産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

      ◎日本赤煉瓦建築物番付 神奈川県場所  令和二年十一月

          《ベスト30》のうち 1~5位

        勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

 《順位》 《所在地》  《 名 称 》

 横綱・・・・1. (横浜市)横浜新港埠頭倉庫及び旧税関事務所遺構

 大関・・・・2. (横須賀市猿島砲台跡

 大関・・・・3. (横須賀市)千代ケ崎砲台跡

 関脇・・・・4. (横浜市)横浜開港記念会館

 小結・・・・5. (横浜市横浜市西谷浄水場及び旧計量器室跡

 

 

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 1-1 横浜新港埠頭倉庫・・・・手前が「1号倉庫」、奥が「2号倉庫」。

新港埠頭は日本で最初の近代的な埠頭として明治政府が建設しましたが、赤煉瓦倉庫もその一環として、国の模範倉庫として建設されました。

設計:大蔵省臨時建築部長 妻木 頼黄(つまき よりなか)

1号倉庫:1908(明治41)年4月着工、1913(大正2)年3月竣工

2号倉庫:1907(明治40)年11月着工、1911(明治44)年5月竣工

撮影:2002(平成14)年11月18日、(産業考古学会産業建築物分科会の見学会)

 

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  1-2. 横浜新港埠頭倉庫・・・・1号倉庫の全景。赤煉瓦倉庫は建築当初は1号倉庫・2号倉庫とも同じ大きさでした。しかい大正12年9月に起きた関東大震災によって1号倉庫の中央部が崩壊して火災を起こし、西側半分が解体撤去されたため、現在のような姿となっています。 撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日)

 

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  1-3. 横浜新港埠頭倉庫・・・・1号倉庫の全景。昭和2年から行われた震災復旧工事では、1号倉庫西側に鉄筋コンクリート壁が制作され、化粧の煉瓦が貼られたほか、1号倉庫内部に鉄筋コンクリートの補強壁の設置や2、3階にあった貨物搬出出入口の窓の変更を行っています。撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日) 

 

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 1-4. 横浜新港埠頭倉庫・・・・1号倉庫西面、鉄筋コンクリート造に化粧煉瓦を貼っている。撮影:2003(平成15)年11月8日(赤煉瓦ネットワーク横浜大会)

施設規模

      建築面積    延床面積     階 数      長 さ       幅     高 さ
    1号倉庫     2,010㎡     6,158㎡       3       76m    22.6m    17.8m
    2号倉庫     3,669㎡    11,205㎡       3     149m    22.6m    17.8m

総工事費:100万円(明治32年当時、かけそば一杯1銭8厘)

使用資材:2号倉庫のみで煉瓦約318万本、鉄骨約560屯、セメント400屯、

     鉄骨の大部分は、農商務省製鉄所(旧八幡製鉄所)製鋼材を加工組み立て。

 

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  1-5. 横浜新港埠頭倉庫・・・・2号倉庫の全景、撮影:2010(平成22)年5月16日(産業考古学会見学会)

倉庫利用の変遷(取扱貨物)

 当 初・・・・税関施設として横浜税関が管理(~昭和18年

 戦 前・・・・葉タバコ、羊毛、光学機械、洋酒、食料品

 戦 中・・・・陸海軍輸送司令部の満州向け物資を保管

 戦 後・・・・米軍が接取し、港湾司令部として使用

 1956(昭和31)年・・・・接取解除(1号倉庫:税関倉庫、2号倉庫:公共上屋)

     1974(昭和49)年(輸入)羊毛、(輸出)タイヤ、光学機械、合成樹脂

 1976(昭和51)年・・・・取引量が激変(輸出屯数、3.8万屯(昭和55)→0.4万屯)

     1986(昭和61)年(輸入)塩蔵野菜、竹ほうき(輸出)コピー機

 1989(平成元)年・・・・2号倉庫用途廃止

 1992(平成4)年・・・・横浜市が保存・活用のため1号・2号倉庫を国から取得 

 

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  1-6. 横浜新港埠頭倉庫・・・・2号倉庫の東側の全景、撮影:2003(平成15)年11月8日(赤煉瓦ネットワーク横浜大会) 

 

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1-7. 横浜新港埠頭倉庫・・・・2号倉庫の裏側の荷物運搬通路、奥の建屋はエレベーター、撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日)

 

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  1-8. 横浜新港埠頭倉庫・・・・2号倉庫の断面図、撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日)

 

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  1-9. 横浜新港埠頭倉庫・・・・2号倉庫の中央部分、撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日)。倉庫の手前に貨物列車用のプラットホームが残っている。

  

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  1-10. 横浜新港埠頭倉庫・・・・2号倉庫の3階部分の明かり採りの窓、撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日) 

 

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  1-11. 横浜新港埠頭倉庫:2号倉庫の北側にある旧税関事務所遺構・・・・「これは大正3年(1914)5月に建設された税関の事務所遺構です。レンガ造りスレートぶき、3階建のゴシック様式の建物でしたが、大正12年(1923)9月1日、関東大震災により床や屋根が焼失したため、復旧されないまま埋めもどされて荷さばき用地となっていました。「赤れんがパーク整備」のための工事のさいに発見され、現在、花壇として利用しています。しゅん工時、1階には「硝子張天井」のホールと受付カウンター、2・3階には事務所や応接室、外航船や荷役のための貸事務所がありました。ガス暖房や電気照明も完備されていました。」(解説板の原文のまま)

撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日) 

 

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  1-12. 横浜新港埠頭倉庫:2号倉庫の北側にある旧税関事務所遺構・・・・撮影:2000(平成12)年9月24日(一部落成公開日) 

 

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 1-13. 横浜新港埠頭倉庫:2号倉庫の北側にある旧税関事務所遺構・・・・撮影:2002(平成14)年11月18日、(産業考古学会産業建築物分科会の見学会)

 

 

 

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2-1. 猿島砲台跡・・・・猿島要塞は横須賀市の横須賀新港沖合1.7kmに東西200m、南北450m周囲1.6kmの猿島に所在する。1881(明治14)年11月5日起工、1884(明治17)年6月30日竣工した。要塞最初期の砲台である。島内には、砲座、砲側弾薬庫、兵舎等の砲台施設、砲台間を連絡する煉瓦造隧道、隧道内の二層構造の弾薬庫、電気灯機関舎、送電施設、海岸護岸等の施設が良好に残っている。

2015(平成27)年3月10日:「史跡 東京湾要塞跡(猿島砲台跡)」として指定された。

 

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2-2. 猿島砲台跡・・・・電気灯機関舎として1895(明治28)年、蒸気タービンによる発電所が完成した。砲台のすべての電力を供給していた。白モルタル塗りの煉瓦造(自立壁)と木造キングポストトラス構造の平屋建。付属の煙突も煉瓦造である。現在は海の家・売店・管理事務所用の自家発電機が備えられ現役の建物として使われている。

 

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 2-3. 猿島砲台跡・・・・明治中期、明治政府は東京湾の守りを固めるために猿島に砲台を設けた。砲台にはフランスから輸入した27cm加農砲2門(砲座2基・各1門)及び24cm加農砲4門(砲座4基・各1門)を備え付けました。設計・施工は陸軍臨時建築署(当時)が担当し、そこで技術主任であった上原勇作陸軍工兵大尉(後元帥)がフランスで築城学を学んできた経緯から、フランス式築城方式が採用された。

  

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 2-4. 猿島砲台跡・・・・凝灰岩の岩盤が削られ切通(きりどおし)が造られ、露天の掘割になっている。両側に石造・煉瓦造の要塞施設が構築されている。通路の右側面に横穴式の煉瓦造の構築物が4個所造られている。煉瓦の積み方はフランス積。1番目と3番目は第2砲台棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)(兵舎)であり、2番目と4番目が第2砲台砲側弾薬庫である。この4個所構築物の真上の地上部に24cm加農砲の砲座4基が配置してあった。写真は1番目の棲息掩蔽部(兵舎)である。

 

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 2-5. 猿島砲台跡・・・・写真は1番目の第2砲台棲息掩蔽部(兵舎)の正面左上にある通気口(明かり窓兼用か)。切通の側面は石造であり、積み方は煉瓦のように長く切った石をフランス積のように並べて積む、西洋式の積み方。横浜の居留地のうち山手界隈でさかんに導入された積み方で「ブラフ積」と呼ばれた。

 

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2-6. 猿島砲台跡・・・・ 写真は2番目の煉瓦造構築物は第2砲台砲測弾薬庫。中には弾丸や弾薬を地上の砲座まで上げるため、井戸のようなたて穴の空間がある。重量のある弾丸を滑車で持ち上げる装置の痕跡が見られるという。 

 

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 2-7. 猿島砲台跡・・・・写真は2番目の煉瓦造構築物で第2砲台砲測弾薬庫である。煉瓦の製造は刻印から愛知県西尾市の「東洋組西尾分局士族就産所」とか「愛知名古屋東洋組瓦磚製造所之印」のものが使用されている。愛知県から船で運搬したものと見られる。湿度が高いので煉瓦や石積に苔が繁茂している。また、焼成があまい煉瓦には剥離が多く見られる。 

 

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 2-8. 猿島砲台跡・・・・塁道(通路)の右側のほぼ中間ぐらいの所に左右に上る石段がある。守備兵が砲座に駆け上がるための通路であろうか。立入禁止のため、登れなかった。出入口があり厨房か食堂と考えられる。通路の左側には、便所とか洗面所に使用したとみられる煉瓦造の構造物がある。

  

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 2-9. 猿島砲台跡・・・・塁道(通路)の奥まったところにトンネルがある。長さ90m、高さ4.32m、幅4mで、最近は「愛のトンネル」と若者の間で人気があるという。 

 

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 2-10. 猿島砲台跡・・・・トンネルの入口。 猿島要塞の写真はすべて2003(平成15)年11月9日撮影したものであり、当時はトンネルには照明が無く、また、曇りで光量が不足して写真の出来は悪かった。再度、撮影に行くように予定していたが新型コロナウイルスのため、実行できなかった。

 

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 2-11. 猿島砲台跡・・・トンネル中の西側中央に地上への階段(出入口はコンクリートで塞がれていた)があり、その南北に弾薬元庫・旧第1砲台砲側弾薬庫・同棲息掩蔽部(兵舎)などの地下施設がある。階段を登ると斜面につくられた踊場に出て、その北側の階段から山頂の第1砲台観測所と電灯所に連絡している。(パンフレット参照)

トンネルの西側には、トンネルに平行するように司令部、兵舎、弾薬庫など12室が2階建ての構造に掘り込まれているという。

 

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 2-12. 猿島砲台跡・・・・トンネルの出口。長いトンネルを抜けると第1砲台塁道(通路)で、再び露天空間になる。この露天空間の南北両端にある階段で第1砲台(27cm加農砲)の2基の砲座に行ける。このトンネルの右側には第1砲台の兵士のため煉瓦造の棲息掩蔽部(兵舎)が横穴式で構築されている。

 

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 2-13. 猿島砲台跡・・・・長いトンネルの出口の左斜め前にトンネルが見える。このトンネルは第1砲台(27cm加農砲の砲座2基)の下にある砲側弾薬庫であった。写真は砲側弾薬庫であったが、海軍が高射砲を配備した時、弾薬庫を貫通して通路(トンネル)に改築したものである。

 

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 2-14. 猿島砲台跡・・・・長いトンネルの入口と出口及び弾薬庫(トンネル)のアーチ部は長手と小口の混合積で、小口に換算すれば8枚巻である。三軒家砲台の弾薬庫のアーチ部も同じく、小口の8枚巻であった。火砲の真下にある兵舎や弾薬庫は、射撃時の衝撃(震動)が大きいので、アーチ部の施工基準は、小口の8枚巻が標準仕様であったのだろうか。

  

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 2-15. 猿島砲台跡・・・・日露戦争に勝利した明治政府は1909(明治42)年以降、要塞整理を検討する。関東大震災によって被害を受けた猿島砲台は一度も使用されることなく1925(大正14)年に除籍、その後、海軍省に所管が移り、第二次世界大戦の開戦によって1941(昭和16)年頃より鉄筋コンクリート製の円陣砲座が5座造られ高射砲が配備された。高射砲は終戦まで米軍機に向かって火を吹き続けたという。戦後進駐軍によって解体、破壊された。現在は砲台のみ残った。

  

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 2-16. 猿島砲台跡・・・・「海軍港碑」。1877(明治10)年に海軍が管理する港の範囲を示すものとして建てられた。この碑は猿島から夏島まで、海軍が管理する港の範囲を示すもの。横須賀の海が海軍港であることを表して。一辺が約30cmの安山岩の角柱で、当初は木製だったが1883(明治16)年に石柱に建替えられた。2つに折れており、つなぐと約3mの高さになる。(パンフレットの写真では4隅にステンレス製の支柱が建っている) 海軍港碑(写真)によれば左面に「南正真」「直経九百五・・・」、右面に「右江百八十・・・」「左江九百五・・・」と文字が刻まれている。下の文字を確認していないので「・・・」及び「裏面」が不明である。

 

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 3-1. 千代ケ崎砲台跡・・・・所在地:横須賀市西浦賀6-17-1ほか、指定面積:15,435.87㎡、建設年代:1892(明治25)年12月6日に起工、1895(明治28)年2月5日に竣工した。写真は千代ケ崎砲台の出入口である「柵門(さくもん)」。両側面は石積である。

千代ケ崎砲台のすべての写真は、2020(令和2)年2月7日、横須賀市教育委員会が開催した見学会において撮影した。

  

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 3-2. 千代ケ崎砲台跡・・・・「柵門」を入ると砲台を隠す土塁(どるい)があり、その前面に堀井戸がある。井戸の内面は赤煉瓦で構築されていた。「国史東京湾要塞千代ケ崎砲台跡」と墨書した木製の看板があった。

 

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 3-3. 千代ケ崎砲台跡・・・・見学会の時、配布されたパンフレットから転写。千代ケ崎砲台は28cm榴弾砲3砲座6門が配備されていた。終戦後、千代ケ崎砲台跡は長い間、海上自衛隊横須賀通信隊千代ケ崎通信所として立入り禁止であった。2008(平成20)年8月の報道で、千代ケ崎通信所が廃止になり、横須賀市が国の指定をうけ史跡として保存していくことが発表された。2015(平成27)年3月10日、猿島砲台とともに千代ケ崎砲台が国の史跡に指定された。 

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 3-4. 千代ケ崎砲台跡・・・・第1砲座に2門の28cm榴弾砲が配備されていた。東京湾は右方向である。

 

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 3-5. 千代ケ崎砲台跡・・・・射撃中の28cm榴弾砲。口径280mm、砲身2.863m、最大射程7,900m。1884(明治17)年に完成し、1892(明治25)年に正式採用、順次、全国の要塞に配備された。イタリアの技術将校を招き、指導を受けながら完成した。もともと要塞砲だから、動かさないのが原則だが、日露戦争における旅順要塞攻撃に18門外して急送し、例の203高地占領後に同高地からの観測に基づき、旅順港内のロシア艦隊を砲撃、壊滅させたことはあまりにも有名である。昭和になっても生きつづけ、分解して13屯牽引車で機動させ、満州黒竜江沿岸に13門を備えた。(出典:「日本陸軍がよくわかる辞典」PHP文庫参照)。 

 

 

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 3-6. 千代ケ崎砲台跡・・・・第2砲座:28cm榴弾砲が2門 配置されていた。東京湾は右方向。

 

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 3-7. 千代ケ崎砲台跡・・・・第3砲座:28cm榴弾砲が2門 配置されていた。東京湾は右下方向。

 

 

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 3-8. 千代ケ崎砲台跡・・・・第1砲座の砲床(衝撃を受けるため石材を敷き詰めていた)左側の黒い2本の物は28cm榴弾砲の弾丸の模型。

 

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 3-9. 千代ケ崎砲台跡・・・・写真右側の煉瓦造の構造物は第1掩蔽部である。中央の通路は、砲座に平行して地下に塁道(通路)が築かれている。塁道(通路)は隧道(トンネル)と露天通路で構成されている。隧道部分には弾薬庫が構築されており、露天通路の部分には掩蔽部(居住)の施設が構築されている。

掩蔽(居住)部分は2棟(2室)並列しており、隧道内ではなく、空間がみえる場所に構築されている。塁道(通路)の北側に向かって第1・第2・第3掩蔽部が並んでいる。

隧道の区間は2か所あり、それぞれの中央付近に弾薬庫がある。北側に向かって手前から第1弾薬庫・第2弾薬庫が構築されている。第3弾薬庫は塁道から第3砲台の方へ向かう交通路の奥に方に構築されている。

左側の階段は、地下に構築された塁道(通路)から、地上に上るための石段である。3ヶ所ある掩蔽部の近くに造られている。

 

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 3-10. 千代ケ崎砲台跡・・・・2棟(2室)ある第1掩蔽部の左側の掩蔽部(部屋)である。中央に出入口、左右に窓と見られる開口部がある。2棟(2室)は同じ構造になっている。煉瓦造の構造物の全体の外壁は焼過煉瓦を用いている。外壁の裏積みの部分の煉瓦や室内の煉瓦はすべて普通煉瓦を用いている。降雨にさらされない弾薬庫の煉瓦は、外壁でも普通煉瓦を使用している。千代ケ崎砲台全体の煉瓦造がこの考え方で構築されていた。積み方はすべてオランダ積(全体の積み方はイギリス積であるが、角部に七五の煉瓦を使用した積み方)。(猿島砲台はフランス積)

 

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 3-11. 千代ケ崎砲台跡・・・・掩蔽部の内部から出入口側を見た写真。右側の細いすき間は換気のための空気流入口。

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 3-12. 千代ケ崎砲台跡・・・・中央が塁道(通路)の隧道部分。隧道の中間付近の左側に弾薬庫がある。塁道(通路)の左側の煉瓦造の2棟(2室)が第3掩蔽部。右側の煉瓦造の手前が第2貯水所。煉瓦造の外壁はすべて焼過煉瓦を使用している。

千代ケ崎砲台の煉瓦はすべて小菅集治監製造といわれている。

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 3-13. 千代ケ崎砲台跡・・・・第3掩蔽部、左右2棟(2室)からなっている。多分、海上自衛隊横須賀通信隊千代ケ崎通信所時代に第3砲台は埋められ、通信所の施設が建っていた。これに関連し第3砲台に近い第3掩蔽部・第3弾薬庫は通信所に関連する施設に改築されたので、写真のように窓が塞がれ、出入口も広くなり鋼製の扉がつけられたものと推察される。

 

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  3-14. 千代ケ崎砲台跡・・・・塁道(通路)。2か所の隧道の間にある右側の煉瓦造は第2掩蔽部である。左側の掩蔽部の出入口・窓は改築されている。

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  3-15. 千代ケ崎砲台跡・・・・第3掩蔽部の前にある煉瓦造2棟、右側の棟は第2貯水所。千代ケ崎砲台では雨水と雑排水の水路を厳しく分離して管理していた。この施設は雨水を貯水するかなり大きな施設であった。雨水は浄化して飲料水に使用していた。

 右側の煉瓦造は中が階段になり、弾薬庫の上を通り第2・第3砲座間の高塁道(通路)へ出るようになっていた。

 

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  3-16. 千代ケ崎砲台跡・・・・第1弾薬庫のなか、奥の明かりは点灯窓。塁道に面した掩蔽部・弾薬庫・貯水所・出入口等はすべて煉瓦造である。また室内の側壁も煉瓦造であるが、内部のアーチ部は鉄筋コンクリート造である。猿島砲台・観音崎砲台など初期に建造された砲台の天井部分は煉瓦造のアーチであったが、1892(明治25)年着工された千代ケ崎砲台では天井アーチ部は鉄筋コンクリート造である。築城技術の進歩がみられる砲台である。
  

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  3-17. 千代ケ崎砲台跡・・・・弾薬庫の中から、揚弾井を下から見上げる。上の黒い部分は2階の天井にある揚弾機のレール。

 

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   3-18 千代ケ崎砲台跡・・・・揚弾井の上の階。この階の床面が高塁道(通路)。高塁道(通路)の先に砲座がある。この階の天井に揚弾機のレールが固定されている。

 

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  3-19. 千代ケ崎砲台跡・・・・ 露天塁道(通路)から第3砲座へ行く交通路の入口。この付近は塁道が湾曲しているため、入口のアーチ部前面が右測面と左測面に差が生じる。この差をうめるため、アーチ部の煉瓦を傾斜させて積む必要がある。斜架拱(しゃかきょう)といった高度な煉瓦組積法が採用されている。いわゆる「ねじりマンポ」の形式で積んだ個所が、この写真である。(千代ケ崎砲台で「ねじりマンポ」は3個所確認されている。

 

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  3-20. 千代ケ崎砲台跡・・・・ 千代ケ崎砲台の右観測所に行く通路のトンネル。トンネルの表面に積んだ煉瓦は焼過煉瓦である。向かって右側側面の内側の煉瓦の奥の方は、普通煉瓦を積んでいる。雨水のあたる部分の煉瓦は焼過煉瓦を使用している。このような例は千代ケ崎砲台の煉瓦積みに共通して見られる。

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   3-21. 千代ケ崎砲台跡・・・・右翼観測所。丸い台座の上に観測機器である測遠機を設置していた。

 

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  3-22. 千代ケ崎砲台跡・・・・ このような外国製の測遠機を設置していた。観測の結果を観測所にある伝声管を通じて砲座の要員に伝えていた。

 

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  3-23. 千代ケ崎砲台跡・・・・ 千代ケ崎砲台の東低地に、要塞整理事業として1924(大正13)年、30cm加農砲塔砲台起工、翌年竣工した。この砲塔砲台は戦艦鹿島の主砲を転用したものである。写真のコンクリート造は砲塔砲台の弾薬庫を含む下部機構を設置した構造物である。30cm加農砲は下部機構の上部に設置され、終戦時まで残存し東京湾の防衛にあたっていた。この地域は私有地になっており、特別に見学できた。

 

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  3-24. 千代ケ崎砲台跡・・・・戦艦鹿島に搭載していた 30cm砲塔砲台の下部機構を収納したコンクリート造構造物。

このほかに、千代ケ崎砲台の南側に堡塁が構築され、1895(明治28)年、15cm臼砲4門配備されたが、1926(昭和元)年撤去された。また、1900(明治33)年、12cm加農砲4門が配備され、1921(昭和10)年、撤去されたという。これらは陸正面防御用であった。

  

 

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 4-1. 横浜市開港記念会館・・・・所在地:横浜市中区本町一丁目6番地、建設年代:1814(大正3)年9月着工、1917(大正6)年6月30日竣工、同年7月1日開港記念日に「開港記念横浜会館」として開館。構造及び形式等:煉瓦・鉄骨煉瓦及び鉄筋コンクリート造、建築面積1,536.93㎡、二階建、地下一階、塔屋付、スレート及び同板葺。設計:山田七五郎・佐藤四郎、施工:清水組。愛称「ジャックの塔」と呼ばれている。

1989(平成元)年9月2日「重要文化財(建造物)」に指定 

 

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  4-2. 横浜市開港記念会館・・・「・横浜市開港記念会館(国指定重要文化財」)の解説板:「横浜市開港記念会館は、開港50周年を記念して、大正3年(1914)9月に着工され、大正6年7月1日の開港記念日に「開港記念横浜会館」として開館しました。建物は、大正12年関東大震災によって一部が焼失したため、昭和2年と平成元年に復旧工事が行われ創建時の姿に復元されました。建物の外壁は、腰石まで花崗岩積みで、1・2階は赤い化粧煉瓦と白い花崗岩を積み上げた辰野式フリークラシックスタイルで、古典主義を自由にアレンジしています。東南隅には高塔(時計塔)、西南隅に八角ドーム、東北隅に角ドーム、さらに高塔を挟む位置にも角ドームを作り、屋根は寄棟造り・天然スレート葺で、越屋根は銅板葺としています。また、建物内部の広間、中庭に面する窓にはステンドグラスが用いられるなど、大正期の建物として華やかで優れた意匠が施されています。」(原文のまま)

 

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  4-3. 横浜市開港記念会館・・・・「この建物は横浜開港五十周年を記念し、市民から寄付を募って建設された公会堂建築で、1917(大正6)年7月1日の開港記念日に開館した。

赤煉瓦に白い花崗岩を縞模様に入れ、建物の隅部に高塔(時計塔)や角ドーム、八角ドームを配するほかに尖塔や屋根窓を各所に設けて意匠をこらしている。1923(大正12)年、関東大震災にあって屋根と内部を焼損した。この復旧にあたって、鉄筋コンクリートで構造補強を施し、これにともなって内部の意匠も新しくされた。当初の実施計画、復旧時の設計とも横浜市営繕のスタッフがあたった。長く失われていた屋根やドームは、横浜開港130年にあたり建築当初の姿に復旧された。この会館は、大正期の建物として意匠がすぐれ、また、煉瓦造の建物に構造補強を施した早い例であり、復旧した内容も建物に調和していて価値が高い。」(文化庁データーベース参照)

 

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  4-4. 横浜市開港記念会館・・・・横浜市中区公会堂として利用されている。大阪市中之島公会堂などと並び、大正期の公会堂建築の中では有名な建築物の一つである。

内部のステンドクラスも公会堂のインテリアとともに一見の価値がある。 

 

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  4-5. 横浜市開港記念会館・・・・開港都市横浜を象徴する帆船をデザインしたステンドグラス。

  

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  4-6. 横浜市開港記念会館・・・・設計原案ならびに基本構造設計は福田重義と山田七五郎が行った。建築当初の建築様式は、赤煉瓦に石材をとりまぜた辰野式フリークラシックと呼ばれる様式で、関東大震災後、構造補強され、いわゆる復興デザインが加えられた。

 

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  4-7. 横浜市開港記念会館・・・・山田七五郎はこの作品を契機として横浜に留まり、初代横浜市建築課長として市内小学校などの鉄筋コンクリート化を推進した。1989(平成元)年、屋根ドーム群が復元され、重要文化財に指定された。

  

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  4-8. 横浜市開港記念会館・・・・「町会所跡 この地に、明治7年(1874)4月に竣工した石造2階建て屋上に高塔のある建物は、横浜市制施行の明治22年まで横浜の町政を執った町会所でした。「時計台」の愛称で親しまれ、横浜の名所となっていました。明治23年横浜貿易商組合会館と改称し、その後横浜会館と改めましたが、明治39年12月類焼により焼失いたしました。跡地に開港50年を記念して現在の建物が大正6年竣工いたしました。また、この地は開港期より明治初年まで、岡倉天心の父勘右衛門が支配人をしていた石川屋(越前藩(福井県)の生糸売込店)があったところです。」(原文のまま) 

 

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5-1.  横浜市西谷浄水場(1)・・・・所在地:横浜市保土ヶ谷区川島町522番地

整水室上屋は、4基の煉瓦造は1915(大正4)年竣工した水道施設の遺構。左から「7号・3号・8号・4号濾過池整水室上屋(ろかち せいすいしつ うわや)」。煉瓦造平屋建、銅板葺、建築面積13㎡。整水地上屋は、4基とも小規模な煉瓦造の建物で、基礎及び軒廻りを石造とし、外壁にも3筋の花崗岩の帯を入れアクセントとする。各壁面にはアーチを設けて扉口や小窓を開く。煉瓦の赤、花崗岩の白、銅板の緑が整然と配置された建物群を魅力あるものにしている。(文化庁データーベース参照)1997(平成9)年6月24日、登録有形文化財(建造物)に登録された。

 

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 5-2.  横浜市西谷浄水場(2)・・・・「配水池浄水井上屋」、1915(大正4)年竣工、煉瓦造平屋建、銅板葺、建築面積22㎡、4基の整水室上屋の東西軸線の東方に建つ八角形の煉瓦造の上屋。平面が八角で規模も一回り大きいが、構造及び意匠は整水井上屋と共通し、一帯ののびやかな景観は広く親しまれている。(文化庁データーベース参照)1997(平成9)年6月24日、登録有形文化財(建造物)に登録された。

 

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 5-3.  横浜市西谷浄水場(3)・・・・「配水池配水井上屋」、1915(大正4)年竣工、煉瓦造平屋建、銅板葺、建築面積30㎡、配水池を挟んで浄水井上屋と対照の位置に、これと同型同規模の配水井上屋が設けられている。建築面積は30㎡と小規模な煉瓦造の建築であるが、端整な意匠の上屋として西谷浄水場の記念的存在となっている。(文化庁データーベース参照)1997(平成9)年6月24日、登録有形文化財(建造物)に登録された。

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 5-4.  横浜市西谷浄水場(4)・・・・水道記念館に展示してある各種煉瓦。手前左2個は「蒸気機関に使われた耐火レンガ(イギリスのキング兄弟社から購入)、手前右1個は「煙突内部に使われた耐火レンガ(中国・天津製)。2010(平成22)年5月16日撮影

  

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 5-5.  横浜市西谷浄水場(5)・・・・煉瓦造の4基の整水室上屋と1基の浄水井上屋が見える。手前左下の青い面は濾過地、沈でん池で取り除かれなかった微細な浮遊物を、砂と砂利の層を通じて取り除く場所。2020(令和2)年2月5日撮影

 

 

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 5-6.  横浜市西谷浄水場(6)・・・・配水池配水井上屋、右側の広場の地下には、「1号配水池」があるが、現在は休止中。西谷浄水場の標準処理能力:356,000㎥、水源:相模湖。敷地面積(正面の道路を挟んで向かい側を含め):151,668㎡。処理された水は、主に鶴見、神奈川、西、中、南、保土ヶ谷各区方面に給水されている。

 

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5-7.  西谷浄水場旧計量器室跡(1)・・・・「メモリアルポケットパーク(西谷浄水場旧計量器室跡) この煉瓦造の建物は、西谷浄水場から横浜駅周辺・桜木町・元町・山手・本牧方面に給水する内径610mm・910mm・395mm3条の配水管の量をはかる量水装置(水銀式ベンチュリーメーター)を設置するために大正3年3月に建設されたものです。日本で初めての近代水道として明治20年に創設(現在の野毛山公園浄水場を建設、明治20年10月17日に通水)された横浜水道が昭和62年に100周年を迎えるにあたり、横浜水道記念館への玄関口として保存し公開するものです。昭和62年3月 横浜市水道局」(原文のまま)

  

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 5-7. 西谷浄水場旧計量器室跡(2)・・・・所在地:横浜市保土ヶ谷区川島町578-12,

1914(大正3)年竣工、煉瓦造平屋建、銅板葺、建築面積25㎡、横浜市水道第2次拡張の施設。同時期建設の西谷浄水場の下方に位置する。浄水場内の上屋と同様の造りであるが、場外に所在するだけに、外装には横黒・鼻黒煉瓦を用い、開口部のグリルなども装飾的にするなど格別の仕様がとられている。。(文化庁データーベース参照)1997(平成9)年6月24日、「川島町旧配水計量室上屋」という名称で登録有形文化財(建造物)に登録された。JR横浜駅から相模鉄道に乗り換えて、上星川駅で下車、西谷浄水場方面に歩き、約6分程度で到着できる。

 

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 5-9.    西谷浄水場旧計量器室跡(3)・・・・旧計量器室は、Y字形三叉路の中心正面に位置する。左へ行くと浄水場の正門へ。右に行くと浄水場の裏に行く道路である。右側の道路は「水道道(すいどうみち)」という。3条の配水管はこの水道道の下に埋設されており、配水管に流れる水量を遠隔操作で計れるようなシステムになっていたと考えられる。現在、旧計量器室は物置になっている。