産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

      ◎日本赤煉瓦建造物番付 神奈川県場所 令和二年十一月

           《ベスト30》のうち11~15位

        勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

《順位》  《所在地》  《 名 称 》

前頭・・・・11.(鎌倉市・逗子市)小坪・名越隧道

前頭・・・・12.(横浜市) 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)

前頭・・・・13. (横須賀市東京湾第三海堡遺構

前頭・・・・14. (相模原市)城山隧道

前頭・・・・15. (川崎市)川崎河港水門

 

 

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11-1.   小坪・名越隧道・・・・小坪隧道は2009(平成21)年11月1日、土木学会選奨土木遺産に認定された。2001(平成13)年発行の「日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2000選」には、「小坪・名越隧道」(Bランク)として紹介されている。写真は小坪隧道の逗子市側の煉瓦造坑門の下に設置されている認定証の記念碑である。

 

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  11-2.   小坪・名越隧道・・・・以前は国道134号線であったが、現在は県道311号線となっている。下り線は鎌倉市側から逗子市方向へ、名越隧道・逗子隧道・小坪隧道、上り線は逆に逗子市側から鎌倉市方向へ新小坪隧道・新逗子隧道・新名越隧道と続いている。

古来、鎌倉方面から三浦半島に入るには山越えの細い道だけで、荷物の輸送には適さなかった。1882(明治15)年、新道の建設を陳情したが許可されなかった。地元有志が発起人となり、賛同者を募り、寄付金で名越・小坪隧道を貫通させた。2本の隧道は当初は素掘りの隧道であったと考えられる。その後、2本の隧道は大正年間に煉瓦造の隧道に改装された(改装の年代は不明)。2本の煉瓦造隧道が完成した後も、旧道はU字型に迂回する形であった。中間の屋根(山地)を貫く逗子隧道が完成したのは1966(昭和41)年であった。交通量の増加に対応して1971~1972(昭和46~47)年頃に上り線専用の3本の隧道が完成し、旧3本の隧道は下り線専用の隧道になった。図のような6本の隧道群が鎌倉市と逗子市間に建設され交通が容易になった。 

 

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 11-3.   小坪・名越隧道・・・・小坪隧道の逗子市側の坑門。小坪隧道の長さ:113m、幅:素掘り時代3.6m、煉瓦造時代6.1m、煉瓦の積み方:イギリス積、4段9寸(272mm)、煉瓦の大きさ:長さ227mm、幅106mm、厚さ60mm。坑門は標準的な形状。 

 

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 11-4.   小坪・名越隧道・・・・小坪隧道の逗子市側坑門の左上部。隧道の内部を厚い波板鋼板で覆って補強されている。壁柱(バッドレス)は上部が薄く、下部が厚く施工。アーチの巻数は補強板で不明。帯石、笠石ともに装飾蛇腹で施工している。 

 

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 11-5.   小坪・名越隧道・・・・小坪隧道の鎌倉市側の坑門。坑門は当時のまま、内部は波板鋼板で覆い、さらに側面には平らな緩衝用の防護板が貼ってあった。 

 

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 11-6.   小坪・名越隧道・・・・名越隧道の鎌倉市側の坑門。名越隧道は長さ:64.2m、幅:旧素掘時代3.6m、煉瓦造時代6.1m。煉瓦の積み方:イギリス積。歩行者用の歩道なし。他の5本の隧道には右側に歩道が設けられている。 

 

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 11-7.   小坪・名越隧道・・・・名越隧道の逗子市側の坑門。煉瓦造坑門の左側翼壁(ウイング)だけを残し、中央部及び右側の煉瓦造は見えない。恐らく、右側側面の石垣及び隧道上部の山崩れのため、坑門の中央部及び右側を鉄筋コンクリート造で施工したようである。名越隧道の出口(逗子市側)はコンクリート造の長方形の出口になっている。

  

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 11-8.   小坪・名越隧道・・・・左側が名越隧道の入口(鎌倉市側)、右側が新名越隧道の出口(鎌倉市側)。道路は神奈川県道311号鎌倉葉山線(旧国道134号線)である。6本の隧道群を総称して「小坪トンネル」もしくは「名越トンネル」と呼ばれることもある。

 

 

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 12-1. 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)・・・・国指定重要文化財、重文指定年月日:2000(平成12)12月4日、所在地:神奈川県横浜市西区みなとみらい二丁目7番10号、構造及び形式等:石造、煉瓦造及びコンクリート造乾船渠(ドライドッグ)、左右翼壁附属

 旧横浜船渠株式会社第一号船渠は、海軍技師の恒川栁作が設計し、1896(明治29)年7月に起工、1898(明治31)年12月に竣工した。その後、大正期に船渠の内陸方向に延長された。現在は、係留されている日本丸の検査、修理に使用されている。(文化庁データベース 参照)

 

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  12-2.. 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)・・・・《文化庁データベースの解説文より》:建設当初、第一号船渠は、総長約168メートル、上幅約34メートル、渠底幅約23メートル、渠内深さ約11メートルの規模を有した。その後、大正期の改修で、渠頭部方向に拡張して総長約204メートルとなった。(文化庁データベース 参照)

写真は煉瓦造で建造された拡張部分の側壁。

 

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 12-3.. 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)・・・・《文化庁データベースの解説文より》:旧横浜船渠株式会社第一号船渠は、建設当時、最大規模を有した明治期の代表的乾船渠の一つである。大正期に築造された躯体延長部分も土木技術の時代的特色をよく示し、乾船渠築造技術の変遷を知る上で価値が高い。また、第一号船渠は、官民の協調により実現した横浜港修築第一期工事の掉尾を飾る土木構造物で、近代横浜の社会基盤形成史上も、重要である。。(文化庁データベース 参照)

写真は煉瓦造で建造された拡張部分の側壁。

 

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  12-4.. 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)・・・・写真は煉瓦造で建造された拡張部分の側壁。使用された煉瓦の数量を試算した結果は次のとおり。

当初の総長約168m、拡張後の総長約204m、拡張された長さ約36m、拡張されたうち煉瓦積の長さ(円弧の長さを含む)を約50mと推測し計算する。深さ約11m、煉瓦の長さ(目地9mmを含む)1枚219mm、厚さ(目地9mmを含む)1枚67mm、煉瓦積み(水平)の個数 約50m÷0.219m=約228本、煉瓦積み(深さ)の個数 約11m÷0.067m=約164本(段)、半枚積み(水平)約228本×(深さ)約164段=約37,292個、1枚積み約37,292個×2倍=約74,784個、1枚半積み約37,292個×3倍=111,876個、2枚積み約37,292個×4倍=約149,168個。イギリス積の1枚積みの場合:約7万5000個、2枚積みの場合:15万個の煉瓦が積まれていると見られる。(独自の試算)

 

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  12-5. 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)・・・・現場に建っていた解説板。

 

 

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13-1.  東京湾第三海堡遺構・・・・東京湾から引き揚げた「第三海堡構造物」を展示する公開日があり、2004(平成16)年3月31日撮影した写真である(以下同じ)。上の構造物は「大兵舎」と呼ばれ、現在、横浜市うみかぜ公園に移設・展示されている。(新型コロナウイルスの影響で「うみかぜ公園」には行っていない)

 

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 13-2.  東京湾第三海堡遺構・・・・第三海堡は東京を防護するため東京湾口に設けられた砲台を設置するための人口島。第二海堡の南2611m(水深39m)に位置した。

 

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 13-3.  東京湾第三海堡遺構・・・・第三海堡のイラスト(国土交通省 関東地方整備局 東京湾口航路事務所 発行のパンフレット参照)。第三海堡の建設工事の着工は1892(明治25)年、完成は1921(大正10)年、(建設期間は29年間)、面積26,000㎡。

完成2年後の1923(大正12)年9月の関東大震災により崩壊した。敷地面積の1/3が水没、海堡は4.8m沈下、直ちに火砲等を撤去した。修復されることなく、廃止・除籍された。その後も波浪により崩壊が進み、半ば暗礁化した。浦賀水道航路に接しているため、航路の安全を確保するため、第三海堡を撤去し水深23mを確保する工事が行われた。撤去工事は2000(平成12)年~2007(平成19)年にかけて実施された。

 

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 13-4.  東京湾第三海堡遺構・・・・「大兵舎」と呼ばれる構造物。2004(平成16)年引き揚げ、重量1,200トン、幅15m?・奥行29.5m・高さ5m。2つの居室部分と連絡通路からなるコンクリート構造物。

 

 

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 13-5.  東京湾第三海堡遺構・・・・「大兵舎」の居室入口用開口部が焼過煉瓦のイギリス積み。内部の天井は手前の方が煉瓦造アーチ、奥の方がコンクリート造。

 

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 13-6.  東京湾第三海堡遺構・・・・「探照灯」と呼ばれる構造物。重量は565トン。正面内部に探照灯移動用レールの跡が残っている。

 

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 13-7.  東京湾第三海堡遺構・・・・「探照灯」と呼ばれる構造物の裏側全景。内部には通路があり、階上への階段が残っている。

 

 

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 13-8.  東京湾第三海堡遺構・・・・「観測所(指揮官の位置する所)」と推測され砲測庫(弾薬庫)と組になっている。重量は907トン。

 

 

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13-9.  東京湾第三海堡遺構・・・・「砲台砲則車」で内部の構造は天井を半円形アーチとし側壁から天井まで打ち継の少ないコンクリートの一体構造となっている。重量は540トン。

 

 

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 13-10.  東京湾第三海堡遺構・・・・「砲台砲側庫」の裏面全景、砲弾を出し入れ用の装置。

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13ー11.  東京湾第三海堡遺構・・・・「地下通路」「その他の構造物」

引き上げた構造物のうち、「大兵舎(1200トン)」はうみかぜ公園へ移設。

探照灯(565トン)」「砲台砲側庫(540トン)」「観測所(907トン)」は夏島都市緑地内において保存・公開されている。「地下通路」・「その他の構造物」は展示会場であった追原展示施設に置いてあるかどうか不確認である。

 

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 13ー12.  東京湾第三海堡遺構・・・・第三海堡撤去工事において「採取した約100個の煉瓦中、約半分の56個の煉瓦について約20種の刻印が発見された。東京小菅集治監製のものと推定される「桜」の刻印の入ったものが最も多く、その他の煉瓦についても、おそらく同じ小菅集治監のものではないかと推測される。」・・・・と報告書326頁(第三海堡に関する報告書・・・・正式な名称は失念)に記している。①~②は小菅集治監製であるが、③~⑬は東京荒川周辺の煉瓦工場製である。特に③~⑤は「桜」ではなく「梅」で、北区堀船の田中煉瓦の「逆さ梅にカタカナのホ・ト」(口絵ー8.13)であると見られる。その他は不明。

  

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 13-13.  東京湾第三海堡遺構・・・・第三海堡から採取した煉瓦が横須賀市平成町にある「国土交通省関東地方整備局東京湾口航路事務所」に展示してあった。中央下の煉瓦に「C」の刻印があった。

 

 

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 14-1. 城山隧道・・・・所在地は神奈川県相模原市津久井町青山。道志川の水を横浜まで送るため1914(大正3)年に設けられた管路隧道で、当時わが国では2番目に長いトンネルでした。内部には内径900mmと1050mmの管が敷設されている。 

 

 

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  14-2. 城山隧道・・・・神奈川県相模原市津久井町青山にある「横浜市水道局青山水源事務所」、屋外に古い水道管などの資材が展示されている。

 

 

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  14-3. 城山隧道・・・・事務所の横にかなり広い排砂池が4面あった。青山水源地の水は、この地から約900m上流の道志川の鮑子(あびこ)取水口で取り入れた水を「青山隧道」で送っている。青山隧道は煉瓦造で1915(大正4)年竣工、高さ2.12m、幅2,12m、長さ864m、勾配1/1000。[青山隧道への道は足場が悪く未見]

 

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  14-4. 城山隧道・・・・横浜水道創設の1887(明治20)9月竣工及び第1期拡張工事1898(明治31)年6月竣工、以来の導水管が道志川相模川河岸の断崖部分に敷設されていたため豪雨のたび導水管が寸断される事故が続発した。こうした事故を避けるための導水路を新たにつくるため、第2期拡張工事として城山隧道が計画され、1910(明治43)年8月起工、1915(大正4)年3月竣工した。写真は、2019年10月の19号台風及び豪雨で山崩れが起き、城山隧道入口が土砂で半分埋まった様子。

 

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  14-5. 城山隧道・・・・上はインターネットで検索した導水管が見える写真。

隧道内部の導水管には、日本で初めて鍛接鋼管(ドイツのマンネスマン製管会社製、内径1050mm)が使用された。隧道の長さは4,358mで、当時、国鉄(現在JR)中央本線「笹子隧道の長さ4,656m」に次ぐ日本で2番目の長さであった。関東大震災では1,050mmの導水管には被害はなく、隧道のアーチの煉瓦が損傷したため、被害個所の煉瓦の巻き直しの補修をした。1941(昭和16)年、新たに内径800mmの鉄筋コンクリート管を布設したが、1974(昭和49)年に内径900mmの鋼管へ敷設しなおした。ドイツ製の1,050mmの鍛接鋼管は、現在も道志川水源の水を送り続けている。

 

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  14-6. 城山隧道・・・・2019年10月の19号台風及び豪雨で山崩れが発生し、山林の木々は倒れ土砂が隧道入口に堆積した。導水管は土砂で埋まっている。(撮影日:2020.2.19)

 

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  14-7. 城山隧道・・・・城山隧道の解説板:「城山ずい道 高さ2.80m×巾3.04m×延長4,358m レンガ巻 馬蹄型 管路ずい道 道志川の水を横浜まで送るため 大正3年(1914年)に設けられた管路ずい道で、当時わが国では2番目に長いトンネルでした。内部には、内径900mmと1,050mmの管が布設されちます。1,050mmの鍛接鋼管(ドイツマンネスマン社製)は、わが国で初めて使用されたもので、現在も水を送り続けています。(近代水道百選施設)」

 

 

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 15-1. 川崎河港水門・・・・1998(平成10)年9月2日、登録有形文化財(建造物)に登録。所在地:川崎市川崎区港町66地先、1928(昭和3)年竣工、塔は鉄筋コンクリート造、高さ20.3m、水門幅10.0m、未完に終わった運河の多摩川口に設けられた水門。内務省多摩川改修事務所所長の金森誠之の計画になり、鉄筋コンクリートと金森式鉄筋煉瓦が併用されている。門構頂部に果物をあしらった飾りを載せるなど土木構造物としては極めて装飾的で異彩を放っている。(文化庁データーベース参照)

  

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  15-2. 川崎河港水門・・・・「日本の近代土木遺産ー現存する重要な土木構造物2000」によれば Aランクの土木遺産である。大正時代末期、川崎市は物資の輸送を円滑にするため、多摩川の堤防の一角から内陸部に運河を開通させ、開削により生じた土砂で両岸を埋立てて工場や住宅地にするという大規模な運河・港湾計画をたてた。川崎河港水門は、この運河計画の一環として、多摩川改修事務所長であった内務省土木技師金森誠之(かなもりしげゆき)の設計によるもので、1926(大正15)年11月に着工、1928(昭和3)年3月完成した。満州事変、日中戦争、太平洋戦争の開戦により戦時体制になり、運河計画は1943(昭和18)年に廃止となった。 

 

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 15-3. 川崎河港水門・・・・ 河港水門は、現在でも主として千葉方面からの砂利の陸揚げ施設として、1日数艘の砂利運搬船の出入りがある。

 

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  15-4. 川崎河港水門・・・・水門の建物は鉄筋コンクリートであるが、基礎となる部分は金森式鉄筋煉瓦で施工されている。この煉瓦には鉄筋を通す切り欠き部分があり、特許」の刻印がある。大阪窯業株式会社製造の煉瓦で関東地方では、大阪窯業八王子工場・草加工場で製造したいた。

 

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15-5. 川崎河港水門・・・・河港水門の解説板。

 

 

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  15-6. 川崎河港水門・・・・金森式鉄筋煉瓦の施工の状況。煉瓦の切り欠き部分に縦方向の鉄筋が入るように煉瓦を積む方法である。横方向の鉄筋は水平目地に埋めるようにする。煉瓦の切り欠き部分に目地用のモルタルを詰めて固定するやり方である。鉄筋を立てるには、立てる位置をきちんと測量する必要があり、かなり準備に時間を要したと考えられる。

  

 

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 15-7. 川崎河港水門・・・・写真は川崎河港水門の護岸工事の様子である。煉瓦は1枚厚であった。

 

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  15-8. 川崎河港水門・・・・金森式鉄筋煉瓦の採取場所。霞ヶ浦海軍航空隊第二士官宿舎及び土浦海軍航空隊第一士官宿舎にて。海軍は金森式鉄筋煉瓦を採用した。舞鶴や横須賀の海軍関係の宿舎などの解体時、発見されている。 

 

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  15-9. 川崎河港水門・・・・金森式鉄筋煉瓦で積んだ川崎河港水門の護岸の一部。赤煉瓦であるが付着した泥が乾燥し白く見える。煉瓦積みの最上面には、横方向に太い鉄筋を配して、その鉄筋に縦方向の鉄筋の先を曲げて固定していた。煉瓦積みの上端部は太い横鉄筋に縦方向鉄筋がぶら下がったような格好になっているので、これらを固定するためコンクリートで覆っている。 

 

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  15-10. 川崎河港水門・・・・川崎河港水門の多摩川沿いの護岸。水門の左右に護岸が延びている。左右の護岸を延長すれば500~600mと見られる。 

 

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  15-11. 川崎河港水門・・・・川崎河港水門の内陸側の状況。運河は水門から約220m開削されただけで中断した。現在では埋め立てられ、水門に接続する部分の約80mが船溜まりとして残存している。砂利運搬船から砂利を持ち上げるバケットクレーンや砂利置き場が見える。