産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

 

      ◎日本赤煉瓦建築物番付 神奈川県場所 令和二年十一月

           《ベスト30》のうち6~10位

         勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

《順位》 《所在地》     《 名 称 》

前頭・・・・6.(横須賀市浦賀ドッグ・煉瓦塀

                                 (旧住友重機械工業株式会社追浜造船所浦賀工場)

前頭・・・・7.(横須賀市観音崎砲台

前頭・・・・8.(横須賀市・逗子市)JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群

前頭・・・・9.(横須賀市)シティ・マリーナ・ヴェラシス内  川間ドック

前頭・・・・10.(横須賀市横須賀市水道局走水水源地煉瓦造貯水池

 

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 6-1. 浦賀ドック (1)・・・・この造船所は、1896(明治29)年、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め、翌30年6月21日の会社設立登記をもって発足したものである。(解説板より)写真は浦賀ドックの最先端にある「入船した艦船の位置を決める装置」である。枠の中心にある垂直の線に、ドック入りした艦船の中心線を合わせるための器具である。 

 

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  6-2. 浦賀ドック (2)・・・・ドックの大きさは、長さ148.4m、幅19.7m、深さ8.4m、1899(明治32)年竣工、設計:杉浦栄次郎、世界でも煉瓦造のドックは珍しい。

 

 

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  6-3. 浦賀ドック (3)・・・・会社の正門近くに建っている解説板。「創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。」「造船界は、技術面や設備面で大きく立ち遅れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もそのなかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約百五十円で雇いドックを築きました。」(解説板より) 

 

 

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  6-4. 浦賀ドック(4)・・・・入船した艦船の底に各種の資材を入れて傾かないようにする必要があり、それらの資材を移動させる人員が、ドックの底に降りるための階段が数か所設けられている。 

 

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  6-5. 浦賀ドック (5)・・・・側壁の表面に積まれた煉瓦は、焼過煉瓦のフランス積。階段部、角部、平坦部は石材やコンクリート造で構築されている。煉瓦は愛知県の三河地方の岡田煉瓦製造であることが、数年前判明した。一社で全部の煉瓦を納めることは困難であると推察している。表面の焼過煉瓦は岡田煉瓦製造であり、裏積みの煉瓦は各社製造の普通煉瓦が使用されていると考える。 

 

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  6-6. 浦賀ドック (6)・・・・地表からドツクの底まで、3~4段の段差がある。段差の部分は石材で構築されている。写真はドックの先端部に近い場所であり、煉瓦積がやや湾曲している。右上の黄色に塗装した装置が、(1)の入船した艦船の位置を決める装置の一部である。

 

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  6-7. 浦賀ドック の煉瓦塀(1)・・・・会社の正面出入口から、道なりに進むと、会社の煉瓦塀がある。以前は、もっと長かったようであるが、最近、補強のため煉瓦塀に帯鉄を二本回したようである。長さは12~13m、高さは1.8~2.0m弱。 

 

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  6-8. 浦賀ドック の煉瓦塀(2)・・・・(1)の煉瓦塀を拡大した写真。会社創設の当初からの煉瓦塀と見られる。フランス積。 

 

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 7-1. 観音崎砲台:北門第1砲台(1)・・・・「北門第一砲台跡 この観音崎三浦半島の最東端にあり、東京湾を一望できることから、古くから東京湾防備の要塞地帯として使用されていました。この砲台は明治13年6月5日着工、明治17年6月27日完成、半円形の2基の砲台が扇形に配置され、ここに口径24cmの巨砲2門が海に向かって並び両砲台はトンネルで通じており地下には弾薬庫と兵員室がありました。」(解説板の読み) 

この砲台に配置された24cm加農砲は外国製であると思われる。ドイツのクルップ社、フランスのシュナイダー社、サンシャモン社、カネー社、イギリスのアームストロング社などから砲の売込みがすごかった。大阪砲兵工廠での初の鋼製砲身製造は、1903(明治36)年以降であった。 

 

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7-2. 観音崎砲台:北門第1砲台(2)・・・・北門第1砲台は1880(明治13)年起工、1884(明治17)年竣工、2基の砲座からなり、口径24cm加農砲が1門ずつ設置されていた。右側が第1砲座、左側が第2砲座、中間に煉瓦造のトンネルがあった。写真中央のモルタルが一部剥げた建物がトンネル。矢印の方向が地下室にいたる石段の方向である。現在、地下室につながる出入口は完全に塞がれている。地下室には弾薬庫や兵員室があった。多分、煉瓦造のまま残っていると思われる。真中の矢印はトンネルの中から入るようになっていた。天井らしきものが見える。砲台の除籍は1915(大正4)年である。 

 

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7-3. 観音崎砲台:北門第1砲台(3)・・・・第1砲座(手前)と第2砲座(奥の方)を結ぶトンネル。トンネルの中から地下室へ下りる出入口があった。 

 

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7-4. 観音崎砲台:北門第1砲台(4)・・・・トンネル内から地下室への出入口は煉瓦で塞がれている。側面の煉瓦はフランス積。 

 

 

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 7-5. 観音崎砲台:北門第2砲台(1)・・・・「北門第2砲台について ここ観音崎東京湾側に突出した岬であるため、古くから東京湾防備の要塞地帯として使用されてきました。この砲台は明治13年5月26日着工、明治17年6月27日完成しました。24加砲6門と弾薬庫がつくられましたが、現在は4砲座と弾薬庫が残っています。」(説明板の読み:原文のまま)現在、残っているのは右側の3砲座だけである。24加砲6門は外国製の大砲であると考えられるが、会社名は不詳である。

  

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7-6. 観音崎砲台:北門第2砲台(2)・・・・北門第2砲台は、1880(明治13)年起工、1884(明治17)年竣工。6基の砲座からなり、口径24cm加農砲が6門設置されていた。

除籍は1925(大正14)年。現在、左3基の砲座は取り壊され東京湾海上交通センターの敷地となった。トンネル側に右側3基の砲座だけが残されている。写真は第1砲座、右下の金網の下はトンネル内につながる出入口。

 

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 7-7. 観音崎砲台:北門第2砲台(3)・・・・トンネル内には第1砲座への通路の出入口と、2棟の弾薬庫跡がある。すべての出入口の周りは煉瓦造であるが、扉の部分は塞がれている。

 

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7-8. 観音崎砲台:北門第2砲台(4)・・・・各砲座には砲側弾薬庫が設置されているが、第1砲座・第3砲座の砲側弾薬庫の出入口はコンクリートで塞がれているため内部を見ることはできない。第2砲座の砲側弾薬庫は鉄製扉(写真)であり、普段は立ち入ることは出来ないが、砲台見学ツアー等では見学することができる。 

 

 

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7-9. 観音崎砲台:北門第3砲台・・・・北門第3砲台は1882(明治15)年起工、1884(明治17)年竣工、 2基の砲座に、28cm榴弾砲を2門ずつ設置したので、合計4門が配備された。日露戦争の激戦地であった「203高地奪取」「旅順陥落」に活躍した28cm榴弾砲は、この砲台からも取り外し、戦地に運ばれた大砲である。除籍は1925(大正14)年。

28cm榴弾砲は砲兵少佐ポンペオ・グリロらお雇いイタリア人が1884(明治17)年大阪砲兵工廠で完成させた鋳鉄製の大砲であり、正式採用は1892(明治25)年。現在、左砲座は取り壊され海の見晴らし台となり、右砲座だけが残されている。写真は第3砲台にあるトンネル(現在は通行禁止)で、当初は素掘りで造られたものを、後にイギリス積で補強したようである。(トンネルの写真はインターネットから転写)

 

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7-10. 観音崎砲台:火薬庫(1)・・・・旧陸軍が1898(明治31)年に東京湾要塞の「観音崎砲台火薬庫」として建設した。戦後、1982(昭和31)年から「観音崎青少年の村」として利用。2011(平成23)年に閉鎖されるまでの29年間、青少年のための宿泊施設

であった。2016(平成28)年1月、県立観音崎公園パークセンターとして発足した。写真はパークセンターの本館(旧第2火薬庫)。

  

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7-11. 観音崎砲台:火薬庫(2)・・・・青少年の村の頃は、赤煉瓦部分を白モルタルで塗装していた。内装を全面的に改装し、赤煉瓦に塗られた白モルタルを剥がし、亀裂のある煉瓦を交換するなど、経費と時間がかかった。公園管理事務所と多目的室があり、煉瓦造平屋、床面積188㎡、イギリス積、煉瓦約11万1000個、壁厚煉瓦1枚分、基礎部分はアーチが連続する構造で、火薬を湿気から守る工夫が施してあった。

 

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7-12. 観音崎砲台:火薬庫(3)・・・・床下に相当する基礎部分の焼過煉瓦には、白モルタルは塗装してなかった。その上の赤煉瓦には白モルタルを剥がした跡が見える。

火薬庫は第1~第4まであった。パークセンターは旧第2火薬庫、旧第1火薬庫はパークセンターの敷地にあるが、少し離れた場所にある。改修されずに白モルタル塗りのままで、立入り禁止になっている。第3火薬庫はパークセンター本館前の道路の向こうにあったが何も残っていない。第4火薬庫は駐車場になっている。

  

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7-13. 観音崎砲台:火具庫・・・・「青少年の村」の頃、2号棟と呼ばれていた煉瓦造は「火具庫」であった。パークセンター本館の後に位置する。経費不足のため白モルタルを剥がしただけで、内装工事は中断しているという。  

 

 

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 7-14. 観音崎砲台:三軒家砲台(1)・・・・「三軒家砲台跡 この砲台は明治27年12月15日着工、明治29年12月15日完成の27加砲4門、12加農2門の砲台で原形に近い形で残されています。地下庫、見張所、井戸、便所等もありましたが昭和9年8月20日廃止されました。」(解説板の読み)文章では「27加砲」となっているが、図面の右側砲座には「24加砲」と書いてある。いずれが正しいか分からない。27cm加農は、フランスのカネー社やシュナイダー社から購入したという記録がある。除籍1934(昭和9)年。

 

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7-15. 観音崎砲台:三軒家砲台(2)・・・・写真は口径27cm加農砲の第4砲座と口径12cm加農砲の第1砲座の間にある煉瓦造構造物で倉庫建風のようである。解説板の略図から判断すると地下に弾薬庫があると見られる。煉瓦造はイギリス積、地面に近い約15段までは焼過煉瓦を使用している。正面幅は15~17m、中央部に鉄の扉があり、入口の上部には10段巻のアーチが施工してある。風通しがいい場所であり、煉瓦の傷みは無く極めて良好である。 

 

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7-16. 観音崎砲台:三軒家砲台(3)・・・・写真(2)の建物の鉄製扉(出入口)、上部には小口積のアーチは9枚巻である。贅沢な積み方である。 

 

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7-17. 観音崎砲台:三軒家砲台(4)・・・・4基の砲座の中間(3個所)にある地下壕に下りる石段の両側に積まれた煉瓦壁。焼過煉瓦を使用したイギリス積。地下室は弾薬庫とみられる。枯葉や土砂が堆積しているが石段は約15~18段ある。写真の右側側面にコンクリートで塞いだ出入口が見える。 

 

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7-18. 観音崎砲台:三軒家砲台(5)・・・・弾薬庫と見られる出入口のアーチ積。長手積が3枚巻、小口積が3枚巻、小口積に換算すれば9枚巻のアーチ。(2)のアーチと同じ数の巻き方。   

 

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7-19. 観音崎砲台:三軒家砲台(6)・・・・正面は第2砲座。中央石段の左右に下に降りる石段がある。地下室に弾薬庫があると見られる。

  

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8-1. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・横須賀駅から東逗子駅間は複線であり、上り線6箇所、下り線6箇所、合計12個所の煉瓦造トンネルがある。写真は横須賀駅側から写した「吉倉トンネル」。右側が下り線、左側が上り線。下り線と上り線のトンネルは合体しており、長さは同じ161m。トンネルの竣工は下り線 1889(明治22)年、上り線は1920(大正9)年。東逗子駅側からのトンネル撮影は適当な場所が無くできなかった。 

 

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8-2. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・横須賀駅側から見た「田の浦トンネル」。右側が下り線、左側が上り線。長さは上り線・下り線ともに188.1m。下り線のトンネルは、上り線のトンネルよりも高さが低い。 

 

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8-3. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・東逗子駅側から見た「田の浦トンネル」。左側が下り線、右側が上り線。二つのトンネルの竣工時期は異なるが、坑門の笠石などは、ほぼ同じような意匠に建設されている。トンネルの高さは下り線が5.64m、上り線が6.0m。 

 

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8-4. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・横須賀駅側から見た「長浦トンネル」。下り線の竣工は1889(明治22)年、上り線の竣工は1924(大正13)年。下り線の煉瓦は焼過煉瓦が使用されている。

 

 

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8-5. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・「長浦トンネル」は常光寺の真下を貫通している珍しいトンネルである。常光寺の境内から長浦トンネルを写した写真。長さは下り線が184.33m、上り線が184.0mで、下り線が少し長いのが分かる。 

東逗子駅側からの撮影は適当な場所が無くできなかった。

 

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8-6. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・横須賀駅側から見た「七釜(しっかま)トンネル」。長さは96.6m。トンネルの竣工は、中央の下り線が1889(明治22)年、左側の上り線が1924(大正13)年、右側のコンクリート造のトンネルは海軍用の引込み線で1943(昭和18)年の建造。 

 

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8-7. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・田浦駅ホームから横須賀駅側を見た「七釜トンネル」。右のトンネルが上り線、中央が下り線、左が引込み線。

  

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8-8. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・田浦駅ホームから東逗子駅側をを見た「田浦トンネル」。田浦トンネルは下り線、上り線がほぼ合体した煉瓦造トンネルである。長さは94,7m。竣工は下り線は1889(明治22)年、上り線は1920(大正9)年。1924(大正13)年田浦駅から横須賀駅まで 複線化が完了した。

 

 

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8-9. JR横須賀線横須賀駅東逗子駅間煉瓦造トンネル群・・・・東逗子駅側から見た「田浦トンネル」。東逗子駅から田浦駅までの複線化は1920(大正10)年には完了していたが、田浦駅から横須賀駅までの複線化は関東大震災で遅れて、完了したのは1924(大正13)年であった。

田浦駅から東逗子駅間に、煉瓦造の「沼間トンネル」(長さ:下り線 442.6m、上り線 441.1m)があるが、まだ撮影していない。 

 

 

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9-1.    シティ・マリーナ・ヴェラシス内  川間ドック(以下:川間ドックという)・・・・1898(明治31)年、川間ドックは竣工している。長さ136.7m、幅16.4m、深さ9.7m、設計:大倉粂馬・恒川栁作、煉瓦造のドックは世界でも珍しい。 

 

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9-2. 川間ドック・・・・「(株)東京石川島造船所が、大型船の建造修理のため、当時、取締役会長であった渋沢栄一の提案により、明治二十八年(1895)十月に浦賀分工場として建設に着手し、同三十一年に営業を開始しました。同三十五年には浦賀船渠(株)が買収し、以後、同社の川間分工場になりました。浦賀行政センター市民協同事業・浦賀探訪くらぶ」(原文のまま) (2003(平成15)年3月22日撮影) 

 

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9-3. 川間ドック・・・・世界で4~5基しかない煉瓦造のドックが浦賀に2基(浦賀ドックと川間ドック)あるという。川間ドックは1983(昭和58)年閉鎖し、1989(平成元)年リゾート開発で、マリーナ(ヨットハーバー)の会社が所有するようになった。

 

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9-4. 川間ドック・・・・川間ドックの竣工は1898(明治31)年であるが、煉瓦の積み方はイギリス積。浦賀ドックの竣工は1899(明治32)年で、煉瓦の積み方はフランス積。

通説ではフランス積は明治10年代、イギリス積はそれ以降という。多分、2基の煉瓦造ドックの建設計画または建設開始は、ほぼ同じであったと見られる。浦賀ドックは政界の榎本武揚の提案であり、川間ドックは民間の渋沢栄一の提案であるため、建造にあたり煉瓦の積み方や完成時期など競争したと推察できる。 

 

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9-5. 川間ドック・・・・川間ドックの建設には渋沢栄一がかかわっているため、川間ドックの使用煉瓦は渋沢栄一らが設立に関与した深谷市上敷免の「日本煉瓦製造会社」のものであろうと推察している。是非、刻印を見たいものである。

 

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10-1. 横須賀市水道局走水水源地煉瓦造貯水池・・・・登録有形文化財(建造物)、2000(平成12)年2月15日  登録。所在地:横須賀市走水1-1-26、煉瓦造、面積143㎡、所有者:横須賀市水道局。「解説文:横須賀軍港水道走水水源地の第1期拡張工事で建設された上屋付き煉瓦造貯水池。内部空間を構成する扁平ヴォールトが、入口・丸窓を左右対称に配した壁面で覆われ、屋上は盛土される。横須賀鎮守府経理部建築科の海軍技師井川喜久蔵、堀池好之助らが担当。」(文化庁データーベース参照)

 

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10-2. 横須賀市水道局走水水源地煉瓦造貯水池・・・・写真は「横須賀市水道局走水水源地煉瓦造貯水池」を解説板。この煉瓦造貯水池は1902(明治35)年竣工した。「ここ走水一帯は、昔から地下水の豊富なところとして知られ、明治初年頃、水おけで飲み水を市民に売り歩く商売がありました。その水は、この走水地内仲町わき水を船で運んだものだという。現在地の水源を発見し、市内で最初の水道を実現したのは、横須賀製鉄所や観音埼灯台の建設に功績を残したフランス人技師、フランソワ・レオン・ヴェルニーです。」(横須賀風物百選「水道水源地」の解説板参照)

 

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10-3. 横須賀市水道局走水水源地煉瓦造貯水池・・・・「1874(明治7)年5月27日、この水源から横須賀造船所(現米軍基地内)までの約7kmの水道工事に着手しました。内径約12.5cm、長さ1mの土管をつなぎ合わせて埋没し、土地の高低差を利用して水を送る自然流下方式で、1876(明治9)年12月に完成した。その後、水道管は土管から鋳鉄管に替わり、内径も約20cmになりました。更に1901(明治34)年から1902(明治35)年にかけて内径約25cmの水道管が敷設され、動力ポンプによる送水方式となりました。」(横須賀風物百選「水道水源地」の解説板参照)

 

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10-1. 横須賀市水道局走水水源地煉瓦造貯水池・・・・「それまでの水道は、軍需用でしたので、市民の水道を敷設するため、不要となった水道管すべての払い下げを受け、走水の覚栄寺境内のわき水を水源として、市内三町に送水を開始しました。市制施行1年10ヵ月を経た1908(明治41)年12月15日のことです。使用戸数は332戸と記録されています。この水源からは、現在も1日2,000㎥の良質な地下水を供給している市内唯一の水源地であり、災害時には応急給水の拠点となります。」(横須賀風物百選「水道水源地」の解説板参照)