産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

 

    ◎「赤煉瓦建造物番付:茨城県場所」 令和元年八月

 

         勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

              (16位~30位)

      前頭・・・・16.(常陸太田市)旧稲田家住宅赤煉瓦蔵

      前頭・・・・17.(土浦市)旧野村さとう店煉瓦蔵

      前頭・・・・18.(稲敷市)関口邸長屋門及び蔵

      前頭・・・・19.(常総市)長田屋陶器店

      前頭・・・・20.(古河市)青木酒造煉瓦塀及び煉瓦蔵

      前頭・・・・21.(土浦市)関家煉瓦蔵

      前頭・・・・22.(結城市)結城酒造株式会社煉瓦煙突

      前頭・・・・23.(古河市古河市立第一小学校赤門

      前頭・・・・24.(龍ケ崎市)旧諸岡家住宅煉瓦門及び塀

      前頭・・・・25.(結城市)武勇煙突

      前頭・・・・26.(行方市曹洞宗常安寺煉瓦門

      前頭・・・・27.(水戸市)少友幼稚園の煉瓦門柱及び煉瓦壁

      前頭・・・・28.(古河市)関善商店煉瓦蔵

      前頭・・・・29.(常陸太田市)萩谷家煉瓦蔵

      前頭・・・・30.(石岡市常陸国総社宮の煉瓦造高燈籠

 

 

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16 1910(明治43)年、酒造業の稲田敬造が袖蔵として建てた。梁間2間・桁行3間・3階建てのやや小規模の建物であるが、腰壁や軒下蛇腹には焼過煉瓦を、壁部には良質の手抜きの赤煉瓦を使用している。特に軒下蛇腹の積み方は、装飾的にも技術的にも高度な卓越した仕上がりで他に類を見ないほどの美しさである。宮大工棟梁斎藤辰吉、仕事師飯塚伊之吉(煉瓦職工)などの氏名を記した墨書が残っている。県内で3階建て赤煉瓦造はこの建物を含め2棟のみである。登録有形文化財(建造物)に2014年10月7日登録された。

 

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17 この建物は旧野村太助商店の砂糖蔵である。同商店は幕末から続いた豪商であった。水戸街道に面し店蔵、土蔵の袖蔵、奥に母屋、中庭、文庫蔵があった。その奥に1892(明治25)年、赤煉瓦の砂糖蔵を建てた。現在は土浦市観光協会が管理して軽食・喫茶などを提供する休憩所になっている。2階建であったが、吹抜けに改築し丸太で組んだ小屋組が見える。良質な手抜き煉瓦をイギリス積み、覆輪目地で仕上げている。東日本大震災で壁面に亀裂が入り、修復した痕跡が残っている。登録有形文化財(建造物)に2016年8月1日登録された。

 

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18-1 稲敷市鳩崎の関口邸に茨城県内で唯一の赤煉瓦長屋門がある。関口家は1815(文化12)年から醤油醸造業を営み、かなりの資産家であった。1889(明治22)年パリ万国博覧会に醤油を出品し入賞。醤油のほかにソース、ビール、茶園、煉瓦製造など多角的な事業をしていた。長屋門の大きさは10間×2.5間(目測)、手抜き煉瓦のフランス積み。正面入口は大きな煉瓦造アーチがあり、その奥に観音開きの大木戸がある。

 

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18-2 長屋門から入つて正面に主屋、その裏側に蔵がある。煉瓦造蔵の大きさは4間×2.5間(目測)である。全体はフランス積みで、長手の部分は「手抜きの赤煉瓦」、小口の部分は「釉薬塗りの黒煉瓦」であり、全国的にも極めて珍しい煉瓦造である。

 煉瓦積みの歴史のなかで、フランス積みは明治20年頃で終了し、その後はイギリス積みに変わったという定説がある。この関口邸においては長屋門及び蔵は1902(明治35)年頃に建築しているので例外のようである。

 

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19 現在の当主は6代目、煉瓦造の店舗は1883(明治16)年建築という。銀座煉瓦街の完成は明治10年頃であり、地方都市での煉瓦造店舗の建築としては、かなり早い時期である。この地は水海道の河岸の横であり、江戸(東京)との河川交易の拠点で長田屋には煉瓦で店舗を建築するだけの財力があったと見られる。間口4間、奥行6間、2階建て、手抜き煉瓦のイギリス積みである。2階部分には大きなアーチ窓が3ヶ所見える。

 

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20 青木酒造は松本屋という屋号を持つ酒屋である。創業は1831(天保2)年で古河市内で唯一の酒造会社である。白漆喰の店舗の前の両側に煉瓦塀がつらなる。右側の煉瓦塀は附属屋をかねていて、小ぶりの煉瓦造煙突が建っている。煉瓦は手抜きのイギリス積みである。右側の重厚な煉瓦塀はフランス積みである。この塀の煉瓦は1887(明治20)年創業の東輝煉化製造所、または翌1888(明治21)年創業の下野煉化製造会社のものと見られる。

 

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21 建築年代は明治中期。もとは野村家関連の塩蔵であり、蔵内部は2階構造で引き出しのついた階段が取り付けてあったという。塩蔵であったため蔵内部は塩でふけた感じがするという。天井の棟木には墨書があったという。屋根は瓦葺きで、屋根下の妻飾りは数種類の煉瓦を使用した繊細な幾何的模様を作り出しており、当時の技術の高さを伝えている。(出典:茨城県の近代化遺産164頁)東日本大震災の被害を修復した痕跡が残っている。

 

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22 高さ約10mの煉瓦煙突は、安政蔵の北側にあり1903(明治36)年の建設と伝える。安政蔵の釜場と地下で結ばれており、酒造施設の近代的な工夫がうかがえるとともに、商業都市として栄え、酒造業も盛んであった結城の景観のシンボルともなっている。登録有形文化財(建造物)に2000年4月28日登録された。(出典:文化庁データベース)

 

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23 1904(明治37)年10月、古河尋常小学校新築時に、住民の寄付によって建設された煉瓦造りの正門。煉瓦の色から赤門と呼び親しまれている。旧下野煉化製造会社(シモレン)で製造した煉瓦が使用されている。

 

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24 龍ケ崎町長も務めた実業家諸岡良佐の邸宅から移築した煉瓦造の門及び塀。門柱一対は高さ3.8m。その両側にやや低い脇門の門柱一対と高さ2.2mの塀がある。門柱上部に帯状の凸部を廻らし、柱天に柱頭飾風の張出しを付ける。重厚な表構えを伝える門塀である。諸岡良佐の邸宅は、1910(明治43)年、竜ケ崎駅近くに新築された。2006(平成27)年に解体され、門や塀は一時保管の後、2015(平成27)年に現在地へ移築された。(出典:いばらきの文化財登録有形文化財に登録された。

 

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25 脇蔵の南、仕込み蔵と旧釜蔵が造る入隅に位置する。旧釜場蔵地下の釜場と接続して、現在も使用している。煉瓦造。高さ11mで、東西1.2m、南北1.1mの矩形平面になる。土蔵漆喰仕上げの白と煉瓦色が好対照をなし、地域に親しまれている。建築は大正期。登録有形文化財(建造物)に2011年7月25日登録された。(出典:文化庁データベース)

 

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26 約420年前、現在地に移り大平山常安寺と改称した曹洞宗のお寺の煉瓦門。本堂の方から撮影したので、煉瓦門の裏側が見えている。煉瓦門の煉瓦はすべて手抜きの焼過煉瓦のフランス積み。左側の壁に白煉瓦で囲った銘板に、檀家の寄付で1911(明治44)年11月建立した旨の文言が刻まれている。煉瓦10段の長さ、枚数などから計算すると、煉瓦門の高さは約3.79mであった。

 

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27 幼稚園は英国人クエーカー教徒による水戸の伝道拠点として1912(明治45)年開設された「水戸基督友会堂」に始まる。この頃の写真に煉瓦造門柱が写っているという。イデス・シャープレスが「幼児期は大切な時期」と考え1917(大正6)年私立幼稚園を開設した。少友幼稚園は伝統的に英国にならって赤煉瓦を多用した建物を造っていた。東日本大震災で被害をうけたが、すべての建物を煉瓦造で復元したという。

 

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28 関善商店は、数多く残る古河の茶問屋のひとつで、1892(明治25)年頃に創業したという。店舗の南側裏手に、土蔵1棟と煉瓦蔵1棟が並んでいる。煉瓦蔵は東西2間半、南北5間の2階建てで、大正時代の初めに建てられたものである。煉瓦蔵は茶の保管に適さず、主に製茶の道具納めるのに利用したという。旧下野煉化製造会社(シモレン)の煉瓦で建てたという。(出典:茨城県の近代化遺産179頁)

写真は煉瓦蔵の裏側を写したもの、煉瓦外壁は長手積みである。

 

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29 常陸太田市藤田町にある萩谷家煉瓦蔵。萩谷家はもと醸造業であった。訪問したのは7年前であり、周りは田畑が多く、人家はまばらであった。煉瓦蔵は四隅に柱形の凸部があり、基礎には太い御影石を敷き、腰部と壁の間にも石材を挿入し、出入口の周りにも石材を多用するなど贅沢で頑丈な煉瓦造になっていた。窓や出入口は土蔵造りの要素を多く取り入れた構造になっていた。煉瓦の積み方はイギリス積み、刻印は発見できなかった。

 

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30 常陸国総社宮は茨城県では最も古い由緒正しい格式の高い神社である。神社の入口に建つ煉瓦造高燈籠の笠部と火袋部が東日本大震災で落下し破損した。この高燈籠には銘板が付いており、竣工は1912(大正元)年10月9日、煉瓦師は当町の大野啓助、大野大次郎、左官職は林村字根古屋の前島徳太郎などの氏名が刻んであった。この種の煉瓦造の高燈籠や灯明台は全国的に珍しく3ヶ所確認されているだけであり、煉瓦師(煉瓦職人)の氏名が刻まれた銘板の存在も貴重である。新品の煉瓦は使用せず、変形した煉瓦や焼過ぎ煉瓦など不揃いを使用し、古めかしく仕上げれているのは、煉瓦師の深い考えがあったと見られる。このような煉瓦の積み方は全国でこの総社宮高燈籠のみである。