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日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

日本赤煉瓦建造物番付

      ◎日本赤煉瓦建造物番付 神奈川県場所 令和二年十一月

           《ベスト30》のうち16~20位

         勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

《順位》   《所在地》   《 名 称 》

 前頭・・・・16.(横浜市)清水谷戸トンネル

 前頭・・・・17.(横浜市)地蔵王

 前頭・・・・18.(三浦市)油壷験潮場(旧建屋)

 前頭・・・・19.(鎌倉市)極楽洞

 前頭・・・・20.(横浜市)旧平沼専蔵別荘亀甲積擁壁と煉瓦塀

 

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16(1)   清水谷戸トンネル・・・・清水谷戸(しみずやと)トンネルはJR横須賀線湘南新宿ライン保土ヶ谷駅と東戸塚駅の間にある1887(明治20)年に建設されたトンネル。

東戸塚駅より、約500mほど保土ヶ谷駅よりにある。写真の左側のトンネルが上り線で、鉄道トンネルでは全国で17番目の建設順位であるが、現役では日本最古のトンネルである。側壁が垂直な逆U字形である。下り線のトンネルは、1898(明治31)年建設されたもので、トンネルの入口が馬蹄形になっている。

 

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  16(2)   清水谷戸トンネル・・・・写真は上り線を走る湘南新宿ラインの電車。トンネルの長さは上り線・下り線ともに213.7m。入口(坑門)のアーチの巻厚は、はいずれも5枚で要石はない。目地は覆輪目地という。(小野田滋氏の文献参照)

 

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 16(3)   清水谷戸トンネル・・・・東戸塚駅から歩いて清水谷戸トンネルを撮影に行く途中、小さな解説板が建っていた。上の方が腐食して文字が消えかかっていた。解説板の解読は、 16(4)に記す。

 

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 16(4)   清水谷戸トンネル・・・・(標題)「東海道本線 横浜ー(不明)清水谷戸トンネル 延長213.7m 横浜市」(本文)「上り線のトンネル(左側)は明治20(1887)年に工部省鉄道局によって建設されました。これは鉄道トンネル建設順位においては17番目にあたり、現役としては最古の鉄道トンネルです。下り線のトンネル(右側)は明治31(1898)年の複線化工事にともなって建設されました。両トンネルの側壁部は、当初レンガ造りでしたが、大正14(1925)年の電化工事にともなってコンクリート造りに改築され現在にいたっています。[トンネル正面の図示:左側(上り線)右側(下り線)]

平成3年3月 JR東日本 歴史的建造物調査委員会」  

 

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 17(1) 地蔵王廟・・・・横浜市中区大芝田にある地蔵王廟(じぞうおうびょう)は、中国人の墓地である。丘全体が墓地であった。写真は地蔵王廟の本堂である。中には中国の仏様に相当する極彩色の像が並んでいた。建物は全体は木骨煉瓦造。手抜き・焼過ぎ煉瓦の長手積で裏面はかなり厚い白漆喰塗りであった。煉瓦の大きさは長さ212mm・幅106mm・厚さ56mm、覆輪目地。煉瓦の厚さが薄いため、4段8寸5分(257mm)であった。この地蔵王廟は中国人の職人が積んだものと考えられる。

 

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  17(2) 地蔵王廟・・・・1873(明治6)年、横浜外国人墓地に埋葬されていた華人、華僑の墓場が現在地に移された。元々、中華義荘は、故郷中国へ棺を送還するまでの仮埋葬の場であったが、時代とともにここで永眠する人が増えていった。後ろの高い塔は、3階建の安骨堂(納骨堂)。地蔵王廟の本尊は地蔵王菩薩像で清代末期の作と考えられる。木造、黒漆塗、金泥仕上げに彩色された厨子に安置されている。地蔵王廟、地蔵王菩薩坐像、厨子横浜市指定有形文化財に指定されている。(Wikipedia参照)

 

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17(3) 地蔵王廟・・・・地蔵王廟の正門、 中国風の建造物である。階段の右手にも多くの墓が並んでいた。石敷の階段を上り詰めたところに、地蔵王廟がある。写真の中央右側の煉瓦造が地蔵王廟。その右側の煉瓦造は、地蔵王廟に連なる建物、その後が木造3階建の安骨堂(納骨堂)である。資産家は立派な墓を造り納骨しているようである。木造3階建ての安骨堂の中を案内してくれたご婦人の説明によると、墓が造られない方、身内の無い人などの遺骨が納めてあるという。丁度、共同浴場の蓋のある下駄箱のような木製の収容箱が、3階上部まで造られていた。納骨箱の前面には、氏名・生年月日・死亡年月日・住所のようなものが書いた紙が貼ってあった。中央の線香立てには長い赤色の線香が立ててあった。 

 

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 17(4) 地蔵王廟・・・・(標題)横浜指定有形文化財(建造物) 地蔵王廟(じぞうおうびょう) 指定年月日:平成二年十一月一日、所有者:公益財団法人 中華義荘、 所在地:中区大芝田七番地、 年代:明治二十五年、 規模:木骨煉瓦造、建築面積一九二・一㎥(中庭含む) 

(本文)安政五年(一八五八)の五ヵ国通商条約によって開港された横浜に、居留地を中心として外国人が生活するようになりましたが、外国人のための墓地もこうした中で設けられました。地蔵王廟は、当時横浜で生活していた中国の商人などの拠金(きょきん)により、明治二十五年(一八九二)、中国人墓地(中華義荘)(ちゅうかぎそう)に建てられたものです。

この地蔵王廟の建築は、中庭を中心に建物を前後に並んで取り囲む華南特有の形式で、広東や台湾の廟建築に多くみられます。主要材を広東省広州から船で運搬し、軸部や外壁、屋根材は横浜で調達したもののようで、建築当初には、フランス人の手によって焼かれたジェラール瓦が使われていました。現存する市内の近代建築物としては最古のものであり、明治中期、居留地時代の横浜の建築状況を示すものとして貴重です。平成二十六年三月  横浜教育委員会

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 18(1) 油壷験潮場(旧建屋)・・・・所在地:三浦市三崎町小網代、竣工:1894(明治27)年、構造:煉瓦造平屋建、規模:間口2.42m(8尺)、奥行き3.03m(10尺)、総高さ3.64m(12尺)、設計:柳瀬信誠

参謀本部陸地測量部(国土地理院の前身)は、1891(明治24)年に全国6箇所に験潮場を開設し潮位観測を開始した。このうち高神験潮場(現千葉県銚子市)が、潮流等で海底の土砂移動が激しく験潮に適さないなどのことから、1894(明治27)年6月に油壺湾に移設、同年7月より観測を開始した。

 

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  18(2) 油壷験潮場(旧建屋)・・・・油壷験潮場(旧建屋)は現存する験潮場としては、宮崎県日向市の細島験潮場1893(明治26)年築に次いで2番目に古い験潮場である。

日本の高さの基準を定める験潮技術を長年にわたり守り続けた歴史的な財産として意義のある施設といえる。

1995(平成7)年7月、施設の老朽化や観測機器の更新に伴い、隣地に開設した新建屋(写真の左側に写っている建物)へ機能を移設し、験潮を続けている。

 

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  18(3) 油壷験潮場(旧建屋)・・・・国土地理院が設置している験潮場の基本構造は井戸・導水管・観測室(験潮儀室)・前室で構成されている。海面の高さを測定する場合、波の影響で海面の高さを測ることは難しいので、験潮場の井戸の海水は、導水管という細い管を通って出入りするため海水面は穏やかになり、験潮儀から吊るした浮標のミリ単位の上下変動を1秒間隔で記録している。その潮位のデータはリアルタイムで茨城県つくば市国土地理院に伝送されている。(HP 国土地理院測地観測センター 参照)

 

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  18(4) 油壷験潮場(旧建屋)・・・・正面出入口。右の表札は文字が薄くなっいるが「建設省 国土地理院 油壷験潮場」と読める。現在は建設省ではなく国土交通省である。左側の解説板には「油壷験潮場 この建物の中には、海面の上り下がりを自動的に精密に記録する験潮儀が設置されています。この記録は、高さの基準をきめたり土地の変動を調べるために非常に大切な資料となります。国土地理院」と書いてある。

 

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  18(5) 油壷験潮場(旧建屋)・・・・油壷験潮場(旧建屋)の外壁は、手抜きの焼過ぎ煉瓦を使用した正統的なイギリス積。建物の基礎は石材を積み上げた構造で、海水下の岩盤まで掘り下げた背の高い石積の構造のようである。 

 

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  18(6) 油壷験潮場(旧建屋)・・・・近くに土木学会選奨土木遺産の認定賞が設置してあった。文言は「油壷験潮場(旧建屋)明治27年(1894)竣工(公社)土木学会において、『我が国の初期の測量技術を今に伝え、日本の標高の基準である「日本水準原点」の管理に重要な役割を果たしてき貴重な施設』との評価を受け、平成30年度の土木学会推奨土木遺産に認定されました。平成30年11月 国土地理院」と記されていた。

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  18(7) 油壷験潮場(旧建屋)・・・・油壷験潮場は、日本の標高の基準である「日本水準原点」と密接な関係がある。1891(明治24)に設置された日本水準原点の標高(原点数値:24.5000m)は、隅田川河口の霊岸島での1873(明治6)年6月から1879(明治12)年12月の潮位観測から決定された。油壷験潮場での1900(明治33)年から1923(大正12)年までの23年間の観測結果から油壷の平均海面を算出し、水準測量により「日本水準原点」の高さの検証を行なったことで、東京湾平均海面が正しいということが証明された。この油壷験潮場~ 日本水準原点間の水準測量は、油壷験潮場設置以来、原点数値の点検として定期的に実施されている。関東大震災地震後の原点数値:24.4140m)や2011(平成11)年東北地方太平洋沖地震地震後の原点数値:24.3900m)による地殻変動によって、水準原点値が変更されているが、その際にも油壷験潮場の潮位データによる確認が行われている。「日本水準原点」は千代田区永田国会前庭北地区内の憲政記念館前にある。(HP 国土地理院測地観測センター 参照)

 

 

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19 (1) 極楽洞・・・・極楽洞は、江ノ電極楽寺駅長谷駅との間にある全長209mの「極楽寺トンネル」の極楽寺側の煉瓦造の坑門の名称である。トンネル工事は、1906(明治39)年6月に着工され、翌1907(明治40)年2月に竣工した。

トンネルの構造形式:単線・煉瓦造、内壁:高さ 5.285m、幅 3.940m

写真は極楽寺駅側にある桜橋から撮影。この桜橋からの眺めが最高である。 

 

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 19 (2) 極楽洞・・・・トンネルの坑門の胸壁(パラペット)に扁額が埋め込まれている。

極楽寺駅側のトンネル坑門の扁額には「極楽洞」と刻まれている。揮毫した人物は桂内閣で大蔵大臣だった曾禰荒助である。反対の長谷駅側のトンネル坑門の扁額には「千歳開道」と刻まれていた。揮毫した人物は元内閣総理大臣松方正義である。現在、「千歳開道」の扁額は見えない。(HP 鎌倉手帳参照)

 

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 19 (3) 極楽洞・・・・極楽寺駅と桜橋の中間あたりに、次のような文言の解説板が建っている。「鎌倉市景観重要建築物等 第33号 平成22年11月24日指定 極楽洞  Gokurakudo

極楽洞は、江ノ電の愛称で親しまれている江ノ島電鉄株式会社が所有する煉瓦造りの坑門で、右手の桜橋から見ることができます。アーチの頂部に2箇所の要石を備えたデザインは、全国的にも珍しいもので、今なお建設当時の原形をとどめています。江ノ電が極楽洞を走り抜ける景観は、古都鎌倉に近代の息吹を伝えた電気鉄道の歴史を忍ばせます。(英文・桜橋と極楽洞の位置図・極楽洞の煉瓦積の詳細図)」

 

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 19 (4) 極楽洞・・・上のような解説板も建つていた。注目した個所は「ほぼ当時の路線で営業している電車としては日本で最古である」、「極楽洞は江ノ島電鉄唯一のトンネルで・・・建設当時の煉瓦張りがそのまま残されている」という点である。

日本の鉄道の歴史は蒸気機関車から始まり、電気機関車(電化)に移行した。当初の鉄道トンネルは側壁からアーチ(天蓋)まで煉瓦造であったが、電化工事のため、トンネル上部に送電線を設置する必要があり、トンネル内部を鉄筋コンクリート巻に改良した。江ノ電は開業当初から電気鉄道で出発しているので、煉瓦造に送電線の設備を当初から取り付けていたからである。 

  

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 20(1) 旧平沼専蔵別邸亀甲積擁壁と煉瓦塀・・・・横浜市のJR桜木町駅から西の方へ歩いて、野毛山動物園に行く途中に野毛坂交差点に出る。交差点の向こう角地に立派な高い石垣が見える。その石垣(擁壁)の上に長い赤煉瓦造の塀が積んである。旧所有者の平沼専蔵は生糸や米穀商として成功し、金融業、鉄道建設、政治家など明治期の横浜で活躍した平沼専蔵の旧邸石積擁壁と煉瓦塀である。(HP THE YOKOHAMA STANDAD参照) 

 

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  20(2) 旧平沼専蔵別邸亀甲積擁壁と煉瓦塀・・・・六角形に加工した石材が亀の甲羅のように見える亀甲積は、美しい見映えの石垣となるが、隙間なく緻密に積上げることが非常に難しいと言われる。旧平沼専蔵別邸亀甲積は極めて高い施工精度で積み上げられた市内でも随一の見事な亀甲積擁壁。

亀甲積擁壁の上に水平な長物の石材を並べ、その上に約30段積みの赤煉瓦塀を建造している、煉瓦と水平石材を固定するため煉瓦5段程度をコンクリートで固めていることが分かる。

 

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  20(3) 旧平沼専蔵別邸亀甲積擁壁と煉瓦塀・・・・煉瓦は手抜きの焼過ぎ煉瓦を使用している。4段9寸(273mm)の標準的な施工である。煉瓦の大きさは長さ210mm、幅100mm、厚さ55mm。平均的に薄い煉瓦であるため横目地の幅がひろい。写真は坂の上の隅にあたる場所であるが、垂直に切り取られた痕跡が見られるので、以前はさらに奥の方まで亀甲積石垣と煉瓦壁が続いていたと見られる。現在、残っている煉瓦塀の長さは約45m。野毛坂交差点から戸部町方面への亀甲積擁壁の上部には煉瓦壁は残っていない。恐らく、関東大震災で破壊または亀裂が生じたので撤去したと考えられる。

 

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 20(4) 旧平沼専蔵別邸亀甲積擁壁と煉瓦塀・・・・ 亀甲積擁壁の下に認定歴史的建造物の認定証が建っていた。「横浜市認定歴史的建造物 野毛山住宅亀甲積擁壁  旧平沼専蔵別邸石積擁壁及び煉瓦塀 建築年1890(明治23)年から1893(明治26)年の間 2006  横浜市