産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

 

    ◎日本赤煉瓦建築物番付 茨城県場所 令和元年八月

        勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

              〈6位~15位〉

   前頭・・・・6.(日立市北茨城市常磐線(旧日本鉄道)のトンネル群

   前頭・・・・7.(日立市)宮田川水抜橋梁

   前頭・・・・8.(ひたちなか市他)常磐線のアーチ橋・橋梁群

   前頭・・・・9.(下妻市)江連用水旧溝宮裏両樋

   前頭・・・・10.(古河市)亀屋商事(旧飯島製糸)煉瓦倉庫

   前頭・・・・11.(常総市)五木宗レンガ蔵

   前頭・・・・12.(石岡市)青栁新兵衛商店 煉瓦造店蔵・通用門・塀

   前頭・・・・13.(常総市)旧報徳銀行水海道支店

   前頭・・・・14.(常陸太田市)旧町屋変電所

   前頭・・・・15.(利根町)北用水樋門

 

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6-1 日立―小木津間にある「滑川トンネル」の上り線入口。旧日本鉄道が1897(明治30)年2月、磐城線として開業し、トンネルもこの時に造られた。日立駅から北上し福島県境まで、6ヶ所にトンネルがある。当初は単線であったが、1917(大正6)年から複線化が進められ、旧線に平行して鉄筋コンクリートのトンネルが完成した。

 

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6-2 左側が磯原ー大津港間にある「二ッ島トンネル」の上り線入口。右側が下り線の出口で鉄筋コンクリートで造られている。単線時代に造られた6ヶ所のトンネルは赤煉瓦造であり、トンネル全体の形状はよく似ている。

 

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7.日立ー小木津間にある「富田川水抜橋梁」(出典:茨城県の近代化遺産 P200)

「日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2000選」に選ばれている。

現場は樹木が繁り、河川もあり人を近づけないほど危険な場所で撮影できなかった。

 

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8-1 佐和ー東海間にある「高野疎水隧道」(ひたちなか市)。旧日本鉄道の磐城線(現在の常磐線)が開業した1897(明治30)年2月に竣工している。手前の煉瓦アーチ部分の上が、上り線になっている。アーチの巻厚3枚、要石なし、上端部は斜めになっている。奥の方は複線化のため拡張された鉄筋コンクリート造の隧道になっている。

 

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8-2 岩間ー友部間にある「小泉アーチ橋」(笠間市)。アーチ部は巻厚5枚、長手積、要石なし。側壁・坑門・翼壁(ウイング)は石材を使用。近くに稲田・真壁などの石の産地があるため、石材を多用したと見られる。複線化のために増設した部分は鉄筋コンクリート造ではなく、煉瓦及び石材を使用し単線時と同じ様式で造られており、全体が一体化している。

 

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9-1 江連用水旧溝宮裏両樋 江戸幕府の治水墾田策により、下妻以南から水海道に至る広大な湿地が開田されたが、上流は水不足、下流は冠水に悩まされた。1829(文政12)年江連用水が完成し農民の生活は安定した。用水路が老朽化したので、1900(明治33)年神社の裏に東西各3.6mの二連の煉瓦造の樋門を完成させた。

 

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9-2 江連用水旧溝宮裏両樋 1975(昭和50)年代に江連用水の流路が変更されたため、旧水路は排水路として利用されていた。その後、雨水幹線水路が完備され役目を終えた。歴史的に貴重な施設として、「日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2000選」に選ばれ保存されている。

 

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10-1 亀屋商事(旧飯島製糸)煉瓦倉庫 県道を隔てた向かいの敷地に南北棟で建つ。桁行約27.3m(15間)、梁間約5.46m(3間)規模の長大な煉瓦造2階建倉庫で、壁は1枚半厚のイギリス積、屋根は切妻造、桟瓦葺とする。1階の南北両妻壁を東方に延ばし下屋庇を架け、2戸口を設ける。製糸業の繁栄振りを物語る遺構。登録有形文化財(建造物)に2004年6月9日に登録されている。(出典:文化庁データーベース)

 

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10-2 亀屋商事(旧飯島製糸)煉瓦倉庫の南側面。窓には1階・2階ともに同じような鉄板張りの両開の開閉扉がある。煉瓦倉庫の全部の窓及び出入口には同じような鉄板張りの扉が設けられている。竣工は明治後期と記されている。

 

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11 五木宗レンガ蔵 鬼怒川左岸に発達した河岸問屋のひとつである五木田宗右衛門家の3階建煉瓦造蔵で、「五木宗レンガ造りの蔵」として親しまれている。腰積、胴蛇腹、開口部廻りなどに焼過煉瓦を使用した丁寧な造りになり、内部を構造補強し資料館等として活用されている。登録有形文化財(建造物)に2000年4月28日に登録されている。(出典:文化庁データベース)。別資料では1882(明治15)年建築、煉瓦は敷地内で焼成、施工は程田和平、所有者は五木田家で敷地内に居住している。

 

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12-1 青栁新兵衛商店煉瓦造店蔵 主屋と煉瓦造店蔵は1910(明治43)年に新築したという。陸軍近衛師団の演習視察に来られた若き皇族の宿舎に指名されたからである。その方は陸軍大将にまで昇任し、終戦直後には総理大臣に就任された東久邇宮稔彦殿下であった。店蔵には地上から2階軒下まで防火目的のため、煉瓦造の「うだつ」が造られている。

 

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12-2 青栁新兵衛商店 煉瓦造通用門 青栁家は高浜河岸から江戸へ米、雑穀、綿花などを船便で運ぶ廻船問屋を営んでいた。鉄道が開通した1896(明治29)年以降は石岡駅前に倉庫を建て、東京方面へ物資を運び手広く商いをしていた。屋敷内には数棟の米蔵があり、この通用門から多くの米や穀物が搬出入されたものと見られる。

 

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12-3 青栁新兵衛商店 煉瓦塀 青栁家の南側道路に面した場所に長い煉瓦塀がある。現在はやや短くなっているが、長さは66.45m(約36.5間)、高さは3.2m(約10尺6寸)、厚さ33.3cm(煉瓦1枚半)、イギリス積み、塀の上部には日本瓦が葺いてある。煉瓦塀の表側に帯鉄を4列取り付け、裏側に鉄製の補強材を設けて転倒防止の対策が採られている。

 

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13.旧福徳銀行水海道支店 1923(大正12)年頃水海道の商店街の中心地である宝町に建設された。大理石造りの荘厳な建物は町の自慢であった。金融界の吸収合併・再編成により数回名称を変えた後、市の所有となり市指定文化財になっている。東京駅と同じ小口の下駄っ歯積みであるか、煉瓦タイル貼りであるか、見解がわかれるところである。県内には類似の建築物が希少であるため番付に加えた。

 

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14 旧町屋変電所 1911(明治44)年1月から旧太田町などに電気を供給した町屋発電所の変電施設。せいの高い切妻屋根、煉瓦造建屋の北側に棟を落とした寄棟屋根の建屋をつなげる姿形をとる。寄棟建屋部分の西側及び北側の一部を煉瓦壁で造る。県内初期発電関連施設の遺構として貴重。建設は1909(明治42)年頃。登録有形文化財(建造物)1999年8月7日登録。(出典:文化庁データベース)

 

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15-1 北用水樋門 県は従来石や木や竹で造っていた堰などを煉瓦造に改修する事業を1900(明治33)年代に勧めた。北相馬郡利根町大字立木の用水路に建設された北用水樋門もその一つである。70~80年稼働した煉瓦造堰や水門は、老朽化で鉄筋コンクリート造に改築された。北用水樋門は改修の必要性が低く残存じた。

 

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15-2 北用水樋門 正面幅は約5.6m、配水口は幅約1.7m、高さ約1.0m。配水口の両側はすべて鼻黒煉瓦の小口積みで、曲線施工をしているのが特徴である。関谷忠正(茨城県技師)が設計した多くの煉瓦造水門の中でほぼ完全な形で残る唯一の水門である。曲線の翼壁上に石材を並べ、石の白さと煉瓦の色が見事に調和した美しい樋門である。