚えやすい“肩書き”です。

 

 それにしてもなぜ、道の駅の駅長なのか、ネットで調べてみたら、彼女は交通評論家を名乗り、元・首都高速道路協会理事だったらしいです。道路環境プランナーという肩書きも持っているそうですが、この肩書きを持つ人は他におらず、「自分でかってに付けた」とのこと。なかなか柔らか頭、ユニークな方のようです。

 

   で、連絡してきた人に、どこで彼女のことを知ったのかと聞いたら、その人曰く、「近くの図書館に行ったら、田端文士村記念館のイベントビラ(下の写真)が置いてあって、そこに河童忌(竜之介の忌日)の特別企画『芥川竜之介の“孫対孫”対談』」として麻実子さんと、芥川比呂志の三女、耿子(てるこ)さんが対談するとあったので」とのことでした。

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   ご関心がある方は7月1日必着で同記念館に申し込んでみてください。

  産業遺産とはあまり関係がない話でした。                (了)



  

●八王子「絹の道」見学会

                                            ●八王子「絹の道」見学会

 

  群馬、長野、栃木県など関東の絹関連産業遺産にはこれまで何度か足を運びましたが、東京に住みながら八王子にはまだ行っていませんでした。そこへ知人から「産業考古学会」の“八王子絹織物遺産見学ツアー”があるので参加しないか、との誘いを受け、このほど出かけてきました。

 見学会は貸し切りバス(参加者約30人)で、八王子市郷土資料館からスタートしました。

 

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    (八王子郷土資料館の内部。木綿などの太い繊維を織る地機<じばた>と、

     八王子の織物に関する資料))

 

 市内には意外と絹織物関連の施設が残されていないことを早い段階で知ることになります。関東で絹織物の街といえば桐生市ですが、八王子は比べものになりません。桐生には今でもノコギリ屋根の織物工場が点在していますが、八王子は一体どこにあるのでしょうか、まったく見当たりません。

 ガイドの方は、「ノコギリ屋根工場はかつてあちこちに普通にあったのに…。歴史的遺産の保存に八王子は熱心でない」とコメント。

 

                 ▽絹の道へ

 八王子の絹遺産と言えば誰もが思い浮かべるのが「絹の道」です。安政6年(1859年)の横浜開港で、絹が日本の最大の輸出品になったのですが、絹の一大集積地になった八王子から横浜へ運ぶルートが絹の道でした。

 現在は八王子市内の約1.5キロの道が市の史跡に指定されています。写真がそれです。

 

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               (木立に囲まれた絹の道)

 見学会参加者の中に約30年前にこの道を歩いた人がいて、「当時は今よりえぐれていて、歩くのが大変だった。マムシがよく出没、近くの学校の下駄箱にとぐろを巻いていたのを見たことがある」と。

 

 絹の道は「絹の道資料館」(八王子市鑓水989-2)からすぐです。


 車通りから絹の道に入る所に花崗岩でできた道標があって、そこには「鑓水(やりみず)停車場」(注:読み間違いでなければ)とありました。しかしその停車場は完成しませんでした。この碑が建てられた昭和2(1927)年には確かに停車場を設ける計画がありましたが、同年に起きた昭和金融恐慌、その2年後の世界恐慌で絹市況が暴落、鉄道敷設計画は頓挫してしまったのです。鉄道を計画したのは「鑓水商人」でした。

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        (鑓水停車場と書かれた石碑。停車場は幻となった)

 鑓水商人というのは、八王子を中心に活躍した絹商人で、絹を安い時に仕入れ、高くなってから横浜に出すことで成功、富を築きました。絹輸送は馬車でした。


 しかし、その繁栄も鉄道が敷設されるまで。明治22(1889)年に甲武鉄道(現・JR中央本線)、明治44(1911)年に横浜鉄道(現・JR横浜線)が開通すると、鑓水商人を介さず、自分たちで横浜まで絹を出荷する製糸業者が増えたのです。これに危機感を覚えた鑓水商人は自分たちで鑓水地区から八王子まで鉄道を敷設することを計画したという次第です。

 恐慌で鑓水商人は完全に没落してしまいました。

 

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     (車通りから右手に入った細い道が絹の道。撮影者の背後に「絹の資料

      館」がある)

 

 八王子駅に戻るバスが「絹の資料館」を離れて間もなく、「左手に見える大学が“タマビ”で知られる多摩美術大学です」とのアナウンス。「八王子は絹産業がダメになり、税収が落ち込んだので、学園都市構想を打ち出しました。都心の大学を誘致したのです。結果として30校ほどが移転して来ましたが、近年、大学の都心回帰の動きが出て、このままではまた寂れるというので、別の新たな活性化策を検討しています」と。

 その活性化策の説明がありましたが、他の自治体でも考えていそうな内容でした。果たして人を呼び込めるでしょうか、ちょっと心配に感じたのは私だけでしょうか。

 

             ▽賑わう道の駅


 見学会の最後は、道の駅「八王子滝山」。東京都で唯一の道の駅だそうです。地元の野菜・果物や畜産物、ソフトクリーム、ジェラートなどがなかなか人気。八王子の人気スポットとのこと。なるほど、納得。こっちの方は成功しているようです。

 

 八王子の“栄枯盛衰見学ツアー”でした。              (K.O)
   

 

◎セルロイドと林芙美子

         ◎セルロイド林芙美子

 

 セルロイドハウス横浜館に行った方のブログを拝読して、昨年、新宿区中井にある林芙美子記念館(林芙美子の旧宅)を訪ねた際、ボランティアガイドの方から聞いた若い頃の芙美子の苦労話を思い出しました。

 

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         (林芙美子の旧宅。現在は「林芙美子記念館」)

 

 芙美子は1903(明治36)年に行商人の両親の間に生まれ、家が貧しかったことから一家は住居を転々とし、芙美子は学校に行くこともままならず、様々な仕事に就いて生活費を稼ぎます。

 彼女の『文学的自叙伝』を読めば、いかに多くの仕事をしてきたかが分かります。「只、働きたべるための月日をおくりました」と記しています。女中、株屋の事務員、雑貨の夜、毛糸店の売り子、代書屋、カフェー…。

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              (芙美子が描いた自画像)

 その一つにセルロイド工場がありました。1924(大正13)年頃です。彼女は別の所に書いています。


セルロイド玩具をつくる工場に、女工として通つてゐました。(中略)セルロイド工場では、私は朝も夜もキユーピーや蝶々の色づけをしました。(中略)私はキユーピーや蝶々に埋れて、始めて自分の人生をとりもどしたように、本を読んだり、散歩をしたりするようになりました」。

 『放浪記』でブレークし、本格的な作家生活が始まるのはその6年後です。貧困生活からの脱出でした。

 

 芙美子が亡くなって今年で68年になりますが、両親とともに放浪してきた九州の炭鉱、尾道の造船所、そしてセルロイド工場等まで、その足跡は日本の産業史と重なります。

 セルロイドハウス横浜館訪問ブログに接し、林芙美子を懐かしく思い出した次第です。


                            (以上)

 

 

セルロイドを見に行ってきました

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セルロイド人形

            ◎世界最大のセルロイド
         
 去る5月11日(土)午後、セルロイドハウス横浜館(注1)を見学した。 参加者は、中高年の勉強会の「たまごクラブ」(市川市民が中心)の会員7名であった。
佐藤館長代理からまず概要のお話があった。同館の収蔵品は約10万点で、およそセルロイドに関するものはすべて収集展示されており、世界最大唯一のセルロイド博物館である由。

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セルロイドの接見箱

 

  セルロイド製品の製造工程のビデオを鑑賞したあと、同氏のご案内で、1階から3階までキューピー人形を初め各種製品、工程、製造機器、文献等を見学した。終わって岩井館長から歓迎のご挨拶を頂き、茶菓の振る舞いがあって懇談した。

 参加者から、「祖父が都内でセルロイド製品の製造に携わっていた」との話があり、一同、戦後のセルロイドが日常生活の様々な用途に使用されていた時代を懐かしく想起して見学を終了した。

 なお、同館の開館日は土曜日のみで、要予約です。

(注1)所在地は横浜市港北区高田東1-1-20。

電話:045-549-6260。

 

            (東京産業考古学会理事・平井東幸)

                               ●日立に吹くアートの風


                                 新田次郎妹島和世

 

  世界的な女流建築家・妹島和世氏がデザインを監修した西武鉄道の新型特急がこの3月に運行を開始したとのニュースを聞くや、彼女の出身地である茨城県日立市に思いが飛び、このほど訪れてみました。日立製作所の源流の町です。
 旅の目的の一つは日立駅舎を見ることです。

 

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        (妹島和世氏がデザインを担当したJR日立駅舎)

 

 2011年に完成したJR日立駅舎も妹島氏がデザインを監修しました。駅に付属する長さ139メートルの自由通路はガラス張りで、海側に行けば太平洋を眼下に約120度展望できます。鉱山と重電の町、日立のイメージを一新する粋なデザイン。14年に鉄道の国際デザインコンペで「ブルネル賞」を受賞しました。


 日立市は、久原房之助が赤沢銅山を買収して日立鉱山として開業後、急速に発展した町です。日立鉱山の電気機械修理工場からスタートしたのが日立製作所です。
 妹島和世氏の父は日立製作所に勤務していたエンジニアでした。

      

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           (保存されている堅坑)

 日立駅からバスで山側へ約30分行った所にある「日鉱記念館」。日立鉱山跡地に建つ同記念館は1985(昭和60)年にオープンしました。現在のJX金属グループになるまでの歴史を紹介する本館のほか、2つの竪坑、かつてのコンプレッサー室を活用した鉱山資料館などがあります。

 鉱山町としてかなり栄えたはずなのに、少なくともバス通りからは、鉱山関連施設跡は不思議なくらい見当たりません。足尾や別子、小坂などは赤レンガ建造物などがあちらこちらに残っていますが、日立にはこれといったものがないのです。不思議です。


 最大の産業遺産はなんといっても、1914(大正3)年に建てられた大煙突です。完成時の高さ156メートルは当時、世界一でしたが、1993(平成5)年に突然、根元3分の1を残して倒壊しました。


 日立の産業遺産は他に、劇場として使われていた旧「共楽館」(大正6年築)ぐらいで、地元で生まれ育ったという同館の管理人は「このあたりに鉱山住宅が立ち並んでいたけど、もう何も残っていないよ」と。

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               (旧共楽館)

 駅の観光案内所でもらったパンフによると、鉱山電車跡やカラミ(銅鉱石を溶かした際に出るかす)跡などがあるようですが…。

 こうした中、目に付いたのは映画『ある町の高い煙突』のポスターです。同名の新田次郎の小説(昭和44年発表)を映画化し、この春に完成したばかりとのこと。6月から一般公開されるそうです。


 煙害対策として立てられた高い煙突は、新田次郎という著名な作家の作品で紹介されて全国的に知られ、町のシンボルとなったのです。

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               (映画のパンフ)

 

 水俣病をテーマにした石牟礼道子の『苦海浄土』、足尾鉱毒事件を扱った志賀直哉立松和平の文学作品もそうですが、公害の歴史を後生に伝える上で大きな力になるのは文学作品作で、そうした作品がないところは記憶から消えて行きます。


 文学も建築も広義のアートです。鉱山と重電の町・日立は、新田次郎妹島和世の2人によって改めて注目されているといえるでしょう。


 ちなみに妹島和世は2010年に建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞を受賞。父、妹島五彦は大阪大学工学部を卒業して日立製作所に入社、溶接学会フェローを受章するなどした優れたエンジニアでした。妹島和世のご両親は素晴らしい方だったようです。(敬称略)


 これについては改めて記します。             (続く:K.O)

 

         ●新紙幣の渋沢栄一、その旧邸見学へ

           ●新紙幣渋沢栄一、その旧邸見学へ

 十条跨線橋の保存運動に取り組んでいるわが「東京産業考古学会」は、同橋があるJR東十条駅の見学会を企画、3月23日に催しました。

 同時に、王子駅の隣りにある飛鳥山公園内の「渋沢史料館」と「旧渋沢庭園」も見学しました。言うまでもなく、「日本資本主義の父」と称された渋沢栄一ゆかりの施設です。


 新紙幣が2024年度に一新され、一万円札の肖像画渋沢栄一が選ばれたこともあり、現地へ行きたくても行けない方のために、学芸員解説付き見学記をご報告します。

                  ◇

 各施設についての概要は、関連のホームページ(HP)等に詳しく記されていますので簡単にし、学芸員氏によるあまり知られていない話を中心に紹介したいと思います。(※聞き間違い等があればお詫びします)

 

●旧渋沢庭園の主な施設

 

<アクセス>
・所在地は、東京都北区西ヶ原2-16-1です。

・JR京浜東北線王子駅南口から歩5分、東京メトロ南北線西ヶ原駅から6分のところにあります。飛鳥山は桜の名所として江戸時代から知られ、花見シーズン中は、はとバスのコースにも組み入れられています。

 渋沢栄一がかつて保有していた飛鳥山の土地は2万8千平方㍍(8,470坪)ありましたが、太平洋戦争中の空襲で多くの建物が消失したこともあり、現在は青淵文庫や晩香廬などがある旧渋沢庭園だけになっています。

▽青淵文庫

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青淵文庫

 青淵文庫は、栄一の傘寿(80歳)と子爵昇格のお祝いを兼ねて1925(大正14)年に竜門社から贈呈された建物です。ステンドグラス、テラス、絨毯など随所に「壽(ことぶき)」の文字が目に付きます。

 床の絨毯には、壽の文字とともに、蝙蝠が描かれていました。
 蝙蝠の「蝠」は、旁(つくり)が「福」と同じなので、福を招く動物とされ、中国など東アジアでは吉祥文様としてよく使われています。

 中華料理店で、「福」の文字を逆さにして掲げているところがありますが、「倒福」(とうふく)といい、天井などからぶら下がる蝙蝠のイメージにつながるのだそうです。

 

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青淵文庫の内部

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青淵文庫床の蜘蛛模様のカーペット

 ▽晩香盧 (※建物の内部は撮影禁止です)

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晩香盧の外観

 

 喜寿(77歳)を祝って清水組(現・清水建設)から贈られた洋風茶室。賓客をもてなすため利用されました。

 建物そのものが工芸品といっていいかと思います。「見れば見るほど随所にこだわりがある」とは学芸員氏の弁。


 例えばシェード。薄く剥がした淡貝を使用しています。この他にも2カ所、「ステンドグラスの縁」と「壁」に貝を使い、独特の雰囲気を醸し出しています。壁に使った貝はアオガイ栄一のを砕いて塗り込めてあるそうです。

 建物や調度品には、アーツ・アンド・クラフト運動(19世紀後半に英国で始まった美術工芸運動)の影響が見られます。 

 

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晩香盧の室内

 ▽渋沢史料館

 渋沢栄一(1840-1931)の生涯を紹介する資料が展示されています。

 栄一は、約500の企業の設立・育成に関わり、約600の社会事業にタッチしました。事業に対する考えは、「金儲けは道徳的に正しいものでなくてはならない」というものでした。それは「道徳経済合一説」という考えで知られています。


 栄一は不動産事業を嫌いました。土地の値上がりが生む利益は投機だからです。

 栄一が亡くなって今年で88年になりますが、「今日でもしばしば雑誌等で栄一が紹介されるのは、その理念と行動に学ぶべき点が多いからでしょう」と学芸員氏。納得です。

(※撮影は禁止されているところがあります。ご注意ください)

 以上、東京産業考古学会の見学会報告でした。

 ★当学会はどなたでも会員になれます。毎月開催している講演会、勉強会を一度覗いてみてください。


東十条駅跨線橋見学記は別の機会に改めて記します。以上です

 

                            ●歴史ある英国製橋の保存を③


                          ~旧江ヶ崎跨線橋「第3の人生」~

 

 1929(昭和4)年に建設された新鶴見操車場に、2009(平成21)年まで80年間架かっていた旧江ヶ崎こ線橋は、不要になった3つの橋を移設・ドッキングして造られたものです。

 一つは、先に説明した英国コクラン社製の旧荒川橋梁。もう一つは、1896(明治29)年に日本鉄道土浦線(現・JR常磐線)の旧隅田川橋梁にかかっていた橋で、英国ハンディサイド社製です。(残り1つはどこから転用したのか不明)

 旧江ヶ崎跨線橋は撤去後、英国コクラン社製の一部はモニュメントとして保存展示されたわけですが、ハンディサイド社製の橋は、横浜市中区新山下地区にある新山下運河を渡る「霞橋」に再利用されています。

 

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              横浜の「霞橋」

 この霞橋は、横浜の観光名所である「港の見える丘公園」の展望台に立つと、ほぼ真下に見えます。かわらけ投げでもすれば、当たるかもしれないと思われるほどの近さです。

 橋の権威である伊東孝・元日本大学教授は、コクラン社とハンディサイド社という2つの英国メーカーの橋について、「1880年代から90年代にかけての時期は、英国製のトラス橋から米国製の橋への転換期にあたり、残されている橋は歴史的価値が非常に高い」とのことです。

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港の見える丘公園から見た「霞橋」(中央のやや左手)

 真っ白な霞橋は、周囲の風景にすっかり溶け込んでいます。通る車も少なく、その分、負荷がかかっていないようで、申し分のない「第3の人生」といえるかと思います。

 霞橋の袂には、この橋の長い歴史と特色を記した説明板が2箇所立てられ、大切にされていることを感じます。
 なお、この霞橋は土木学会の田中賞を2013年に受賞しています。

 

 十条跨線橋についても是非、霞橋のような第3の人生を歩んで欲しいものです。

                             (おわり)