産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

      ◎日本赤煉瓦建築物番付 神奈川県場所  令和二年十一月

          《ベスト30》のうち 1~5位

        勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

 《順位》 《所在地》  《 名 称 》

 横綱・・・・1. (横浜市)横浜新港埠頭倉庫及び旧税関事務所遺構

 大関・・・・2. (横須賀市猿島砲台跡

 大関・・・・3. (横須賀市)千代ケ崎砲台跡

 関脇・・・・4. (横浜市)横浜開港記念会館

 小結・・・・5. (横浜市横浜市西谷浄水場及び旧計量器室跡

 

 

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 1-1 横浜新港埠頭倉庫・・・・手前が「1号倉庫」、奥が「2号倉庫」。

新港埠頭は日本で最初の近代的な埠頭として明治政府が建設しましたが、赤煉瓦倉庫もその一環として、国の模範倉庫として建設されました。

設計:大蔵省臨時建築部長 妻木 頼黄(つまき よりなか)

1号倉庫:1908(明治41)年4月着工、1913(大正2)年3月竣工

2号倉庫:1907(明治40)年11月着工、1911(明治44)年5月竣工

撮影:2002(平成14)年11月18日、(産業考古学会産業建築物分科会の見学会)

 

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  1-2. 横浜新港埠頭倉庫・・・・1号倉庫の全景。赤煉瓦倉庫は建築当初は1号倉庫・2号倉庫とも同じ大きさでした。しかい大正12年9月に起きた関東大震災によって1号倉庫の中央部が崩壊して火災を起こし、西側半分が解体撤去されたため、現在のような姿となっています。 撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日)

 

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  1-3. 横浜新港埠頭倉庫・・・・1号倉庫の全景。昭和2年から行われた震災復旧工事では、1号倉庫西側に鉄筋コンクリート壁が制作され、化粧の煉瓦が貼られたほか、1号倉庫内部に鉄筋コンクリートの補強壁の設置や2、3階にあった貨物搬出出入口の窓の変更を行っています。撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日) 

 

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 1-4. 横浜新港埠頭倉庫・・・・1号倉庫西面、鉄筋コンクリート造に化粧煉瓦を貼っている。撮影:2003(平成15)年11月8日(赤煉瓦ネットワーク横浜大会)

施設規模

      建築面積    延床面積     階 数      長 さ       幅     高 さ
    1号倉庫     2,010㎡     6,158㎡       3       76m    22.6m    17.8m
    2号倉庫     3,669㎡    11,205㎡       3     149m    22.6m    17.8m

総工事費:100万円(明治32年当時、かけそば一杯1銭8厘)

使用資材:2号倉庫のみで煉瓦約318万本、鉄骨約560屯、セメント400屯、

     鉄骨の大部分は、農商務省製鉄所(旧八幡製鉄所)製鋼材を加工組み立て。

 

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  1-5. 横浜新港埠頭倉庫・・・・2号倉庫の全景、撮影:2010(平成22)年5月16日(産業考古学会見学会)

倉庫利用の変遷(取扱貨物)

 当 初・・・・税関施設として横浜税関が管理(~昭和18年

 戦 前・・・・葉タバコ、羊毛、光学機械、洋酒、食料品

 戦 中・・・・陸海軍輸送司令部の満州向け物資を保管

 戦 後・・・・米軍が接取し、港湾司令部として使用

 1956(昭和31)年・・・・接取解除(1号倉庫:税関倉庫、2号倉庫:公共上屋)

     1974(昭和49)年(輸入)羊毛、(輸出)タイヤ、光学機械、合成樹脂

 1976(昭和51)年・・・・取引量が激変(輸出屯数、3.8万屯(昭和55)→0.4万屯)

     1986(昭和61)年(輸入)塩蔵野菜、竹ほうき(輸出)コピー機

 1989(平成元)年・・・・2号倉庫用途廃止

 1992(平成4)年・・・・横浜市が保存・活用のため1号・2号倉庫を国から取得 

 

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  1-6. 横浜新港埠頭倉庫・・・・2号倉庫の東側の全景、撮影:2003(平成15)年11月8日(赤煉瓦ネットワーク横浜大会) 

 

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1-7. 横浜新港埠頭倉庫・・・・2号倉庫の裏側の荷物運搬通路、奥の建屋はエレベーター、撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日)

 

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  1-8. 横浜新港埠頭倉庫・・・・2号倉庫の断面図、撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日)

 

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  1-9. 横浜新港埠頭倉庫・・・・2号倉庫の中央部分、撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日)。倉庫の手前に貨物列車用のプラットホームが残っている。

  

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  1-10. 横浜新港埠頭倉庫・・・・2号倉庫の3階部分の明かり採りの窓、撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日) 

 

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  1-11. 横浜新港埠頭倉庫:2号倉庫の北側にある旧税関事務所遺構・・・・「これは大正3年(1914)5月に建設された税関の事務所遺構です。レンガ造りスレートぶき、3階建のゴシック様式の建物でしたが、大正12年(1923)9月1日、関東大震災により床や屋根が焼失したため、復旧されないまま埋めもどされて荷さばき用地となっていました。「赤れんがパーク整備」のための工事のさいに発見され、現在、花壇として利用しています。しゅん工時、1階には「硝子張天井」のホールと受付カウンター、2・3階には事務所や応接室、外航船や荷役のための貸事務所がありました。ガス暖房や電気照明も完備されていました。」(解説板の原文のまま)

撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日) 

 

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  1-12. 横浜新港埠頭倉庫:2号倉庫の北側にある旧税関事務所遺構・・・・撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日) 

 

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 1-13. 横浜新港埠頭倉庫:2号倉庫の北側にある旧税関事務所遺構・・・・撮影:2002(平成14)年11月18日、(産業考古学会産業建築物分科会の見学会)

 

 

 

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2-1. 猿島砲台跡・・・・猿島要塞は横須賀市の横須賀新港沖合1.7kmに東西200m、南北450m周囲1.6kmの猿島に所在する。1881(明治14)年11月5日起工、1884(明治17)年6月30日竣工した。要塞最初期の砲台である。島内には、砲座、砲側弾薬庫、兵舎等の砲台施設、砲台間を連絡する煉瓦造隧道、隧道内の二層構造の弾薬庫、電気灯機関舎、送電施設、海岸護岸等の施設が良好に残っている。

2015(平成27)年3月10日:「史跡 東京湾要塞跡(猿島砲台跡)」として指定された。

 

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2-2. 猿島砲台跡・・・・電気灯機関舎として1895(明治28)年、蒸気タービンによる発電所が完成した。砲台のすべての電力を供給していた。白モルタル塗りの煉瓦造(自立壁)と木造キングポストトラス構造の平屋建。付属の煙突も煉瓦造である。現在は海の家・売店・管理事務所用の自家発電機が備えられ現役の建物として使われている。

 

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 2-3. 猿島砲台跡・・・・明治中期、明治政府は東京湾の守りを固めるために猿島に砲台を設けた。砲台にはフランスから輸入した27cm加農砲2門(砲座2基・各1門)及び24cm加農砲4門(砲座4基・各1門)を備え付けました。設計・施工は陸軍臨時建築署(当時)が担当し、そこで技術主任であった上原勇作陸軍工兵大尉(後元帥)がフランスで築城学を学んできた経緯から、フランス式築城方式が採用された。

  

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 2-4. 猿島砲台跡・・・・凝灰岩の岩盤が削られ切通(きりどおし)が造られ、露天の掘割になっている。両側に石造・煉瓦造の要塞施設が構築されている。通路の右側面に横穴式の煉瓦造の構築物が4個所造られている。煉瓦の積み方はフランス積。1番目と3番目は第2砲台棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)(兵舎)であり、2番目と4番目が第2砲台砲側弾薬庫である。この4個所構築物の真上の地上部に24cm加農砲の砲座4基が配置してあった。写真は1番目の棲息掩蔽部(兵舎)である。

 

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 2-5. 猿島砲台跡・・・・写真は1番目の第2砲台棲息掩蔽部(兵舎)の正面左上にある通気口(明かり窓兼用か)。切通の側面は石造であり、積み方は煉瓦のように長く切った石をフランス積のように並べて積む、西洋式の積み方。横浜の居留地のうち山手界隈でさかんに導入された積み方で「ブラフ積」と呼ばれた。

 

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2-6. 猿島砲台跡・・・・ 写真は2番目の煉瓦造構築物は第2砲台砲測弾薬庫。中には弾丸や弾薬を地上の砲座まで上げるため、井戸のようなたて穴の空間がある。重量のある弾丸を滑車で持ち上げる装置の痕跡が見られるという。 

 

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 2-7. 猿島砲台跡・・・・写真は2番目の煉瓦造構築物で第2砲台砲測弾薬庫である。煉瓦の製造は刻印から愛知県西尾市の「東洋組西尾分局士族就産所」とか「愛知名古屋東洋組瓦磚製造所之印」のものが使用されている。愛知県から船で運搬したものと見られる。湿度が高いので煉瓦や石積に苔が繁茂している。また、焼成があまい煉瓦には剥離が多く見られる。 

 

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 2-8. 猿島砲台跡・・・・塁道(通路)の右側のほぼ中間ぐらいの所に左右に上る石段がある。守備兵が砲座に駆け上がるための通路であろうか。立入禁止のため、登れなかった。出入口があり厨房か食堂と考えられる。通路の左側には、便所とか洗面所に使用したとみられる煉瓦造の構造物がある。

  

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 2-9. 猿島砲台跡・・・・塁道(通路)の奥まったところにトンネルがある。長さ90m、高さ4.32m、幅4mで、最近は「愛のトンネル」と若者の間で人気があるという。 

 

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 2-10. 猿島砲台跡・・・・トンネルの入口。 猿島要塞の写真はすべて2003(平成15)年11月9日撮影したものであり、当時はトンネルには照明が無く、また、曇りで光量が不足して写真の出来は悪かった。再度、撮影に行くように予定していたが新型コロナウイルスのため、実行できなかった。

 

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 2-11. 猿島砲台跡・・・トンネル中の西側中央に地上への階段(出入口はコンクリートで塞がれていた)があり、その南北に弾薬元庫・旧第1砲台砲側弾薬庫・同棲息掩蔽部(兵舎)などの地下施設がある。階段を登ると斜面につくられた踊場に出て、その北側の階段から山頂の第1砲台観測所と電灯所に連絡している。(パンフレット参照)

トンネルの西側には、トンネルに平行するように司令部、兵舎、弾薬庫など12室が2階建ての構造に掘り込まれているという。

 

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 2-12. 猿島砲台跡・・・・トンネルの出口。長いトンネルを抜けると第1砲台塁道(通路)で、再び露天空間になる。この露天空間の南北両端にある階段で第1砲台(27cm加農砲)の2基の砲座に行ける。このトンネルの右側には第1砲台の兵士のため煉瓦造の棲息掩蔽部(兵舎)が横穴式で構築されている。

 

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 2-13. 猿島砲台跡・・・・長いトンネルの出口の左斜め前にトンネルが見える。このトンネルは第1砲台(27cm加農砲の砲座2基)の下にある砲側弾薬庫であった。写真は砲側弾薬庫であったが、海軍が高射砲を配備した時、弾薬庫を貫通して通路(トンネル)に改築したものである。

 

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 2-14. 猿島砲台跡・・・・長いトンネルの入口と出口及び弾薬庫(トンネル)のアーチ部は長手と小口の混合積で、小口に換算すれば8枚巻である。三軒家砲台の弾薬庫のアーチ部も同じく、小口の8枚巻であった。火砲の真下にある兵舎や弾薬庫は、射撃時の衝撃(震動)が大きいので、アーチ部の施工基準は、小口の8枚巻が標準仕様であったのだろうか。

  

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 2-15. 猿島砲台跡・・・・日露戦争に勝利した明治政府は1909(明治42)年以降、要塞整理を検討する。関東大震災によって被害を受けた猿島砲台は一度も使用されることなく1925(大正14)年に除籍、その後、海軍省に所管が移り、第二次世界大戦の開戦によって1941(昭和16)年頃より鉄筋コンクリート製の円陣砲座が5座造られ高射砲が配備された。高射砲は終戦まで米軍機に向かって火を吹き続けたという。戦後進駐軍によって解体、破壊された。現在は砲台のみ残った。

  

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 2-16. 猿島砲台跡・・・・「海軍港碑」。1877(明治10)年に海軍が管理する港の範囲を示すものとして建てられた。この碑は猿島から夏島まで、海軍が管理する港の範囲を示すもの。横須賀の海が海軍港であることを表して。一辺が約30cmの安山岩の角柱で、当初は木製だったが1883(明治16)年に石柱に建替えられた。2つに折れており、つなぐと約3mの高さになる。(パンフレットの写真では4隅にステンレス製の支柱が建っている) 海軍港碑(写真)によれば左面に「南正真」「直経九百五・・・」、右面に「右江百八十・・・」「左江九百五・・・」と文字が刻まれている。下の文字を確認していないので「・・・」及び「裏面」が不明である。

 

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 3-1. 千代ケ崎砲台跡・・・・所在地:横須賀市西浦賀6-17-1ほか、指定面積:15,435.87㎡、建設年代:1892(明治25)年12月6日に起工、1895(明治28)年2月5日に竣工した。写真は千代ケ崎砲台の出入口である「柵門(さくもん)」。両側面は石積である。

千代ケ崎砲台のすべての写真は、2020(令和2)年2月7日、横須賀市教育委員会が開催した見学会において撮影した。

  

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 3-2. 千代ケ崎砲台跡・・・・「柵門」を入ると砲台を隠す土塁(どるい)があり、その前面に堀井戸がある。井戸の内面は赤煉瓦で構築されていた。「国史東京湾要塞千代ケ崎砲台跡」と墨書した木製の看板があった。

 

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 3-3. 千代ケ崎砲台跡・・・・見学会の時、配布されたパンフレットから転写。千代ケ崎砲台は28cm榴弾砲3砲座6門が配備されていた。終戦後、千代ケ崎砲台跡は長い間、海上自衛隊横須賀通信隊千代ケ崎通信所として立入り禁止であった。2008(平成20)年8月の報道で、千代ケ崎通信所が廃止になり、横須賀市が国の指定をうけ史跡として保存していくことが発表された。2015(平成27)年3月10日、猿島砲台とともに千代ケ崎砲台が国の史跡に指定された。 

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 3-4. 千代ケ崎砲台跡・・・・第1砲座に2門の28cm榴弾砲が配備されていた。東京湾は右方向である。

 

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 3-5. 千代ケ崎砲台跡・・・・射撃中の28cm榴弾砲。口径280mm、砲身2.863m、最大射程7,900m。1884(明治17)年に完成し、1892(明治25)年に正式採用、順次、全国の要塞に配備された。イタリアの技術将校を招き、指導を受けながら完成した。もともと要塞砲だから、動かさないのが原則だが、日露戦争における旅順要塞攻撃に18門外して急送し、例の203高地占領後に同高地からの観測に基づき、旅順港内のロシア艦隊を砲撃、壊滅させたことはあまりにも有名である。昭和になっても生きつづけ、分解して13屯牽引車で機動させ、満州黒竜江沿岸に13門を備えた。(出典:「日本陸軍がよくわかる辞典」PHP文庫参照)。 

 

 

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 3-6. 千代ケ崎砲台跡・・・・第2砲座:28cm榴弾砲が2門 配置されていた。東京湾は右方向。

 

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 3-7. 千代ケ崎砲台跡・・・・第3砲座:28cm榴弾砲が2門 配置されていた。東京湾は右下方向。

 

 

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 3-8. 千代ケ崎砲台跡・・・・第1砲座の砲床(衝撃を受けるため石材を敷き詰めていた)左側の黒い2本の物は28cm榴弾砲の弾丸の模型。

 

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 3-9. 千代ケ崎砲台跡・・・・写真右側の煉瓦造の構造物は第1掩蔽部である。中央の通路は、砲座に平行して地下に塁道(通路)が築かれている。塁道(通路)は隧道(トンネル)と露天通路で構成されている。隧道部分には弾薬庫が構築されており、露天通路の部分には掩蔽部(居住)の施設が構築されている。

掩蔽(居住)部分は2棟(2室)並列しており、隧道内ではなく、空間がみえる場所に構築されている。塁道(通路)の北側に向かって第1・第2・第3掩蔽部が並んでいる。

隧道の区間は2か所あり、それぞれの中央付近に弾薬庫がある。北側に向かって手前から第1弾薬庫・第2弾薬庫が構築されている。第3弾薬庫は塁道から第3砲台の方へ向かう交通路の奥に方に構築されている。

左側の階段は、地下に構築された塁道(通路)から、地上に上るための石段である。3ヶ所ある掩蔽部の近くに造られている。

 

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 3-10. 千代ケ崎砲台跡・・・・2棟(2室)ある第1掩蔽部の左側の掩蔽部(部屋)である。中央に出入口、左右に窓と見られる開口部がある。2棟(2室)は同じ構造になっている。煉瓦造の構造物の全体の外壁は焼過煉瓦を用いている。外壁の裏積みの部分の煉瓦や室内の煉瓦はすべて普通煉瓦を用いている。降雨にさらされない弾薬庫の煉瓦は、外壁でも普通煉瓦を使用している。千代ケ崎砲台全体の煉瓦造がこの考え方で構築されていた。積み方はすべてオランダ積(全体の積み方はイギリス積であるが、角部に七五の煉瓦を使用した積み方)。(猿島砲台はフランス積)

 

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 3-11. 千代ケ崎砲台跡・・・・掩蔽部の内部から出入口側を見た写真。右側の細いすき間は換気のための空気流入口。

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 3-12. 千代ケ崎砲台跡・・・・中央が塁道(通路)の隧道部分。隧道の中間付近の左側に弾薬庫がある。塁道(通路)の左側の煉瓦造の2棟(2室)が第3掩蔽部。右側の煉瓦造の手前が第2貯水所。煉瓦造の外壁はすべて焼過煉瓦を使用している。

千代ケ崎砲台の煉瓦はすべて小菅集治監製造といわれている。

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 3-13. 千代ケ崎砲台跡・・・・第3掩蔽部、左右2棟(2室)からなっている。多分、海上自衛隊横須賀通信隊千代ケ崎通信所時代に第3砲台は埋められ、通信所の施設が建っていた。これに関連し第3砲台に近い第3掩蔽部・第3弾薬庫は通信所に関連する施設に改築されたので、写真のように窓が塞がれ、出入口も広くなり鋼製の扉がつけられたものと推察される。

 

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  3-14. 千代ケ崎砲台跡・・・・塁道(通路)。2か所の隧道の間にある右側の煉瓦造は第2掩蔽部である。左側の掩蔽部の出入口・窓は改築されている。

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  3-15. 千代ケ崎砲台跡・・・・第3掩蔽部の前にある煉瓦造2棟、右側の棟は第2貯水所。千代ケ崎砲台では雨水と雑排水の水路を厳しく分離して管理していた。この施設は雨水を貯水するかなり大きな施設であった。雨水は浄化して飲料水に使用していた。

 右側の煉瓦造は中が階段になり、弾薬庫の上を通り第2・第3砲座間の高塁道(通路)へ出るようになっていた。

 

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  3-16. 千代ケ崎砲台跡・・・・第1弾薬庫のなか、奥の明かりは点灯窓。塁道に面した掩蔽部・弾薬庫・貯水所・出入口等はすべて煉瓦造である。また室内の側壁も煉瓦造であるが、内部のアーチ部は鉄筋コンクリート造である。猿島砲台・観音崎砲台など初期に建造された砲台の天井部分は煉瓦造のアーチであったが、1892(明治25)年着工された千代ケ崎砲台では天井アーチ部は鉄筋コンクリート造である。築城技術の進歩がみられる砲台である。
  

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  3-17. 千代ケ崎砲台跡・・・・弾薬庫の中から、揚弾井を下から見上げる。上の黒い部分は2階の天井にある揚弾機のレール。

 

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   3-18 千代ケ崎砲台跡・・・・揚弾井の上の階。この階の床面が高塁道(通路)。高塁道(通路)の先に砲座がある。この階の天井に揚弾機のレールが固定されている。

 

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  3-19. 千代ケ崎砲台跡・・・・ 露天塁道(通路)から第3砲座へ行く交通路の入口。この付近は塁道が湾曲しているため、入口のアーチ部前面が右測面と左測面に差が生じる。この差をうめるため、アーチ部の煉瓦を傾斜させて積む必要がある。斜架拱(しゃかきょう)といった高度な煉瓦組積法が採用されている。いわゆる「ねじりマンポ」の形式で積んだ個所が、この写真である。(千代ケ崎砲台で「ねじりマンポ」は3個所確認されている。

 

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  3-20. 千代ケ崎砲台跡・・・・ 千代ケ崎砲台の右観測所に行く通路のトンネル。トンネルの表面に積んだ煉瓦は焼過煉瓦である。向かって右側側面の内側の煉瓦の奥の方は、普通煉瓦を積んでいる。雨水のあたる部分の煉瓦は焼過煉瓦を使用している。このような例は千代ケ崎砲台の煉瓦積みに共通して見られる。

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   3-21. 千代ケ崎砲台跡・・・・右翼観測所。丸い台座の上に観測機器である測遠機を設置していた。

 

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  3-22. 千代ケ崎砲台跡・・・・ このような外国製の測遠機を設置していた。観測の結果を観測所にある伝声管を通じて砲座の要員に伝えていた。

 

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  3-23. 千代ケ崎砲台跡・・・・ 千代ケ崎砲台の東低地に、要塞整理事業として1924(大正13)年、30cm加農砲塔砲台起工、翌年竣工した。この砲塔砲台は戦艦鹿島の主砲を転用したものである。写真のコンクリート造は砲塔砲台の弾薬庫を含む下部機構を設置した構造物である。30cm加農砲は下部機構の上部に設置され、終戦時まで残存し東京湾の防衛にあたっていた。この地域は私有地になっており、特別に見学できた。

 

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  3-24. 千代ケ崎砲台跡・・・・戦艦鹿島に搭載していた 30cm砲塔砲台の下部機構を収納したコンクリート造構造物。

このほかに、千代ケ崎砲台の南側に堡塁が構築され、1895(明治28)年、15cm臼砲4門配備されたが、1926(昭和元)年撤去された。また、1900(明治33)年、12cm加農砲4門が配備され、1921(昭和10)年、撤去されたという。これらは陸正面防御用であった。

  

 

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 4-1. 横浜市開港記念会館・・・・所在地:横浜市中区本町一丁目6番地、建設年代:1814(大正3)年9月着工、1917(大正6)年6月30日竣工、同年7月1日開港記念日に「開港記念横浜会館」として開館。構造及び形式等:煉瓦・鉄骨煉瓦及び鉄筋コンクリート造、建築面積1,536.93㎡、二階建、地下一階、塔屋付、スレート及び同板葺。設計:山田七五郎・佐藤四郎、施工:清水組。愛称「ジャックの塔」と呼ばれている。

1989(平成元)年9月2日「重要文化財(建造物)」に指定 

 

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  4-2. 横浜市開港記念会館・・・「・横浜市開港記念会館(国指定重要文化財」)の解説板:「横浜市開港記念会館は、開港50周年を記念して、大正3年(1914)9月に着工され、大正6年7月1日の開港記念日に「開港記念横浜会館」として開館しました。建物は、大正12年関東大震災によって一部が焼失したため、昭和2年と平成元年に復旧工事が行われ創建時の姿に復元されました。建物の外壁は、腰石まで花崗岩積みで、1・2階は赤い化粧煉瓦と白い花崗岩を積み上げた辰野式フリークラシックスタイルで、古典主義を自由にアレンジしています。東南隅には高塔(時計塔)、西南隅に八角ドーム、東北隅に角ドーム、さらに高塔を挟む位置にも角ドームを作り、屋根は寄棟造り・天然スレート葺で、越屋根は銅板葺としています。また、建物内部の広間、中庭に面する窓にはステンドグラスが用いられるなど、大正期の建物として華やかで優れた意匠が施されています。」(原文のまま)

 

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  4-3. 横浜市開港記念会館・・・・「この建物は横浜開港五十周年を記念し、市民から寄付を募って建設された公会堂建築で、1917(大正6)年7月1日の開港記念日に開館した。

赤煉瓦に白い花崗岩を縞模様に入れ、建物の隅部に高塔(時計塔)や角ドーム、八角ドームを配するほかに尖塔や屋根窓を各所に設けて意匠をこらしている。1923(大正12)年、関東大震災にあって屋根と内部を焼損した。この復旧にあたって、鉄筋コンクリートで構造補強を施し、これにともなって内部の意匠も新しくされた。当初の実施計画、復旧時の設計とも横浜市営繕のスタッフがあたった。長く失われていた屋根やドームは、横浜開港130年にあたり建築当初の姿に復旧された。この会館は、大正期の建物として意匠がすぐれ、また、煉瓦造の建物に構造補強を施した早い例であり、復旧した内容も建物に調和していて価値が高い。」(文化庁データーベース参照)

 

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  4-4. 横浜市開港記念会館・・・・横浜市中区公会堂として利用されている。大阪市中之島公会堂などと並び、大正期の公会堂建築の中では有名な建築物の一つである。

内部のステンドクラスも公会堂のインテリアとともに一見の価値がある。 

 

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  4-5. 横浜市開港記念会館・・・・開港都市横浜を象徴する帆船をデザインしたステンドグラス。

  

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  4-6. 横浜市開港記念会館・・・・設計原案ならびに基本構造設計は福田重義と山田七五郎が行った。建築当初の建築様式は、赤煉瓦に石材をとりまぜた辰野式フリークラシックと呼ばれる様式で、関東大震災後、構造補強され、いわゆる復興デザインが加えられた。

 

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  4-7. 横浜市開港記念会館・・・・山田七五郎はこの作品を契機として横浜に留まり、初代横浜市建築課長として市内小学校などの鉄筋コンクリート化を推進した。1989(平成元)年、屋根ドーム群が復元され、重要文化財に指定された。

  

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  4-8. 横浜市開港記念会館・・・・「町会所跡 この地に、明治7年(1874)4月に竣工した石造2階建て屋上に高塔のある建物は、横浜市制施行の明治22年まで横浜の町政を執った町会所でした。「時計台」の愛称で親しまれ、横浜の名所となっていました。明治23年横浜貿易商組合会館と改称し、その後横浜会館と改めましたが、明治39年12月類焼により焼失いたしました。跡地に開港50年を記念して現在の建物が大正6年竣工いたしました。また、この地は開港期より明治初年まで、岡倉天心の父勘右衛門が支配人をしていた石川屋(越前藩(福井県)の生糸売込店)があったところです。」(原文のまま) 

 

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5-1.  横浜市西谷浄水場(1)・・・・所在地:横浜市保土ヶ谷区川島町522番地

整水室上屋は、4基の煉瓦造は1915(大正4)年竣工した水道施設の遺構。左から「7号・3号・8号・4号濾過池整水室上屋(ろかち せいすいしつ うわや)」。煉瓦造平屋建、銅板葺、建築面積13㎡。整水地上屋は、4基とも小規模な煉瓦造の建物で、基礎及び軒廻りを石造とし、外壁にも3筋の花崗岩の帯を入れアクセントとする。各壁面にはアーチを設けて扉口や小窓を開く。煉瓦の赤、花崗岩の白、銅板の緑が整然と配置された建物群を魅力あるものにしている。(文化庁データーベース参照)1997(平成9)年6月24日、登録有形文化財(建造物)に登録された。

 

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 5-2.  横浜市西谷浄水場(2)・・・・「配水池浄水井上屋」、1915(大正4)年竣工、煉瓦造平屋建、銅板葺、建築面積22㎡、4基の整水室上屋の東西軸線の東方に建つ八角形の煉瓦造の上屋。平面が八角で規模も一回り大きいが、構造及び意匠は整水井上屋と共通し、一帯ののびやかな景観は広く親しまれている。(文化庁データーベース参照)1997(平成9)年6月24日、登録有形文化財(建造物)に登録された。

 

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 5-3.  横浜市西谷浄水場(3)・・・・「配水池配水井上屋」、1915(大正4)年竣工、煉瓦造平屋建、銅板葺、建築面積30㎡、配水池を挟んで浄水井上屋と対照の位置に、これと同型同規模の配水井上屋が設けられている。建築面積は30㎡と小規模な煉瓦造の建築であるが、端整な意匠の上屋として西谷浄水場の記念的存在となっている。(文化庁データーベース参照)1997(平成9)年6月24日、登録有形文化財(建造物)に登録された。

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 5-4.  横浜市西谷浄水場(4)・・・・水道記念館に展示してある各種煉瓦。手前左2個は「蒸気機関に使われた耐火レンガ(イギリスのキング兄弟社から購入)、手前右1個は「煙突内部に使われた耐火レンガ(中国・天津製)。2010(平成22)年5月16日撮影

  

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 5-5.  横浜市西谷浄水場(5)・・・・煉瓦造の4基の整水室上屋と1基の浄水井上屋が見える。手前左下の青い面は濾過地、沈でん池で取り除かれなかった微細な浮遊物を、砂と砂利の層を通じて取り除く場所。2020(令和2)年2月5日撮影

 

 

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 5-6.  横浜市西谷浄水場(6)・・・・配水池配水井上屋、右側の広場の地下には、「1号配水池」があるが、現在は休止中。西谷浄水場の標準処理能力:356,000㎥、水源:相模湖。敷地面積(正面の道路を挟んで向かい側を含め):151,668㎡。処理された水は、主に鶴見、神奈川、西、中、南、保土ヶ谷各区方面に給水されている。

 

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5-7.  西谷浄水場旧計量器室跡(1)・・・・「メモリアルポケットパーク(西谷浄水場旧計量器室跡) この煉瓦造の建物は、西谷浄水場から横浜駅周辺・桜木町・元町・山手・本牧方面に給水する内径610mm・910mm・395mm3条の配水管の量をはかる量水装置(水銀式ベンチュリーメーター)を設置するために大正3年3月に建設されたものです。日本で初めての近代水道として明治20年に創設(現在の野毛山公園浄水場を建設、明治20年10月17日に通水)された横浜水道が昭和62年に100周年を迎えるにあたり、横浜水道記念館への玄関口として保存し公開するものです。昭和62年3月 横浜市水道局」(原文のまま)

  

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 5-7. 西谷浄水場旧計量器室跡(2)・・・・所在地:横浜市保土ヶ谷区川島町578-12,

1914(大正3)年竣工、煉瓦造平屋建、銅板葺、建築面積25㎡、横浜市水道第2次拡張の施設。同時期建設の西谷浄水場の下方に位置する。浄水場内の上屋と同様の造りであるが、場外に所在するだけに、外装には横黒・鼻黒煉瓦を用い、開口部のグリルなども装飾的にするなど格別の仕様がとられている。。(文化庁データーベース参照)1997(平成9)年6月24日、「川島町旧配水計量室上屋」という名称で登録有形文化財(建造物)に登録された。JR横浜駅から相模鉄道に乗り換えて、上星川駅で下車、西谷浄水場方面に歩き、約6分程度で到着できる。

 

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 5-9.    西谷浄水場旧計量器室跡(3)・・・・旧計量器室は、Y字形三叉路の中心正面に位置する。左へ行くと浄水場の正門へ。右に行くと浄水場の裏に行く道路である。右側の道路は「水道道(すいどうみち)」という。3条の配水管はこの水道道の下に埋設されており、配水管に流れる水量を遠隔操作で計れるようなシステムになっていたと考えられる。現在、旧計量器室は物置になっている。

 

 

 

      ◎日本赤煉瓦建築物番付 神奈川県場所 令和二年十一月

           《ベスト30》のうち6~10位

         勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

《順位》 《所在地》     《 名 称 》

前頭・・・・6.(横須賀市浦賀ドッグ・煉瓦塀

                                 (旧住友重機械工業株式会社追浜造船所浦賀工場)

前頭・・・・7.(横須賀市観音崎砲台

前頭・・・・8.(横須賀市・逗子市)JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群

前頭・・・・9.(横須賀市)シティ・マリーナ・ヴェラシス内  川間ドック

前頭・・・・10.(横須賀市横須賀市水道局走水水源地煉瓦造貯水池

 

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 6-1. 浦賀ドック (1)・・・・この造船所は、1896(明治29)年、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め、翌30年6月21日の会社設立登記をもって発足したものである。(解説板より)写真は浦賀ドックの最先端にある「入船した艦船の位置を決める装置」である。枠の中心にある垂直の線に、ドック入りした艦船の中心線を合わせるための器具である。 

 

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  6-2. 浦賀ドック (2)・・・・ドックの大きさは、長さ148.4m、幅19.7m、深さ8.4m、1899(明治32)年竣工、設計:杉浦栄次郎、世界でも煉瓦造のドックは珍しい。

 

 

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  6-3. 浦賀ドック (3)・・・・会社の正門近くに建っている解説板。「創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。」「造船界は、技術面や設備面で大きく立ち遅れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もそのなかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約百五十円で雇いドックを築きました。」(解説板より) 

 

 

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  6-4. 浦賀ドック(4)・・・・入船した艦船の底に各種の資材を入れて傾かないようにする必要があり、それらの資材を移動させる人員が、ドックの底に降りるための階段が数か所設けられている。 

 

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  6-5. 浦賀ドック (5)・・・・側壁の表面に積まれた煉瓦は、焼過煉瓦のフランス積。階段部、角部、平坦部は石材やコンクリート造で構築されている。煉瓦は愛知県の三河地方の岡田煉瓦製造であることが、数年前判明した。一社で全部の煉瓦を納めることは困難であると推察している。表面の焼過煉瓦は岡田煉瓦製造であり、裏積みの煉瓦は各社製造の普通煉瓦が使用されていると考える。 

 

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  6-6. 浦賀ドック (6)・・・・地表からドツクの底まで、3~4段の段差がある。段差の部分は石材で構築されている。写真はドックの先端部に近い場所であり、煉瓦積がやや湾曲している。右上の黄色に塗装した装置が、(1)の入船した艦船の位置を決める装置の一部である。

 

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  6-7. 浦賀ドック の煉瓦塀(1)・・・・会社の正面出入口から、道なりに進むと、会社の煉瓦塀がある。以前は、もっと長かったようであるが、最近、補強のため煉瓦塀に帯鉄を二本回したようである。長さは12~13m、高さは1.8~2.0m弱。 

 

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  6-8. 浦賀ドック の煉瓦塀(2)・・・・(1)の煉瓦塀を拡大した写真。会社創設の当初からの煉瓦塀と見られる。フランス積。 

 

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 7-1. 観音崎砲台:北門第1砲台(1)・・・・「北門第一砲台跡 この観音崎三浦半島の最東端にあり、東京湾を一望できることから、古くから東京湾防備の要塞地帯として使用されていました。この砲台は明治13年6月5日着工、明治17年6月27日完成、半円形の2基の砲台が扇形に配置され、ここに口径24cmの巨砲2門が海に向かって並び両砲台はトンネルで通じており地下には弾薬庫と兵員室がありました。」(解説板の読み) 

この砲台に配置された24cm加農砲は外国製であると思われる。ドイツのクルップ社、フランスのシュナイダー社、サンシャモン社、カネー社、イギリスのアームストロング社などから砲の売込みがすごかった。大阪砲兵工廠での初の鋼製砲身製造は、1903(明治36)年以降であった。 

 

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7-2. 観音崎砲台:北門第1砲台(2)・・・・北門第1砲台は1880(明治13)年起工、1884(明治17)年竣工、2基の砲座からなり、口径24cm加農砲が1門ずつ設置されていた。右側が第1砲座、左側が第2砲座、中間に煉瓦造のトンネルがあった。写真中央のモルタルが一部剥げた建物がトンネル。矢印の方向が地下室にいたる石段の方向である。現在、地下室につながる出入口は完全に塞がれている。地下室には弾薬庫や兵員室があった。多分、煉瓦造のまま残っていると思われる。真中の矢印はトンネルの中から入るようになっていた。天井らしきものが見える。砲台の除籍は1915(大正4)年である。 

 

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7-3. 観音崎砲台:北門第1砲台(3)・・・・第1砲座(手前)と第2砲座(奥の方)を結ぶトンネル。トンネルの中から地下室へ下りる出入口があった。 

 

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7-4. 観音崎砲台:北門第1砲台(4)・・・・トンネル内から地下室への出入口は煉瓦で塞がれている。側面の煉瓦はフランス積。 

 

 

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 7-5. 観音崎砲台:北門第2砲台(1)・・・・「北門第2砲台について ここ観音崎東京湾側に突出した岬であるため、古くから東京湾防備の要塞地帯として使用されてきました。この砲台は明治13年5月26日着工、明治17年6月27日完成しました。24加砲6門と弾薬庫がつくられましたが、現在は4砲座と弾薬庫が残っています。」(説明板の読み:原文のまま)現在、残っているのは右側の3砲座だけである。24加砲6門は外国製の大砲であると考えられるが、会社名は不詳である。

  

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7-6. 観音崎砲台:北門第2砲台(2)・・・・北門第2砲台は、1880(明治13)年起工、1884(明治17)年竣工。6基の砲座からなり、口径24cm加農砲が6門設置されていた。

除籍は1925(大正14)年。現在、左3基の砲座は取り壊され東京湾海上交通センターの敷地となった。トンネル側に右側3基の砲座だけが残されている。写真は第1砲座、右下の金網の下はトンネル内につながる出入口。

 

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 7-7. 観音崎砲台:北門第2砲台(3)・・・・トンネル内には第1砲座への通路の出入口と、2棟の弾薬庫跡がある。すべての出入口の周りは煉瓦造であるが、扉の部分は塞がれている。

 

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7-8. 観音崎砲台:北門第2砲台(4)・・・・各砲座には砲側弾薬庫が設置されているが、第1砲座・第3砲座の砲側弾薬庫の出入口はコンクリートで塞がれているため内部を見ることはできない。第2砲座の砲側弾薬庫は鉄製扉(写真)であり、普段は立ち入ることは出来ないが、砲台見学ツアー等では見学することができる。 

 

 

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7-9. 観音崎砲台:北門第3砲台・・・・北門第3砲台は1882(明治15)年起工、1884(明治17)年竣工、 2基の砲座に、28cm榴弾砲を2門ずつ設置したので、合計4門が配備された。日露戦争の激戦地であった「203高地奪取」「旅順陥落」に活躍した28cm榴弾砲は、この砲台からも取り外し、戦地に運ばれた大砲である。除籍は1925(大正14)年。

28cm榴弾砲は砲兵少佐ポンペオ・グリロらお雇いイタリア人が1884(明治17)年大阪砲兵工廠で完成させた鋳鉄製の大砲であり、正式採用は1892(明治25)年。現在、左砲座は取り壊され海の見晴らし台となり、右砲座だけが残されている。写真は第3砲台にあるトンネル(現在は通行禁止)で、当初は素掘りで造られたものを、後にイギリス積で補強したようである。(トンネルの写真はインターネットから転写)

 

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7-10. 観音崎砲台:火薬庫(1)・・・・旧陸軍が1898(明治31)年に東京湾要塞の「観音崎砲台火薬庫」として建設した。戦後、1982(昭和31)年から「観音崎青少年の村」として利用。2011(平成23)年に閉鎖されるまでの29年間、青少年のための宿泊施設

であった。2016(平成28)年1月、県立観音崎公園パークセンターとして発足した。写真はパークセンターの本館(旧第2火薬庫)。

  

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7-11. 観音崎砲台:火薬庫(2)・・・・青少年の村の頃は、赤煉瓦部分を白モルタルで塗装していた。内装を全面的に改装し、赤煉瓦に塗られた白モルタルを剥がし、亀裂のある煉瓦を交換するなど、経費と時間がかかった。公園管理事務所と多目的室があり、煉瓦造平屋、床面積188㎡、イギリス積、煉瓦約11万1000個、壁厚煉瓦1枚分、基礎部分はアーチが連続する構造で、火薬を湿気から守る工夫が施してあった。

 

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7-12. 観音崎砲台:火薬庫(3)・・・・床下に相当する基礎部分の焼過煉瓦には、白モルタルは塗装してなかった。その上の赤煉瓦には白モルタルを剥がした跡が見える。

火薬庫は第1~第4まであった。パークセンターは旧第2火薬庫、旧第1火薬庫はパークセンターの敷地にあるが、少し離れた場所にある。改修されずに白モルタル塗りのままで、立入り禁止になっている。第3火薬庫はパークセンター本館前の道路の向こうにあったが何も残っていない。第4火薬庫は駐車場になっている。

  

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7-13. 観音崎砲台:火具庫・・・・「青少年の村」の頃、2号棟と呼ばれていた煉瓦造は「火具庫」であった。パークセンター本館の後に位置する。経費不足のため白モルタルを剥がしただけで、内装工事は中断しているという。  

 

 

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 7-14. 観音崎砲台:三軒家砲台(1)・・・・「三軒家砲台跡 この砲台は明治27年12月15日着工、明治29年12月15日完成の27加砲4門、12加農2門の砲台で原形に近い形で残されています。地下庫、見張所、井戸、便所等もありましたが昭和9年8月20日廃止されました。」(解説板の読み)文章では「27加砲」となっているが、図面の右側砲座には「24加砲」と書いてある。いずれが正しいか分からない。27cm加農は、フランスのカネー社やシュナイダー社から購入したという記録がある。除籍1934(昭和9)年。

 

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7-15. 観音崎砲台:三軒家砲台(2)・・・・写真は口径27cm加農砲の第4砲座と口径12cm加農砲の第1砲座の間にある煉瓦造構造物で倉庫建風のようである。解説板の略図から判断すると地下に弾薬庫があると見られる。煉瓦造はイギリス積、地面に近い約15段までは焼過煉瓦を使用している。正面幅は15~17m、中央部に鉄の扉があり、入口の上部には10段巻のアーチが施工してある。風通しがいい場所であり、煉瓦の傷みは無く極めて良好である。 

 

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7-16. 観音崎砲台:三軒家砲台(3)・・・・写真(2)の建物の鉄製扉(出入口)、上部には小口積のアーチは9枚巻である。贅沢な積み方である。 

 

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7-17. 観音崎砲台:三軒家砲台(4)・・・・4基の砲座の中間(3個所)にある地下壕に下りる石段の両側に積まれた煉瓦壁。焼過煉瓦を使用したイギリス積。地下室は弾薬庫とみられる。枯葉や土砂が堆積しているが石段は約15~18段ある。写真の右側側面にコンクリートで塞いだ出入口が見える。 

 

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7-18. 観音崎砲台:三軒家砲台(5)・・・・弾薬庫と見られる出入口のアーチ積。長手積が3枚巻、小口積が3枚巻、小口積に換算すれば9枚巻のアーチ。(2)のアーチと同じ数の巻き方。   

 

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7-19. 観音崎砲台:三軒家砲台(6)・・・・正面は第2砲座。中央石段の左右に下に降りる石段がある。地下室に弾薬庫があると見られる。

  

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8-1. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・横須賀駅から東逗子駅間は複線であり、上り線6箇所、下り線6箇所、合計12個所の煉瓦造トンネルがある。写真は横須賀駅側から写した「吉倉トンネル」。右側が下り線、左側が上り線。下り線と上り線のトンネルは合体しており、長さは同じ161m。トンネルの竣工は下り線 1889(明治22)年、上り線は1920(大正9)年。東逗子駅側からのトンネル撮影は適当な場所が無くできなかった。 

 

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8-2. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・横須賀駅側から見た「田の浦トンネル」。右側が下り線、左側が上り線。長さは上り線・下り線ともに188.1m。下り線のトンネルは、上り線のトンネルよりも高さが低い。 

 

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8-3. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・東逗子駅側から見た「田の浦トンネル」。左側が下り線、右側が上り線。二つのトンネルの竣工時期は異なるが、坑門の笠石などは、ほぼ同じような意匠に建設されている。トンネルの高さは下り線が5.64m、上り線が6.0m。 

 

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8-4. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・横須賀駅側から見た「長浦トンネル」。下り線の竣工は1889(明治22)年、上り線の竣工は1924(大正13)年。下り線の煉瓦は焼過煉瓦が使用されている。

 

 

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8-5. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・「長浦トンネル」は常光寺の真下を貫通している珍しいトンネルである。常光寺の境内から長浦トンネルを写した写真。長さは下り線が184.33m、上り線が184.0mで、下り線が少し長いのが分かる。 

東逗子駅側からの撮影は適当な場所が無くできなかった。

 

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8-6. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・横須賀駅側から見た「七釜(しっかま)トンネル」。長さは96.6m。トンネルの竣工は、中央の下り線が1889(明治22)年、左側の上り線が1924(大正13)年、右側のコンクリート造のトンネルは海軍用の引込み線で1943(昭和18)年の建造。 

 

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8-7. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・田浦駅ホームから横須賀駅側を見た「七釜トンネル」。右のトンネルが上り線、中央が下り線、左が引込み線。

  

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8-8. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・田浦駅ホームから東逗子駅側をを見た「田浦トンネル」。田浦トンネルは下り線、上り線がほぼ合体した煉瓦造トンネルである。長さは94,7m。竣工は下り線は1889(明治22)年、上り線は1920(大正9)年。1924(大正13)年田浦駅から横須賀駅まで 複線化が完了した。

 

 

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8-9. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・東逗子駅側から見た「田浦トンネル」。東逗子駅から田浦駅までの複線化は1920(大正10)年には完了していたが、田浦駅から横須賀駅までの複線化は関東大震災で遅れて、完了したのは1924(大正13)年であった。

田浦駅から東逗子駅間に、煉瓦造の「沼間トンネル」(長さ:下り線 442.6m、上り線 441.1m)があるが、まだ撮影していない。 

 

 

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9-1.    シティ・マリーナ・ヴェラシス内  川間ドック(以下:川間ドックという)・・・・1898(明治31)年、川間ドックは竣工している。長さ136.7m、幅16.4m、深さ9.7m、設計:大倉粂馬・恒川栁作、煉瓦造のドックは世界でも珍しい。 

 

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9-2. 川間ドック・・・・「(株)東京石川島造船所が、大型船の建造修理のため、当時、取締役会長であった渋沢栄一の提案により、明治二十八年(1895)十月に浦賀分工場として建設に着手し、同三十一年に営業を開始しました。同三十五年には浦賀船渠(株)が買収し、以後、同社の川間分工場になりました。浦賀行政センター市民協同事業・浦賀探訪くらぶ」(原文のまま) (2003(平成15)年3月22日撮影) 

 

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9-3. 川間ドック・・・・世界で4~5基しかない煉瓦造のドックが浦賀に2基(浦賀ドックと川間ドック)あるという。川間ドックは1983(昭和58)年閉鎖し、1989(平成元)年リゾート開発で、マリーナ(ヨットハーバー)の会社が所有するようになった。

 

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9-4. 川間ドック・・・・川間ドックの竣工は1898(明治31)年であるが、煉瓦の積み方はイギリス積。浦賀ドックの竣工は1899(明治32)年で、煉瓦の積み方はフランス積。

通説ではフランス積は明治10年代、イギリス積はそれ以降という。多分、2基の煉瓦造ドックの建設計画または建設開始は、ほぼ同じであったと見られる。浦賀ドックは政界の榎本武揚の提案であり、川間ドックは民間の渋沢栄一の提案であるため、建造にあたり煉瓦の積み方や完成時期など競争したと推察できる。 

 

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9-5. 川間ドック・・・・川間ドックの建設には渋沢栄一がかかわっているため、川間ドックの使用煉瓦は渋沢栄一らが設立に関与した深谷市上敷免の「日本煉瓦製造会社」のものであろうと推察している。是非、刻印を見たいものである。

 

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10-1. 横須賀市水道局走水水源地煉瓦造貯水池・・・・登録有形文化財(建造物)、2000(平成12)年2月15日  登録。所在地:横須賀市走水1-1-26、煉瓦造、面積143㎡、所有者:横須賀市水道局。「解説文:横須賀軍港水道走水水源地の第1期拡張工事で建設された上屋付き煉瓦造貯水池。内部空間を構成する扁平ヴォールトが、入口・丸窓を左右対称に配した壁面で覆われ、屋上は盛土される。横須賀鎮守府経理部建築科の海軍技師井川喜久蔵、堀池好之助らが担当。」(文化庁データーベース参照)

 

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10-2. 横須賀市水道局走水水源地煉瓦造貯水池・・・・写真は「横須賀市水道局走水水源地煉瓦造貯水池」を解説板。この煉瓦造貯水池は1902(明治35)年竣工した。「ここ走水一帯は、昔から地下水の豊富なところとして知られ、明治初年頃、水おけで飲み水を市民に売り歩く商売がありました。その水は、この走水地内仲町わき水を船で運んだものだという。現在地の水源を発見し、市内で最初の水道を実現したのは、横須賀製鉄所や観音埼灯台の建設に功績を残したフランス人技師、フランソワ・レオン・ヴェルニーです。」(横須賀風物百選「水道水源地」の解説板参照)

 

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10-3. 横須賀市水道局走水水源地煉瓦造貯水池・・・・「1874(明治7)年5月27日、この水源から横須賀造船所(現米軍基地内)までの約7kmの水道工事に着手しました。内径約12.5cm、長さ1mの土管をつなぎ合わせて埋没し、土地の高低差を利用して水を送る自然流下方式で、1876(明治9)年12月に完成した。その後、水道管は土管から鋳鉄管に替わり、内径も約20cmになりました。更に1901(明治34)年から1902(明治35)年にかけて内径約25cmの水道管が敷設され、動力ポンプによる送水方式となりました。」(横須賀風物百選「水道水源地」の解説板参照)

 

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10-1. 横須賀市水道局走水水源地煉瓦造貯水池・・・・「それまでの水道は、軍需用でしたので、市民の水道を敷設するため、不要となった水道管すべての払い下げを受け、走水の覚栄寺境内のわき水を水源として、市内三町に送水を開始しました。市制施行1年10ヵ月を経た1908(明治41)年12月15日のことです。使用戸数は332戸と記録されています。この水源からは、現在も1日2,000㎥の良質な地下水を供給している市内唯一の水源地であり、災害時には応急給水の拠点となります。」(横須賀風物百選「水道水源地」の解説板参照)

      ◎日本赤煉瓦建造物番付 神奈川県場所 令和二年十一月

           《ベスト30》のうち11~15位

        勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

《順位》  《所在地》  《 名 称 》

前頭・・・・11.(鎌倉市・逗子市)小坪・名越隧道

前頭・・・・12.(横浜市) 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)

前頭・・・・13. (横須賀市東京湾第三海堡遺構

前頭・・・・14. (相模原市)城山隧道

前頭・・・・15. (川崎市)川崎河港水門

 

 

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11-1.   小坪・名越隧道・・・・小坪隧道は2009(平成21)年11月1日、土木学会選奨土木遺産に認定された。2001(平成13)年発行の「日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2000選」には、「小坪・名越隧道」(Bランク)として紹介されている。写真は小坪隧道の逗子市側の煉瓦造坑門の下に設置されている認定証の記念碑である。

 

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  11-2.   小坪・名越隧道・・・・以前は国道134号線であったが、現在は県道311号線となっている。下り線は鎌倉市側から逗子市方向へ、名越隧道・逗子隧道・小坪隧道、上り線は逆に逗子市側から鎌倉市方向へ新小坪隧道・新逗子隧道・新名越隧道と続いている。

古来、鎌倉方面から三浦半島に入るには山越えの細い道だけで、荷物の輸送には適さなかった。1882(明治15)年、新道の建設を陳情したが許可されなかった。地元有志が発起人となり、賛同者を募り、寄付金で名越・小坪隧道を貫通させた。2本の隧道は当初は素掘りの隧道であったと考えられる。その後、2本の隧道は大正年間に煉瓦造の隧道に改装された(改装の年代は不明)。2本の煉瓦造隧道が完成した後も、旧道はU字型に迂回する形であった。中間の屋根(山地)を貫く逗子隧道が完成したのは1966(昭和41)年であった。交通量の増加に対応して1971~1972(昭和46~47)年頃に上り線専用の3本の隧道が完成し、旧3本の隧道は下り線専用の隧道になった。図のような6本の隧道群が鎌倉市と逗子市間に建設され交通が容易になった。 

 

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 11-3.   小坪・名越隧道・・・・小坪隧道の逗子市側の坑門。小坪隧道の長さ:113m、幅:素掘り時代3.6m、煉瓦造時代6.1m、煉瓦の積み方:イギリス積、4段9寸(272mm)、煉瓦の大きさ:長さ227mm、幅106mm、厚さ60mm。坑門は標準的な形状。 

 

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 11-4.   小坪・名越隧道・・・・小坪隧道の逗子市側坑門の左上部。隧道の内部を厚い波板鋼板で覆って補強されている。壁柱(バッドレス)は上部が薄く、下部が厚く施工。アーチの巻数は補強板で不明。帯石、笠石ともに装飾蛇腹で施工している。 

 

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 11-5.   小坪・名越隧道・・・・小坪隧道の鎌倉市側の坑門。坑門は当時のまま、内部は波板鋼板で覆い、さらに側面には平らな緩衝用の防護板が貼ってあった。 

 

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 11-6.   小坪・名越隧道・・・・名越隧道の鎌倉市側の坑門。名越隧道は長さ:64.2m、幅:旧素掘時代3.6m、煉瓦造時代6.1m。煉瓦の積み方:イギリス積。歩行者用の歩道なし。他の5本の隧道には右側に歩道が設けられている。 

 

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 11-7.   小坪・名越隧道・・・・名越隧道の逗子市側の坑門。煉瓦造坑門の左側翼壁(ウイング)だけを残し、中央部及び右側の煉瓦造は見えない。恐らく、右側側面の石垣及び隧道上部の山崩れのため、坑門の中央部及び右側を鉄筋コンクリート造で施工したようである。名越隧道の出口(逗子市側)はコンクリート造の長方形の出口になっている。

  

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 11-8.   小坪・名越隧道・・・・左側が名越隧道の入口(鎌倉市側)、右側が新名越隧道の出口(鎌倉市側)。道路は神奈川県道311号鎌倉葉山線(旧国道134号線)である。6本の隧道群を総称して「小坪トンネル」もしくは「名越トンネル」と呼ばれることもある。

 

 

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 12-1. 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)・・・・国指定重要文化財、重文指定年月日:2000(平成12)12月4日、所在地:神奈川県横浜市西区みなとみらい二丁目7番10号、構造及び形式等:石造、煉瓦造及びコンクリート造乾船渠(ドライドッグ)、左右翼壁附属

 旧横浜船渠株式会社第一号船渠は、海軍技師の恒川栁作が設計し、1896(明治29)年7月に起工、1898(明治31)年12月に竣工した。その後、大正期に船渠の内陸方向に延長された。現在は、係留されている日本丸の検査、修理に使用されている。(文化庁データベース 参照)

 

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  12-2.. 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)・・・・《文化庁データベースの解説文より》:建設当初、第一号船渠は、総長約168メートル、上幅約34メートル、渠底幅約23メートル、渠内深さ約11メートルの規模を有した。その後、大正期の改修で、渠頭部方向に拡張して総長約204メートルとなった。(文化庁データベース 参照)

写真は煉瓦造で建造された拡張部分の側壁。

 

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 12-3.. 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)・・・・《文化庁データベースの解説文より》:旧横浜船渠株式会社第一号船渠は、建設当時、最大規模を有した明治期の代表的乾船渠の一つである。大正期に築造された躯体延長部分も土木技術の時代的特色をよく示し、乾船渠築造技術の変遷を知る上で価値が高い。また、第一号船渠は、官民の協調により実現した横浜港修築第一期工事の掉尾を飾る土木構造物で、近代横浜の社会基盤形成史上も、重要である。。(文化庁データベース 参照)

写真は煉瓦造で建造された拡張部分の側壁。

 

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  12-4.. 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)・・・・写真は煉瓦造で建造された拡張部分の側壁。使用された煉瓦の数量を試算した結果は次のとおり。

当初の総長約168m、拡張後の総長約204m、拡張された長さ約36m、拡張されたうち煉瓦積の長さ(円弧の長さを含む)を約50mと推測し計算する。深さ約11m、煉瓦の長さ(目地9mmを含む)1枚219mm、厚さ(目地9mmを含む)1枚67mm、煉瓦積み(水平)の個数 約50m÷0.219m=約228本、煉瓦積み(深さ)の個数 約11m÷0.067m=約164本(段)、半枚積み(水平)約228本×(深さ)約164段=約37,292個、1枚積み約37,292個×2倍=約74,784個、1枚半積み約37,292個×3倍=111,876個、2枚積み約37,292個×4倍=約149,168個。イギリス積の1枚積みの場合:約7万5000個、2枚積みの場合:15万個の煉瓦が積まれていると見られる。(独自の試算)

 

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  12-5. 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)・・・・現場に建っていた解説板。

 

 

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13-1.  東京湾第三海堡遺構・・・・東京湾から引き揚げた「第三海堡構造物」を展示する公開日があり、2004(平成16)年3月31日撮影した写真である(以下同じ)。上の構造物は「大兵舎」と呼ばれ、現在、横浜市うみかぜ公園に移設・展示されている。(新型コロナウイルスの影響で「うみかぜ公園」には行っていない)

 

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 13-2.  東京湾第三海堡遺構・・・・第三海堡は東京を防護するため東京湾口に設けられた砲台を設置するための人口島。第二海堡の南2611m(水深39m)に位置した。

 

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 13-3.  東京湾第三海堡遺構・・・・第三海堡のイラスト(国土交通省 関東地方整備局 東京湾口航路事務所 発行のパンフレット参照)。第三海堡の建設工事の着工は1892(明治25)年、完成は1921(大正10)年、(建設期間は29年間)、面積26,000㎡。

完成2年後の1923(大正12)年9月の関東大震災により崩壊した。敷地面積の1/3が水没、海堡は4.8m沈下、直ちに火砲等を撤去した。修復されることなく、廃止・除籍された。その後も波浪により崩壊が進み、半ば暗礁化した。浦賀水道航路に接しているため、航路の安全を確保するため、第三海堡を撤去し水深23mを確保する工事が行われた。撤去工事は2000(平成12)年~2007(平成19)年にかけて実施された。

 

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 13-4.  東京湾第三海堡遺構・・・・「大兵舎」と呼ばれる構造物。2004(平成16)年引き揚げ、重量1,200トン、幅15m?・奥行29.5m・高さ5m。2つの居室部分と連絡通路からなるコンクリート構造物。

 

 

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 13-5.  東京湾第三海堡遺構・・・・「大兵舎」の居室入口用開口部が焼過煉瓦のイギリス積み。内部の天井は手前の方が煉瓦造アーチ、奥の方がコンクリート造。

 

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 13-6.  東京湾第三海堡遺構・・・・「探照灯」と呼ばれる構造物。重量は565トン。正面内部に探照灯移動用レールの跡が残っている。

 

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 13-7.  東京湾第三海堡遺構・・・・「探照灯」と呼ばれる構造物の裏側全景。内部には通路があり、階上への階段が残っている。

 

 

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 13-8.  東京湾第三海堡遺構・・・・「観測所(指揮官の位置する所)」と推測され砲測庫(弾薬庫)と組になっている。重量は907トン。

 

 

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13-9.  東京湾第三海堡遺構・・・・「砲台砲則車」で内部の構造は天井を半円形アーチとし側壁から天井まで打ち継の少ないコンクリートの一体構造となっている。重量は540トン。

 

 

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 13-10.  東京湾第三海堡遺構・・・・「砲台砲側庫」の裏面全景、砲弾を出し入れ用の装置。

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13ー11.  東京湾第三海堡遺構・・・・「地下通路」「その他の構造物」

引き上げた構造物のうち、「大兵舎(1200トン)」はうみかぜ公園へ移設。

探照灯(565トン)」「砲台砲側庫(540トン)」「観測所(907トン)」は夏島都市緑地内において保存・公開されている。「地下通路」・「その他の構造物」は展示会場であった追原展示施設に置いてあるかどうか不確認である。

 

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 13ー12.  東京湾第三海堡遺構・・・・第三海堡撤去工事において「採取した約100個の煉瓦中、約半分の56個の煉瓦について約20種の刻印が発見された。東京小菅集治監製のものと推定される「桜」の刻印の入ったものが最も多く、その他の煉瓦についても、おそらく同じ小菅集治監のものではないかと推測される。」・・・・と報告書326頁(第三海堡に関する報告書・・・・正式な名称は失念)に記している。①~②は小菅集治監製であるが、③~⑬は東京荒川周辺の煉瓦工場製である。特に③~⑤は「桜」ではなく「梅」で、北区堀船の田中煉瓦の「逆さ梅にカタカナのホ・ト」(口絵ー8.13)であると見られる。その他は不明。

  

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 13-13.  東京湾第三海堡遺構・・・・第三海堡から採取した煉瓦が横須賀市平成町にある「国土交通省関東地方整備局東京湾口航路事務所」に展示してあった。中央下の煉瓦に「C」の刻印があった。

 

 

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 14-1. 城山隧道・・・・所在地は神奈川県相模原市津久井町青山。道志川の水を横浜まで送るため1914(大正3)年に設けられた管路隧道で、当時わが国では2番目に長いトンネルでした。内部には内径900mmと1050mmの管が敷設されている。 

 

 

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  14-2. 城山隧道・・・・神奈川県相模原市津久井町青山にある「横浜市水道局青山水源事務所」、屋外に古い水道管などの資材が展示されている。

 

 

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  14-3. 城山隧道・・・・事務所の横にかなり広い排砂池が4面あった。青山水源地の水は、この地から約900m上流の道志川の鮑子(あびこ)取水口で取り入れた水を「青山隧道」で送っている。青山隧道は煉瓦造で1915(大正4)年竣工、高さ2.12m、幅2,12m、長さ864m、勾配1/1000。[青山隧道への道は足場が悪く未見]

 

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  14-4. 城山隧道・・・・横浜水道創設の1887(明治20)9月竣工及び第1期拡張工事1898(明治31)年6月竣工、以来の導水管が道志川相模川河岸の断崖部分に敷設されていたため豪雨のたび導水管が寸断される事故が続発した。こうした事故を避けるための導水路を新たにつくるため、第2期拡張工事として城山隧道が計画され、1910(明治43)年8月起工、1915(大正4)年3月竣工した。写真は、2019年10月の19号台風及び豪雨で山崩れが起き、城山隧道入口が土砂で半分埋まった様子。

 

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  14-5. 城山隧道・・・・上はインターネットで検索した導水管が見える写真。

隧道内部の導水管には、日本で初めて鍛接鋼管(ドイツのマンネスマン製管会社製、内径1050mm)が使用された。隧道の長さは4,358mで、当時、国鉄(現在JR)中央本線「笹子隧道の長さ4,656m」に次ぐ日本で2番目の長さであった。関東大震災では1,050mmの導水管には被害はなく、隧道のアーチの煉瓦が損傷したため、被害個所の煉瓦の巻き直しの補修をした。1941(昭和16)年、新たに内径800mmの鉄筋コンクリート管を布設したが、1974(昭和49)年に内径900mmの鋼管へ敷設しなおした。ドイツ製の1,050mmの鍛接鋼管は、現在も道志川水源の水を送り続けている。

 

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  14-6. 城山隧道・・・・2019年10月の19号台風及び豪雨で山崩れが発生し、山林の木々は倒れ土砂が隧道入口に堆積した。導水管は土砂で埋まっている。(撮影日:2020.2.19)

 

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  14-7. 城山隧道・・・・城山隧道の解説板:「城山ずい道 高さ2.80m×巾3.04m×延長4,358m レンガ巻 馬蹄型 管路ずい道 道志川の水を横浜まで送るため 大正3年(1914年)に設けられた管路ずい道で、当時わが国では2番目に長いトンネルでした。内部には、内径900mmと1,050mmの管が布設されちます。1,050mmの鍛接鋼管(ドイツマンネスマン社製)は、わが国で初めて使用されたもので、現在も水を送り続けています。(近代水道百選施設)」

 

 

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 15-1. 川崎河港水門・・・・1998(平成10)年9月2日、登録有形文化財(建造物)に登録。所在地:川崎市川崎区港町66地先、1928(昭和3)年竣工、塔は鉄筋コンクリート造、高さ20.3m、水門幅10.0m、未完に終わった運河の多摩川口に設けられた水門。内務省多摩川改修事務所所長の金森誠之の計画になり、鉄筋コンクリートと金森式鉄筋煉瓦が併用されている。門構頂部に果物をあしらった飾りを載せるなど土木構造物としては極めて装飾的で異彩を放っている。(文化庁データーベース参照)

  

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  15-2. 川崎河港水門・・・・「日本の近代土木遺産ー現存する重要な土木構造物2000」によれば Aランクの土木遺産である。大正時代末期、川崎市は物資の輸送を円滑にするため、多摩川の堤防の一角から内陸部に運河を開通させ、開削により生じた土砂で両岸を埋立てて工場や住宅地にするという大規模な運河・港湾計画をたてた。川崎河港水門は、この運河計画の一環として、多摩川改修事務所長であった内務省土木技師金森誠之(かなもりしげゆき)の設計によるもので、1926(大正15)年11月に着工、1928(昭和3)年3月完成した。満州事変、日中戦争、太平洋戦争の開戦により戦時体制になり、運河計画は1943(昭和18)年に廃止となった。 

 

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 15-3. 川崎河港水門・・・・ 河港水門は、現在でも主として千葉方面からの砂利の陸揚げ施設として、1日数艘の砂利運搬船の出入りがある。

 

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  15-4. 川崎河港水門・・・・水門の建物は鉄筋コンクリートであるが、基礎となる部分は金森式鉄筋煉瓦で施工されている。この煉瓦には鉄筋を通す切り欠き部分があり、特許」の刻印がある。大阪窯業株式会社製造の煉瓦で関東地方では、大阪窯業八王子工場・草加工場で製造したいた。

 

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15-5. 川崎河港水門・・・・河港水門の解説板。

 

 

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  15-6. 川崎河港水門・・・・金森式鉄筋煉瓦の施工の状況。煉瓦の切り欠き部分に縦方向の鉄筋が入るように煉瓦を積む方法である。横方向の鉄筋は水平目地に埋めるようにする。煉瓦の切り欠き部分に目地用のモルタルを詰めて固定するやり方である。鉄筋を立てるには、立てる位置をきちんと測量する必要があり、かなり準備に時間を要したと考えられる。

  

 

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 15-7. 川崎河港水門・・・・写真は川崎河港水門の護岸工事の様子である。煉瓦は1枚厚であった。

 

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  15-8. 川崎河港水門・・・・金森式鉄筋煉瓦の採取場所。霞ヶ浦海軍航空隊第二士官宿舎及び土浦海軍航空隊第一士官宿舎にて。海軍は金森式鉄筋煉瓦を採用した。舞鶴や横須賀の海軍関係の宿舎などの解体時、発見されている。 

 

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  15-9. 川崎河港水門・・・・金森式鉄筋煉瓦で積んだ川崎河港水門の護岸の一部。赤煉瓦であるが付着した泥が乾燥し白く見える。煉瓦積みの最上面には、横方向に太い鉄筋を配して、その鉄筋に縦方向の鉄筋の先を曲げて固定していた。煉瓦積みの上端部は太い横鉄筋に縦方向鉄筋がぶら下がったような格好になっているので、これらを固定するためコンクリートで覆っている。 

 

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  15-10. 川崎河港水門・・・・川崎河港水門の多摩川沿いの護岸。水門の左右に護岸が延びている。左右の護岸を延長すれば500~600mと見られる。 

 

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  15-11. 川崎河港水門・・・・川崎河港水門の内陸側の状況。運河は水門から約220m開削されただけで中断した。現在では埋め立てられ、水門に接続する部分の約80mが船溜まりとして残存している。砂利運搬船から砂利を持ち上げるバケットクレーンや砂利置き場が見える。

 

 

 

 

日本赤煉瓦建造物番付

      ◎日本赤煉瓦建造物番付 神奈川県場所 令和二年十一月

           《ベスト30》のうち16~20位

         勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

《順位》   《所在地》   《 名 称 》

 前頭・・・・16.(横浜市)清水谷戸トンネル

 前頭・・・・17.(横浜市)地蔵王

 前頭・・・・18.(三浦市)油壷験潮場(旧建屋)

 前頭・・・・19.(鎌倉市)極楽洞

 前頭・・・・20.(横浜市)旧平沼専蔵別荘亀甲積擁壁と煉瓦塀

 

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16(1)   清水谷戸トンネル・・・・清水谷戸(しみずやと)トンネルはJR横須賀線湘南新宿ライン保土ヶ谷駅と東戸塚駅の間にある1887(明治20)年に建設されたトンネル。

東戸塚駅より、約500mほど保土ヶ谷駅よりにある。写真の左側のトンネルが上り線で、鉄道トンネルでは全国で17番目の建設順位であるが、現役では日本最古のトンネルである。側壁が垂直な逆U字形である。下り線のトンネルは、1898(明治31)年建設されたもので、トンネルの入口が馬蹄形になっている。

 

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  16(2)   清水谷戸トンネル・・・・写真は上り線を走る湘南新宿ラインの電車。トンネルの長さは上り線・下り線ともに213.7m。入口(坑門)のアーチの巻厚は、はいずれも5枚で要石はない。目地は覆輪目地という。(小野田滋氏の文献参照)

 

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 16(3)   清水谷戸トンネル・・・・東戸塚駅から歩いて清水谷戸トンネルを撮影に行く途中、小さな解説板が建っていた。上の方が腐食して文字が消えかかっていた。解説板の解読は、 16(4)に記す。

 

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 16(4)   清水谷戸トンネル・・・・(標題)「東海道本線 横浜ー(不明)清水谷戸トンネル 延長213.7m 横浜市」(本文)「上り線のトンネル(左側)は明治20(1887)年に工部省鉄道局によって建設されました。これは鉄道トンネル建設順位においては17番目にあたり、現役としては最古の鉄道トンネルです。下り線のトンネル(右側)は明治31(1898)年の複線化工事にともなって建設されました。両トンネルの側壁部は、当初レンガ造りでしたが、大正14(1925)年の電化工事にともなってコンクリート造りに改築され現在にいたっています。[トンネル正面の図示:左側(上り線)右側(下り線)]

平成3年3月 JR東日本 歴史的建造物調査委員会」  

 

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 17(1) 地蔵王廟・・・・横浜市中区大芝田にある地蔵王廟(じぞうおうびょう)は、中国人の墓地である。丘全体が墓地であった。写真は地蔵王廟の本堂である。中には中国の仏様に相当する極彩色の像が並んでいた。建物は全体は木骨煉瓦造。手抜き・焼過ぎ煉瓦の長手積で裏面はかなり厚い白漆喰塗りであった。煉瓦の大きさは長さ212mm・幅106mm・厚さ56mm、覆輪目地。煉瓦の厚さが薄いため、4段8寸5分(257mm)であった。この地蔵王廟は中国人の職人が積んだものと考えられる。

 

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  17(2) 地蔵王廟・・・・1873(明治6)年、横浜外国人墓地に埋葬されていた華人、華僑の墓場が現在地に移された。元々、中華義荘は、故郷中国へ棺を送還するまでの仮埋葬の場であったが、時代とともにここで永眠する人が増えていった。後ろの高い塔は、3階建の安骨堂(納骨堂)。地蔵王廟の本尊は地蔵王菩薩像で清代末期の作と考えられる。木造、黒漆塗、金泥仕上げに彩色された厨子に安置されている。地蔵王廟、地蔵王菩薩坐像、厨子横浜市指定有形文化財に指定されている。(Wikipedia参照)

 

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17(3) 地蔵王廟・・・・地蔵王廟の正門、 中国風の建造物である。階段の右手にも多くの墓が並んでいた。石敷の階段を上り詰めたところに、地蔵王廟がある。写真の中央右側の煉瓦造が地蔵王廟。その右側の煉瓦造は、地蔵王廟に連なる建物、その後が木造3階建の安骨堂(納骨堂)である。資産家は立派な墓を造り納骨しているようである。木造3階建ての安骨堂の中を案内してくれたご婦人の説明によると、墓が造られない方、身内の無い人などの遺骨が納めてあるという。丁度、共同浴場の蓋のある下駄箱のような木製の収容箱が、3階上部まで造られていた。納骨箱の前面には、氏名・生年月日・死亡年月日・住所のようなものが書いた紙が貼ってあった。中央の線香立てには長い赤色の線香が立ててあった。 

 

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 17(4) 地蔵王廟・・・・(標題)横浜指定有形文化財(建造物) 地蔵王廟(じぞうおうびょう) 指定年月日:平成二年十一月一日、所有者:公益財団法人 中華義荘、 所在地:中区大芝田七番地、 年代:明治二十五年、 規模:木骨煉瓦造、建築面積一九二・一㎥(中庭含む) 

(本文)安政五年(一八五八)の五ヵ国通商条約によって開港された横浜に、居留地を中心として外国人が生活するようになりましたが、外国人のための墓地もこうした中で設けられました。地蔵王廟は、当時横浜で生活していた中国の商人などの拠金(きょきん)により、明治二十五年(一八九二)、中国人墓地(中華義荘)(ちゅうかぎそう)に建てられたものです。

この地蔵王廟の建築は、中庭を中心に建物を前後に並んで取り囲む華南特有の形式で、広東や台湾の廟建築に多くみられます。主要材を広東省広州から船で運搬し、軸部や外壁、屋根材は横浜で調達したもののようで、建築当初には、フランス人の手によって焼かれたジェラール瓦が使われていました。現存する市内の近代建築物としては最古のものであり、明治中期、居留地時代の横浜の建築状況を示すものとして貴重です。平成二十六年三月  横浜教育委員会

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 18(1) 油壷験潮場(旧建屋)・・・・所在地:三浦市三崎町小網代、竣工:1894(明治27)年、構造:煉瓦造平屋建、規模:間口2.42m(8尺)、奥行き3.03m(10尺)、総高さ3.64m(12尺)、設計:柳瀬信誠

参謀本部陸地測量部(国土地理院の前身)は、1891(明治24)年に全国6箇所に験潮場を開設し潮位観測を開始した。このうち高神験潮場(現千葉県銚子市)が、潮流等で海底の土砂移動が激しく験潮に適さないなどのことから、1894(明治27)年6月に油壺湾に移設、同年7月より観測を開始した。

 

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  18(2) 油壷験潮場(旧建屋)・・・・油壷験潮場(旧建屋)は現存する験潮場としては、宮崎県日向市の細島験潮場1893(明治26)年築に次いで2番目に古い験潮場である。

日本の高さの基準を定める験潮技術を長年にわたり守り続けた歴史的な財産として意義のある施設といえる。

1995(平成7)年7月、施設の老朽化や観測機器の更新に伴い、隣地に開設した新建屋(写真の左側に写っている建物)へ機能を移設し、験潮を続けている。

 

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  18(3) 油壷験潮場(旧建屋)・・・・国土地理院が設置している験潮場の基本構造は井戸・導水管・観測室(験潮儀室)・前室で構成されている。海面の高さを測定する場合、波の影響で海面の高さを測ることは難しいので、験潮場の井戸の海水は、導水管という細い管を通って出入りするため海水面は穏やかになり、験潮儀から吊るした浮標のミリ単位の上下変動を1秒間隔で記録している。その潮位のデータはリアルタイムで茨城県つくば市国土地理院に伝送されている。(HP 国土地理院測地観測センター 参照)

 

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  18(4) 油壷験潮場(旧建屋)・・・・正面出入口。右の表札は文字が薄くなっいるが「建設省 国土地理院 油壷験潮場」と読める。現在は建設省ではなく国土交通省である。左側の解説板には「油壷験潮場 この建物の中には、海面の上り下がりを自動的に精密に記録する験潮儀が設置されています。この記録は、高さの基準をきめたり土地の変動を調べるために非常に大切な資料となります。国土地理院」と書いてある。

 

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  18(5) 油壷験潮場(旧建屋)・・・・油壷験潮場(旧建屋)の外壁は、手抜きの焼過ぎ煉瓦を使用した正統的なイギリス積。建物の基礎は石材を積み上げた構造で、海水下の岩盤まで掘り下げた背の高い石積の構造のようである。 

 

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  18(6) 油壷験潮場(旧建屋)・・・・近くに土木学会選奨土木遺産の認定賞が設置してあった。文言は「油壷験潮場(旧建屋)明治27年(1894)竣工(公社)土木学会において、『我が国の初期の測量技術を今に伝え、日本の標高の基準である「日本水準原点」の管理に重要な役割を果たしてき貴重な施設』との評価を受け、平成30年度の土木学会推奨土木遺産に認定されました。平成30年11月 国土地理院」と記されていた。

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  18(7) 油壷験潮場(旧建屋)・・・・油壷験潮場は、日本の標高の基準である「日本水準原点」と密接な関係がある。1891(明治24)に設置された日本水準原点の標高(原点数値:24.5000m)は、隅田川河口の霊岸島での1873(明治6)年6月から1879(明治12)年12月の潮位観測から決定された。油壷験潮場での1900(明治33)年から1923(大正12)年までの23年間の観測結果から油壷の平均海面を算出し、水準測量により「日本水準原点」の高さの検証を行なったことで、東京湾平均海面が正しいということが証明された。この油壷験潮場~ 日本水準原点間の水準測量は、油壷験潮場設置以来、原点数値の点検として定期的に実施されている。関東大震災地震後の原点数値:24.4140m)や2011(平成11)年東北地方太平洋沖地震地震後の原点数値:24.3900m)による地殻変動によって、水準原点値が変更されているが、その際にも油壷験潮場の潮位データによる確認が行われている。「日本水準原点」は千代田区永田国会前庭北地区内の憲政記念館前にある。(HP 国土地理院測地観測センター 参照)

 

 

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19 (1) 極楽洞・・・・極楽洞は、江ノ電極楽寺駅長谷駅との間にある全長209mの「極楽寺トンネル」の極楽寺側の煉瓦造の坑門の名称である。トンネル工事は、1906(明治39)年6月に着工され、翌1907(明治40)年2月に竣工した。

トンネルの構造形式:単線・煉瓦造、内壁:高さ 5.285m、幅 3.940m

写真は極楽寺駅側にある桜橋から撮影。この桜橋からの眺めが最高である。 

 

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 19 (2) 極楽洞・・・・トンネルの坑門の胸壁(パラペット)に扁額が埋め込まれている。

極楽寺駅側のトンネル坑門の扁額には「極楽洞」と刻まれている。揮毫した人物は桂内閣で大蔵大臣だった曾禰荒助である。反対の長谷駅側のトンネル坑門の扁額には「千歳開道」と刻まれていた。揮毫した人物は元内閣総理大臣松方正義である。現在、「千歳開道」の扁額は見えない。(HP 鎌倉手帳参照)

 

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 19 (3) 極楽洞・・・・極楽寺駅と桜橋の中間あたりに、次のような文言の解説板が建っている。「鎌倉市景観重要建築物等 第33号 平成22年11月24日指定 極楽洞  Gokurakudo

極楽洞は、江ノ電の愛称で親しまれている江ノ島電鉄株式会社が所有する煉瓦造りの坑門で、右手の桜橋から見ることができます。アーチの頂部に2箇所の要石を備えたデザインは、全国的にも珍しいもので、今なお建設当時の原形をとどめています。江ノ電が極楽洞を走り抜ける景観は、古都鎌倉に近代の息吹を伝えた電気鉄道の歴史を忍ばせます。(英文・桜橋と極楽洞の位置図・極楽洞の煉瓦積の詳細図)」

 

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 19 (4) 極楽洞・・・上のような解説板も建つていた。注目した個所は「ほぼ当時の路線で営業している電車としては日本で最古である」、「極楽洞は江ノ島電鉄唯一のトンネルで・・・建設当時の煉瓦張りがそのまま残されている」という点である。

日本の鉄道の歴史は蒸気機関車から始まり、電気機関車(電化)に移行した。当初の鉄道トンネルは側壁からアーチ(天蓋)まで煉瓦造であったが、電化工事のため、トンネル上部に送電線を設置する必要があり、トンネル内部を鉄筋コンクリート巻に改良した。江ノ電は開業当初から電気鉄道で出発しているので、煉瓦造に送電線の設備を当初から取り付けていたからである。 

  

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 20(1) 旧平沼専蔵別邸亀甲積擁壁と煉瓦塀・・・・横浜市のJR桜木町駅から西の方へ歩いて、野毛山動物園に行く途中に野毛坂交差点に出る。交差点の向こう角地に立派な高い石垣が見える。その石垣(擁壁)の上に長い赤煉瓦造の塀が積んである。旧所有者の平沼専蔵は生糸や米穀商として成功し、金融業、鉄道建設、政治家など明治期の横浜で活躍した平沼専蔵の旧邸石積擁壁と煉瓦塀である。(HP THE YOKOHAMA STANDAD参照) 

 

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  20(2) 旧平沼専蔵別邸亀甲積擁壁と煉瓦塀・・・・六角形に加工した石材が亀の甲羅のように見える亀甲積は、美しい見映えの石垣となるが、隙間なく緻密に積上げることが非常に難しいと言われる。旧平沼専蔵別邸亀甲積は極めて高い施工精度で積み上げられた市内でも随一の見事な亀甲積擁壁。

亀甲積擁壁の上に水平な長物の石材を並べ、その上に約30段積みの赤煉瓦塀を建造している、煉瓦と水平石材を固定するため煉瓦5段程度をコンクリートで固めていることが分かる。

 

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  20(3) 旧平沼専蔵別邸亀甲積擁壁と煉瓦塀・・・・煉瓦は手抜きの焼過ぎ煉瓦を使用している。4段9寸(273mm)の標準的な施工である。煉瓦の大きさは長さ210mm、幅100mm、厚さ55mm。平均的に薄い煉瓦であるため横目地の幅がひろい。写真は坂の上の隅にあたる場所であるが、垂直に切り取られた痕跡が見られるので、以前はさらに奥の方まで亀甲積石垣と煉瓦壁が続いていたと見られる。現在、残っている煉瓦塀の長さは約45m。野毛坂交差点から戸部町方面への亀甲積擁壁の上部には煉瓦壁は残っていない。恐らく、関東大震災で破壊または亀裂が生じたので撤去したと考えられる。

 

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 20(4) 旧平沼専蔵別邸亀甲積擁壁と煉瓦塀・・・・ 亀甲積擁壁の下に認定歴史的建造物の認定証が建っていた。「横浜市認定歴史的建造物 野毛山住宅亀甲積擁壁  旧平沼専蔵別邸石積擁壁及び煉瓦塀 建築年1890(明治23)年から1893(明治26)年の間 2006  横浜市

 

日本赤煉瓦建造物番付

 


      ◎日本赤煉瓦建造物番付 神奈川県場所 令和二年十一月

          《ベスト30》のうち21~25位

        勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

《順位》   《所在地》   《 名 称 》

前頭・・・・21.(横須賀市)覚栄寺裏山貯水池

前頭・・・・22.(平塚市パイロットコーポレーションのレンガ棟「蒔絵工房NAMIKI」

        (旧第二海軍火薬廠安定度試験場)

前頭・・・・23.(横須賀市横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門

        (旧横須賀重砲兵連隊営門)

前頭・・・・24.(横須賀市海上自衛隊横須賀造修補給所煉瓦倉庫

        (旧横須賀海軍軍需部第二計器倉庫)

前頭・・・・25.(川崎市多摩川親水公園の煉瓦壁(旧明治製糖の護岸壁)

 

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21(1) 覚栄寺裏山貯水池・・・・覚栄寺本堂の左側に墓地がある。その墓地の間を抜けて

奥まったところに、写真のような貯水池がある。1895(明治28)年築造の旧海軍貯水池である。鉄格子で囲まれ中に入れない。横須賀市水道局が管理している看板があった。

 

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21(2) 覚栄寺裏山貯水池・・・・写真21(1)の鉄格子の左側に沿って、急な山を登った先に、誰も入った様子の無い雑木があった。 そこを抜けると写真のような煉瓦造があった。鉄の扉の下部は腐食しかなり傷んでいた。

 

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 21(3) 覚栄寺裏山貯水池・・・・ここの水源地は横須賀市が1908(明治41)年に築造した貯水池である。裏側にコンクリートで覆った大きなかまぼこ状の建造物があった。落ち葉と枯れた小枝が重なってよく分からない。コンクリートの下はアーチ状の天井がある煉瓦造貯水池と推察される。

 

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21(4) 覚栄寺裏山貯水池・・・・ 貯水池正面には、2カ所に出入口の鉄製の扉がある。写真は左側の扉。下部は腐食してボロボロであった。出入口の左右上部に丸窓があるのが印象的である。煉瓦造はイギリス積であり、煉瓦の一部は焼があまく、剥離が見られた。横須賀市はこの貯水池は使用していないという。

 

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 21(5) 覚栄寺裏山貯水池・・・・21(3)の写真の左側にコンクリート塗りの柱がある。その柱の中間より上のほうに、石板が埋め込まれていた。この石板に「明治四十一年六月竣成」と刻まれていた。 

 

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21(6)覚栄寺裏山貯水池・・・・覚栄寺は浄土宗のお寺である。そこに建つ解説板の後段に、「お堂の右手奥には『滝の井戸』と呼ばれる湧き水があり裏山の湧水は市の水道水源地となっていました」と記してある。21(1)はお寺の左手奥であったが、21(2)~(5)の煉瓦造貯水池は、お寺の本堂の右手奥に相当する位置であった。裏山全体は原始林に覆われており、小原台を含めてこの地域一帯は水を大量に蓄積していたようである。横須賀市走水浄水場は覚栄寺裏山貯水池の裏側に相当する場所にあり、まさに、覚栄寺裏山の湧水が横須賀水道の発祥の地である。

 

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 22(1) パイロットコーポレーションのレンガ棟「蒔絵工房NAMIKI」(旧第二海軍火薬廠安定度試験場)・・・・写真は「蒔絵工房NAMIKI」の正面玄関。パイロット万年筆の展示場。単なる展示場ではなく、一本80万円もする最高級蒔絵万年筆などが展示されている。まさに美術工芸品級の万年筆ばかりであった。

 

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22(2) パイロットコーポレーションのレンガ棟「蒔絵工房NAMIKI」・・・・1926(大正15)年より、日本が世界に誇る漆工芸のひとつ、蒔絵を施した高級万年筆を欧米に展開。後に人間国宝となる蒔絵師・松田権六氏を中心とした、蒔絵師グループ「国光会」を結成し、日本古来の伝統工芸である蒔絵の技を90年以上にわたって守り続けています。旧第二海軍火薬廠として使用されていた平塚近代史の遺構である煉瓦造りの建物を改装し、蒔絵万年筆の歴史と漆芸作品を展示しています。(「蒔絵工房NAMIKI」のホームページ参照)

 

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22(3) パイロットコーポレーションのレンガ棟(旧海軍火薬廠安定度試験場)・・・・海軍火薬廠は神奈川県旧平塚市・中郡大野町(現在の平塚市)にまたがる約38万坪の敷地に製造設備を建設した。日本帝国海軍の兵器に使用する爆薬・火薬を製造する海軍の工廠であった。組織改編により平塚本廠は第二火薬廠に改称されている。1945(昭和20)年7月、平塚は米軍の主要攻撃目標となり空襲により壊滅的な被害をうけた。敷地及び建物は終戦後、進駐軍が接取していた。

パイロットは第二次大戦の空襲で大塚工場が被災した。1948(昭和23)年に火薬廠の一部の払い下げをうけ、平塚市に生産拠点工場を移設した。以降、すべての万年筆を平塚工場で生産することにした。

 

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22(4) パイロットコーポレーションのレンガ棟 (旧第二海軍火薬廠安定度試験場)

・・・・平塚における火薬製造は1905(明治38)年、英国アームストロング、ノーベル、ヴィッカースの3社によって設立された日本爆発物製造株式会社平塚製造所を前身としている。1919(大正8)年4月、日本海軍により買収され、海軍火薬廠が発足した。

本レンガ棟の建設の時期が不明であるが、爆発物の安定度試験場は海軍が買収した時にはすでに存在していたと考えられる。しかし、1923(大正12)年の関東大震災では、この種の煉瓦造は崩壊したと推察される。半壊であれば、改修の跡が窺えるが、その痕跡は見られないので、震災後の建築のようである。

さらに、平塚の大空襲でも、被災せず残存したことは幸運であった。平塚では煉瓦造がこの建物以外には無いようである。パイロットコーポレーションのレンガ棟は平塚市の建造物の文化財に相当するものである。

 

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 22(5)パイロットコーポレーションのレンガ棟・・・・イギリス積でバッレス(控え柱)が密に建造されれいる。Ⅼ字形の煉瓦造で、建物の中央に通路が造られ、安定度試験場のため、細かく間仕切りされている。煉瓦の大きさは長さ210mm、幅95mm、厚さ55mmで比較的小ぶりであり、積み方は4段9寸(272mm)。窓からの侵入警戒のため建物の全周にわたって、警報装置を取り付けた痕跡が見られた。刻印は発見できなかった。 

 

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 23(1) 横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門(旧横須賀重砲兵連隊営門)・・・・写真は

旧横須賀重砲兵連隊営門。横須賀重砲兵連隊は1890(明治23)年に要塞砲兵第一連隊として設置された。現在残る門は連隊の正門で、1907(明治40)年10月26日に竣工されている。正面から向かって右側の門柱に「横須賀市立坂本中学校」の表札が掲げてある。

 

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23(2)  横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門(旧横須賀重砲兵連隊営門)・・・・正面から見て左側の門柱に「横須賀市立桜小学校」の表札が掲げてある。門柱はかなり堅牢であり、重砲兵連隊の勢力を現わしている。

門柱に連なってい残る約16mの塀は、1891(明治24)に出来上がったものと推定されている。門柱はその後、1907(明治40)年10月26日に竣工したという。長さ16mの塀の跡に連隊の正門が完成したことになる。なぜ、正門が後から完成したのか、疑問が残る。恐らく、以前の門柱は連隊の規模に照らしてやや小さかったと見られる。装備した火砲が大型化し、門柱の幅が狭かったこと、日露戦争で勝利し陸軍の権威を高めることなどが考えられる。後から完成した門柱は58cm角、高さ3.24m、塀の高さ1.8mで、堂々としている。

 

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 23(3) 横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門(旧横須賀重砲兵連隊営門)・・・・煉瓦塀の道路側に解説の柱が建ててあった。文言は次のとおり。「横須賀市指定市民文化資産 旧横須賀重砲兵連隊営門 連隊の正門で、1907(明治40)年10月に竣工した。これに連なる塀は、1891(明治24)に完成したものと推定される。本市に残る数少ない明治建造物である。」 

 

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 23(4) 横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門(旧横須賀重砲兵連隊営門)・・・・煉瓦壁の転倒防止のため、煉瓦壁の裏面に堅牢なささえ柱を設けている。丁寧な工事である。陸軍の塀が倒れたなど、恥になるような作業はしなかった。

 

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 24(1) 海上自衛隊横須賀造修補給所煉瓦倉庫(旧横須賀海軍軍需部第二計器庫)

・・・JR横須賀線田浦駅を海岸方面にでると旧横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫群がある。現存する倉庫は相模運輸倉庫が7棟。海上自衛隊横須賀造修補給所の倉庫が6棟ある。横須賀には多くの煉瓦造建築物があったが、関東大震災の影響で土木遺構以外で、その姿をみることはほとんどない。海上自衛隊の地区に1921(大正10)年築の煉瓦造「旧第二計器庫」が残っている。イギリス積、2階建、キングポストトラスの木造の小屋組、梁間17.1m、桁行72.48m、間柱で挟まれた中央を通路としている。

 

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 24(2) 海上自衛隊横須賀造修補給所煉瓦倉庫(旧横須賀海軍軍需部第二計器庫)

・・・・外壁は帯鉄で巻かれ、その上にコンクリートの付け柱が等間隔で設置されており、内部にも同じように付け柱が見られるという。帯鉄や付け柱は震災後に補強のためつけられたものとみられる。

 

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24(3)海上自衛隊横須賀造修補給 所煉瓦倉庫(旧横須賀海軍軍需部第二計器庫)

・・・・煉瓦造取り巻く帯鉄、コンクリートの付け柱がよく見える。妻面が波板鉄板で覆われている。建設当初は煉瓦造であったと見られる。多分関東大震災で妻面が損傷したので除去したかもしれない。相模運輸倉庫エリア にもう一棟煉瓦造があるが、全面をモルタルで塗り固めているという。この煉瓦造はこの「第二計器庫」よりも古い建築物であるという。この建物から「小菅集治監製煉瓦」を現わす刻印が確認されたという。

 (「神奈川県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」参照)

 

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 25(1)多摩川親水公園の煉瓦壁(旧明治製糖の護岸壁)・・・・1906(明治39)年、川崎駅西口に川崎市最古の大工場である横濱製糖川崎工場が開設された。1912(明治45)年、明治製糖(現・大日本明治製糖)と合併し、1923(大正12)年、関東大震災により壊滅的打撃を受けたが、最新設備の整った工場として復興を遂げた。

川崎工場裏手の多摩川沿いには、煉瓦造の護岸壁(河岸、海岸などの水際の浸食防止のための壁)が建設され、ここに「テルファー」と呼ばれる当時最新の移動式クレーンが設置された。横浜港から〝はしけ〟(大型船と陸との間を往復して貨物や乗客を運ぶ小舟)により運ばれた原料は、テルファーで陸揚げされ工場内へ運搬されていたようである。多摩川沿いには煉瓦造の護岸壁が現存している。

 

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 25(2) 多摩川親水公園の煉瓦壁(旧明治製糖の護岸壁)・・・・川崎は、安価な工場用地と二ヶ領用水の工業用水が確保できた点、原料や製品の輸送が陸上・海上ともに便利な点、大都市に隣接しているという立地条件などから、この明治製糖を皮切りに次々と工場が建設された。当初、明治製糖川崎工場の資材水上運搬施設の一部として建築された赤煉瓦造の護岸壁。現在は、多摩川親水公園の一部として市民に親しまれている。

 

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 25(3) 多摩川親水公園の煉瓦壁(旧明治製糖の護岸壁)・・・当初、明治製糖川崎工場の資材水上運搬用施設の一部として建築された赤煉瓦造りの護岸壁でした。

現在は多摩川親水公園の一部として市民に親しまれている。

赤煉瓦造の壁は長さ約300m、イギリス積、煉瓦壁の高さは平均2.5m。約半分は埋まっていると考えられるので、建設当初は高さ約5m以上の赤煉瓦壁であったと推定している。

日本赤煉瓦建造物番付

 

   ◎日本赤煉瓦建造物番付 神奈川県場所 令和二年十一月

          《ベスト30》のうち26~30位

        勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

《順位》    《取在地》   《 名 称 》

前頭・・・・26.(藤沢市)旧サムエル・コッキング庭園の煉瓦造温室遺構

前頭・・・・27.(横浜市)山手80番館遺跡

前頭・・・・28.(横浜市)ジェラール水屋敷地下貯水槽

前頭・・・・29.(横浜市)旧横浜居留地煉瓦造下水道

前頭・・・・30.(横浜市)旧居留地消防隊地下貯水槽遺構

 

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26(1) 旧サムエル・コッキング庭園の煉瓦造温室遺構・・・・英国人貿易商サムエル・コッキングが、江の島に造った庭園の一角に巨額の私財を投じて1887(明治20)年頃、煉瓦造温室を建造した。1923(大正12)年の関東大震災で温室の上屋はすべて倒壊したが、煉瓦を主体とした基礎部分や地下に造られた施設が残った。

 

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26(2) 旧サムエル・コッキング庭園の煉瓦造温室遺構・・・・地下通路の入口、通路の幅は約1m、高さ約1.9m、天井はアーチ型。

 

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26(3) 旧サムエル・コッキング庭園の煉瓦造温室遺構・・・・遺構の一部

 

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 26(4) 旧サムエル・コッキング庭園の煉瓦造温室遺構・・・・遺構の各所にこのような解説板が建てられている。

 

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26(5) 旧サムエル・コッキング庭園の煉瓦造温室遺構の煉瓦刻印・・・・遺構の上に通路が設けられており、見学者は通路から下の遺構や煉瓦を見ることができる。①と②の刻印は現地で確認できた。刻印①の煉瓦は多摩川沿いに工場があった「横浜煉化製造会社」の製品である。刻印②の製造所は不明。③④は「○にカ」の刻印で旧東京砲兵工廠銃包製造所(自衛隊十条駐屯地)の建物に使用されていた。製造所の特定はできていないが、東京の荒川沿いの煉瓦工場と見られる。(刻印の出典はインターネット「歩鉄の達人」より転写)

 

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27(1) 山手80番館遺跡・・・・関東大震災前に建てられた横浜に唯一現存する外国人の住宅の遺構で、当時の生活状況を伝える貴重な遺跡。震災当時はマクガワン夫妻の住居であったという。解説板(27(4))によれば、遺構の概要は次のとおり。

「構造規模:鉄筋補強煉瓦造(当初3階建)、建築面積:180㎡、外壁:人造石貼、

内壁:モルタル塗・一部漆喰塗、床:コンクリート及び土間(当時板床)・一部タイル敷、附属設備:煉瓦造浄化槽、建設年代:明治末~大正初期、設計者:不詳、居住者:マクガワン夫妻(大正12年当時)」

 

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27(2) 山手80番館遺跡・・・・建造物は3階建のため、煉瓦壁がかなり厚い。

 

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27(3) 山手80番館遺跡・・・・山手80番館は、煉瓦壁体が鉄棒によって補強されており、耐震上の配慮がなされていたが、床部のせりあがりや壁体の亀裂が随所にみらて関東大地震による被害が甚大であったことがわかる遺構である。

 

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27(4) 山手80番館遺跡・・・・現地に建つ解説板。山手80番館はかなり広い面積の建物で、間取りの多い3階建の煉瓦造であった。

 

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28(1) ジェラール水屋敷地下貯水槽・・・・この建造物は、登録有形文化財(建造物)に2001年4月24日に登録されている。建設:1877~1886(明治10)年代。煉瓦造、面積114㎡、所在地:横浜市中区元町1-77。

幕末から横浜に居住したフランス人ジェラールが経営した船舶給水業の施設で、兼業したフランス瓦・煉瓦製造工場の地下に築造され、谷戸の湧水を集めて貯水した。天井はいわゆる防火床。水屋敷の遺構として親しまれ、最近ポケットパーク的に整備された。(文化庁データーベース参照)

 

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28(2) ジェラール水屋敷地下貯水槽・・・・元町公園中央の低地部分や市営プールなど「ウォーターガーデン」として整備されているあたりは、明治の初めにフランス人実業家ジェラールが船舶給水業を営んだ場所として知られている。湧き水を簡易水道で引き、外国船に飲料水として売っていた。その品質の良さで好評だったらしい。ジェラールはまた同地で西洋瓦の製造も行っている。ジェラールのこれらの施設を、人々は「ジェラールの水屋敷」と呼んだという。

ジェラールは1878(明治11)年に帰国、工場はフランス人ドゥヴェーズが継承し1907(明治40)年に工場の機械類が売却されるまで、このドゥヴェーズがジェラール工場の

繁栄を支えていた。

 

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28(3) ジェラール水屋敷地下貯水槽・・・・現地に建つ「ジェラールの瓦工場と水屋敷跡」を説明した解説板。

 

 

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29(1) 旧横浜居留地煉瓦造下水道・・・・煉瓦造土木構造物、建設年代:1881~1883(明治14~16)年、故造及び形式等:外径長4.0m、外径幅3.2m、沈殿槽部深さ2.1m、前後卵形管延長41.5m附属。

明治初年のブラントン設計による陶管下水道を煉瓦造に改造した際の施設。当時神奈川県御用掛の三田善太郎が計画にあたる。日本人の計画になる最初の近代下水道遺構として貴重。2本の中下水卵形管を接続する。大桟橋入口の開港広場に保存展示されている。(文化庁データーベース参照)写真は横浜都市発展記念館前に展示されている卵形煉瓦造下水管。

 

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29(2) 旧横浜居留地煉瓦造下水道・・・・横浜都市発展記念館前に建つ解説板。

 

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30(1) 旧居留地消防隊地下貯水槽遺構・・・・1871(明治4)年から1899(明治32)年まで居留地消防隊の本拠地だった場所にある遺構。1972(昭和47)年まで使用されていた。

横浜市認定歴史的建造物に指定されている。所在地は横浜市中区日本大通12、横浜都市発展記念館前。

 

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30(2) 旧居留地消防隊地下貯水槽遺構・・・・建造年:1893(明治26)年(推定)、構造:煉瓦造(イギリス積)、規模:底面3.19m×3.17m・高さ4.50m・貯水量28㎥、

ここは、居留地消防隊が本拠地として使用した後にも、日本初の消防車(1914(大正3)年)、救急車(1933(昭和8)年)が配置されるなど、日本における近代消防ゆかりの地ともいえる場所である。

 

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30(3) 旧居留地消防隊地下貯水槽遺構・・・・現地に建つ解説板。

YKKの町、富山県黒部へ ~干しカレイの町~

 ある会員の方から、富山にいるなら、黒部市にあるYKKの史料館に、日本機械遺産学会が認定した機械遺産「ファスナーチェーンマシン(YKK-CM6)」があるので、見てきたらどう、との連絡をいただき、先日、行ってきました。

 

 そこは「あいの風とやま鉄道」(元・JR北陸線)の生地(いくじ)駅から歩15分ほどの所にある「YKKセンターパーク」です。

 

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 「YKKセンターパーク」という広々とした敷地にあるこの建物は、1958(昭和33)年に建てられたファスナーの基布紡績工場でした。

 その工場が役割を終えた後、取り壊さずに資料館として再生しました。

 

 2010年に「BELCA賞ベストリフォーム部門賞」を受賞しています。歴史的建造物を改造して、後世に引き継いだことが高く評価されました。

 なお、横浜赤レンガ倉庫なども、この賞を受賞しています。

 

 さて、展示室ですが、写真撮影は禁止でした。機械遺産に認定されたそのファスナーも展示されていましたが、撮ることはできませんでした。

 

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 同社は、1994年に「YKK」と社名変更するまで「吉田工業」でした。創業者は故・吉田忠雄、PR施設があるこの場所は黒部市吉田という町名です。

 

 ファスナー事業で積極的に海外展開し、現在は72カ国・地域で事業をしています。

地味で保守的な県として知られる富山では珍しい““インターナショナル企業“です。展示説明は、英語が先で、日本語はその下にありました。なんともオシャレ!です。

 例えば、次のように。

 

「Longer Fiber Suits Zipper Yarn」の英文の下に「ファスナー用の糸には長い繊維が必要です」と。

 

「We Make All Dies Ourselves」「あらゆる金型を自社でつくる」といった感じで。

                 ◇

 ファスナーは1893年に米国で発明されたのですが、用途として最も厳しい条件が求められたジーンズ用で米国製品を凌駕するものを開発したことで、YKKはファスナーで世界1になるきっかけをつかんだそうです。

 

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 展示館の敷地の一角はビオトープになっていて、カエルの卵などが見えました。初夏になるとヘビも出るそうです。

 

 池を覗くと、クルミがいくつも落ちていました。

 クルミ黒部市ではごく普通に見られるそうです。果実が熟すると黒くなるので、

クルミのことを地元の方言で「くろべ」といい、その名が地名の黒部となったようです。

 センターパークから日本海に向け約1.5キロ歩くと黒部漁港に着きます。

 

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 漁港に隣接して魚の駅「生地(いくじ)」があります。海産物を扱う市場になっています。

 

 そこで見かけたのが「カレイのほっぺ」です。説明文を読んでみてください。

 

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 この黄色い説明紙の下の冷凍ケースにその「ほっぺ」はありました。確か6個入りのコブクロで650円程度でした。

 店内にはいろんなカレイが並び、私は、長さ30センチ弱のアカガレイの一夜干しを2匹買いました。帰宅して焼いて食べたのですが、うーん、なかなか美味でした。

 

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 上のアカカレイは結構大きい方です。

 

 海岸通りの魚店の店先にカレイが干してありました。黒いのは鳥よけです。

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 産業遺産に関心を持って旅に出ることと、「食」とは、密な関係にあると常々思っていますので敢え魚等を紹介しているのですが、ここ生地(いくじ)という所は、詩人の田中冬二の郷里でもあります。その詩は教科書にもよく載っています。

 

 その故郷である生地での詩「ふるさとにて」の中に、「ほしがれひをやくにほひがする」の句もあります。

 

 産業史に戻りますが、田中冬二の母方の祖母は安田善次郎の妹です。そういう血縁もあり、冬二は安田銀行(後の富士銀行)に就職します。

                      以上です。   (K.O)