産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

 ◎日本赤煉瓦建造物番付 群馬県場所 令和元年十月

                      《ベスト30》のうち  1~10位

          勧進元 東京産業考古学会 八木司郎

 《順位》 《所在地》  《 名 称 》         《備考》

横綱・・・・1.(富岡市)旧富岡製糸場・・・・・・・・・・・・・・・国宝3棟・重文6棟・総覧・赤煉

横綱・・・・2.  (安中市)旧碓氷峠鉄道施設群・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

             重文(橋梁5基・隧道10基・建物2棟)・総覧・赤煉・赤土・土木

大関・・・・3.(高崎市)旧新町紡績所(クラシェフーズ新町)・・・重文3棟・総覧・赤煉

関脇・・・・4.(前橋市)前橋刑務所煉瓦壁・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

小結・・・・5.(前橋市)旧安田銀行担保倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧

前頭・・・・6.(前橋市)上毛倉庫(株)2号倉庫・3号倉庫・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・7.(伊勢崎市)伊勢崎市境赤レンガ倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧・自指

前頭・・・・8.(館林市他)渡良瀬川橋梁と東武鉄道煉瓦造橋梁・・・・・・・総覧・土木

前頭・・・・9.(桐生市)旧(株)金芳織物工場鋸屋根工場・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧・赤煉

前頭・・・・10.(桐生市)旧矢野蔵群(有隣館、仕込蔵、煉瓦塀)・・・・総覧・赤煉・自指

 

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1-1.旧富岡製糸場・・・・国宝「繰糸所」。1872(明治5)年竣工、木骨煉瓦造、建築面積1,726.92㎡、東面玄関附属、桟瓦葺。旧富岡製糸場は、明治政府が設立した模範的な器械製糸工場である。フランス人の生糸検査人ブリュナの企画指導のもと、横須賀造船所の技師バスティアンが図面を作成し、施工は日本人があたり、明治5年10月4日に操業を開始した。繰糸所は敷地の中心に位置する繰糸を行う建物で、桁行が140mと長大である。キングポストトラスの小屋組や高い天井、鉄製ガラス窓で明るい大空間を実現している。(文化庁データベース参照)煉瓦はフランス積。

 

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1-2.旧富岡製糸場・・・・国宝「東置繭所」。1872(明治5)年竣工。木骨煉瓦造、建築面積1,486.60㎡、2階建、北面庇・北西面・西面及び南面ヴェランダ付、桟瓦葺。東西の置繭所は、繰糸所と直交方向に建つ桁行104m、2階建、ほぼ同形の建物である。眉を乾燥、貯蔵し、乾燥のために多数の窓を持つ、東置繭所は入口正面の建物でアーチの要石に「明治五年」の銘を刻む。旧富岡製糸場は、明治政府が推進した産業近代化の施策を端的に物語る官営の器械製糸工場で、繰糸所と東西の置繭所は我が国の製糸工場建築の模範となった。(文化庁データベース参照)煉瓦はフランス積。

 

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1-3.旧富岡製糸場・・・・国宝「西置繭所」。竣工・構造及び形式等は東置繭所とほぼ同じ。写真は西置繭所の裏側の道路から撮影したもの。この方向から見る人は少ない。右側の建物は繰糸所の一番奥の部分である。煉瓦はフランス積。

 

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1-4.旧富岡製糸所・・・・重要文化財「首長館」(通称:ブリューナ館)。木骨煉瓦造、建築面積917.03㎡、地下室及び四面ヴェランダ付、北面玄関及び廊下・東面教室及び便所附属、桟瓦葺(文化庁データベース参照)

 外に煉瓦造の重要文化財として「女工館」「検査人館」「蒸気釜所」「下水とう及び外とう」がある。

 

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2-1.旧碓氷峠鉄道施設群・・・・重要文化財「第三橋梁」(通称:めがね橋)。1893(明治26)年竣工、煉瓦造四連アーチ橋、橋長91.1m。松井田と軽井沢の間にある旧信越本線の鉄道施設。煉瓦造の橋梁7基、隧道11基、変電所3棟等からなる。橋梁・隧道は明治26年鉄道開通時(橋梁は明治29年に補強)、線路には峠越えの急勾配を克服するアプト式が用いられていた。(文化庁データベース参照)他に、重要文化財として「第二橋梁」「第四橋梁」第五橋梁」「第六橋梁」がある。

 

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2-2.旧碓氷峠鉄道施設群・・・・写真は重要文化財「第六隧道」入口。1893(明治26)年竣工、煉瓦造隧道、延長546.2m、甲横坑及び乙横坑付。現在、重要文化財に指定されている隧道は「第一隧道」「第二隧道」「第三隧道」「第四隧道」「第五隧道」「第六隧道」「第七隧道」「第八隧道」「第九隧道」「第十隧道」がある。第一隧道から第十隧道まで遊歩道として開放されている。

 

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2-3.旧碓氷峠鉄道施設群・・・・写真は重要文化財「丸山変電所機械室」。1911(明治44)年竣工。煉瓦造、建築面積354.75㎡、桟瓦葺一部鉄板葺、南面階段附属(文化庁データベース参照) 機械室には変圧機と回転変流機、昇圧機が設置されていた。横川発電所から特別高圧送電線により三相交流25ヘルツ、6,600ボルトで送られてきた電機は、変圧機によって電圧を変え、回転変流機により交流から直流に変えられた。そして、直流650ボルトで第三軌条(サードレール)に送電され、電気機関車を動かしていた。(旧碓氷峠鉄道施設ガイドブック参照)

 

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2-4.旧碓氷峠鉄道施設群・・・・写真は重要文化財「丸山変電所蓄電池室」。1911(明治44)年竣工、煉瓦造、建築面積430.77㎡、桟瓦葺一部鉄板葺、背面小屋附属、鉄骨鉄筋コンクリート造、建築面積34.63㎡。(文化庁データベース参照)

 蓄電池室には1列52個が6列、計312個の鉛蓄電池が並べられ、横川火力発電所から供給された電気を蓄えて、EC40形電気機関車に供給していた。その後、新型電気機関車の導入により大量の蓄電池は不用になり、1928’(昭和3)年頃から「機械室」として使用された。(旧碓氷峠鉄道施設ガイドブック参照)

 

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3-1.旧新町紡績所(クラシェフーズ新町)・・・・写真は重要文化財「旧新町紡績所 倉庫」。1897(明治30)年頃竣工、煉瓦造、建築面積293.66㎡、桟瓦葺1棟。旧新町紡績所は富岡製糸場から5年後の明治10年に明治政府が設立した絹糸紡績工場である。佐々木長淳を総括とし、ドイツ人の指導を受けながら大工の山添喜三郎ら日本人の手で建設された。明治42年まで操業を続け、その間工場の増築や建物の新築が図られてきた。工場本館のコの字形切妻造屋根部は官営期工場で、独特なトラスなどに洋風建築の技術と日本在来の技術の併用が見られる。鋸屋根の増築部、煉瓦造の機関室や倉庫は、明治期の紡績工場の発展形態を示している。(文化庁データベース参照)

 

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3-2.旧新町紡績所(クラシェフーズ新町)・・・・写真は重要文化財「旧新町紡績所 機関室」1898(明治31)年竣工、煉瓦造、建築面積414.21㎡、一部地下一階、鉄板葺、北面倉庫附属、木造、建築面積70.59㎡、桟瓦葺。(文化庁データベース参照)

他に、重要文化財「二階家煉瓦庫」がある。

 

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4-1.前橋刑務所煉瓦壁・・・・写真は「前橋刑務所正門」。1888(明治21)年「前橋監獄」が竣工。1922(大正11)年「前橋刑務所」の名称になった。周囲約1kmの及ぶ煉瓦造の高い壁。赤煉瓦総数は約170万個。(随筆:出典失念)

 

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4-2.前橋刑務所煉瓦壁・・・・写真は「前橋刑務所 煉瓦壁」。壁を支える補強のための柱は177ヵ所。刑務所の隣接地には家が並び、掘割に沿う道路は散歩道になっている。

(随筆:出典失念)

 

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5-1.旧安田銀行担保倉庫(協同組合前橋商品市場倉庫)・・・・登録有形文化財(建造物)。1913(大正2)年竣工、煉瓦造2階建、瓦葺、建築面積693㎡。群馬商業銀行附属前橋倉庫として建設。主として生糸等の担保用倉庫で、桁行30間 梁間6間規模、切妻造、桟瓦葺の煉瓦造2階建、煉瓦は日本煉瓦製造製、イギリス積、階下2枚・階上1枚半積で木造床、小屋組は木造のキングポストトラスである。(文化庁データベース参照)

 

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5-2.旧安田銀行担保倉庫(協同組合前橋商品市場倉庫)・・・・写真は旧安田銀行担保倉庫の北西面側を撮影したもの。当初は南側にもう一棟、同様の倉庫があったが1945(昭和20)の前橋空襲で焼け落ちたという。(パンフレット参照)

 

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6-1.上毛倉庫(株)・・・・写真は「道路側から見た2号倉庫」。矢印の銘板に「上毛倉庫株式会社 田中町レンガ倉庫 1896年竣工 前橋が「糸のまち」として栄えていた明治中期、繭・生糸の保管の必要性から、当時の群馬県知事や日本銀行の後援のもと、江原芳平を中心とした第三十九国立銀行(現・群馬銀行)の役員らを発起人として、明治28年(1895)12月6日上毛倉庫株式会社が設立されました。翌1896年前橋駅前の田中町(現・表町)に、2階建て瓦葺レンガ造の倉庫3棟(床面積295坪)が建てられ業務を開始しました。このレンガは、東京駅舎と同じく、深谷市の日本煉瓦製造株式会社で作られたものです。前橋空襲では屋根が焼け落ちたものの、戦後にすぐに復旧しました。その後、昭和25年の戦災復興区画整理の道路拡幅の為、けやき通り側の1棟が解体されました。残された2棟のレンガ倉庫の保管品は、乾繭・生糸・食料品・家具・家電製品・新聞用紙・段ボール原紙等、時代と共に移り変わり、倉庫としての使命を果たし続けながら、現在に至っております。平成27年12月 創立120周年記念事業により設置 上毛倉庫株式会社 代表取締役社長 江原友樹」と記されていた。(説明板参照)

 

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6-2.上毛倉庫(株)3号倉庫・・・・前橋駅側から見て正面奥に見えるのが「3号倉庫」

 

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7-1.伊勢崎市境赤レンガ倉庫・・・・建築年:1919(大正8)年、用途:当初 繭保管庫・生繭乾燥場、建築主:境運輸倉庫株式会社(当時)、建物構造:レンガ造(イギリス積)、建築面積:355.19㎡。境赤レンガ倉庫は、大正8年に繭の保管庫として建築され、平成12年に旧境町が取得。平成23年東日本大震災により、屋根の葺き替え工事を実施。平成26年に活用計画作成後、赤レンガ倉庫活用検討会議を開始。地元の代表者の方々の声を活かしながら、平成28年12月工事開始、平成29年11月完成。(伊勢崎市境赤レンガ倉庫パンフレット参照)

 

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7-2.伊勢崎市赤レンガ倉庫・・・・正面右斜めから見た旧境運輸倉庫赤レンガ倉庫

建物はレンガ造2階建、長さ20間(36.4m)× 幅5間(9.1m)× 高さ9.6m。レンガ壁はイギリス積み、繭の輸送には東武伊勢崎線 1910(明治43)開通が利用され、富岡製糸場にも運ばれたそうです。かって蚕種・養蚕・製糸・織物などの絹産業で栄えた境地区の歴史を今に伝える貴重な近代化資産である。(パンフレット「境まちなか散策マップ 境遺産めぐり」参照)

 

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8.渡良瀬川橋梁と東武鉄道煉瓦造橋梁・・・・写真は東武佐野線渡良瀬川橋梁(館林市側)の煉瓦造橋脚。群馬県内の東武鉄道のうち煉瓦造橋脚と橋台のある橋梁16ヵ所を調査した小野田滋によれば、渡良瀬川橋梁が最長で396.0mの橋梁である。2基の橋台及び16基中12基の橋脚は煉瓦造りである。特に橋脚には錫飾りが付いている。流水部分はコンクリート製になっている。(土木学会 関東支部ホームページ参照)

 

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 9-1.旧(株)金芳織物工場鋸屋根工場(ベーカリーカフェ・レンガ)・・・・1919(大正8)年竣工、煉瓦造平屋建、鉄板葺、建築面積298㎡。大正8年12月14日上棟の織物工場。施工は高崎市の島田組。外周壁を煉瓦造とし、木造で「鋸刃」状の屋根を架けた標準的な工場建築の造りを示す。京都西陣と並ぶ高級織物産地として知られる桐生の繁栄ぶりを今に伝えていることで貴重である。(文化庁データベース参照)

 以前は金井レース工業と称していた。

 

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9-2.旧(株)金芳織物工場鋸屋根工場(ベーカリーカフェ・レンガ)・・・・写真は2014.3.21撮影であるが、すでにパン屋になっていた。かなり繁盛していた。

 

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10-1.旧矢野蔵群(煉瓦造有鄰館)・・・・桐生市指定重要文化財 旧矢野蔵群(有鄰館)は、1717(享保2)年に現在の株式会社矢野の創業者である近江商人の初代 矢野久左衛門が桐生に移住し、二代目久左衛門が1749(寛延2)年に現在地で店舗を構えて以来、桐生の商業に大きく貢献してきた矢野本店の蔵群の総称である。この蔵群は酒・醤油・などの醸造業が営まれていた頃の建物で、江戸時代から大正時代に建築された蔵9棟と祠社2棟が桐生市指定重要文化財になっている。他に、煉瓦造仕込蔵(現レストハウス)、長い煉瓦塀がある。(有鄰館案内板参照)

 

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10-2.旧矢野商店蔵群(煉瓦造有鄰館)・・・・煉瓦造の腰部分の水切り煉瓦には「逆さ梅にタ」の刻印が並んでいる。この煉瓦の製造所は東京都北区堀船の田中煉瓦工場である。田中煉瓦工場は関東大震災で煉瓦焼成窯が損傷したので煉瓦製造は休止したが、経験を活かし煉瓦販売業に転換していた。煉瓦工場の跡地は現在も存在し、屋敷内に同じ焼き過ぎ煉瓦が多数残っている。