産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

 ◎日本赤煉瓦建造物番付 群馬県場所 令和元年十月

            《ベスト30》のうちの21~30位

         勧進元  東京産業考古学会  行司  八木司郎

《順位》  《所在地》    《 名 称 》         《備考》

前頭・・・・21.(高崎市上信電鉄 烏川橋梁の煉瓦造橋梁・橋台・・・・・・・・総覧

前頭・・・・22.(高崎市)吉田家(旧釜浅肥料店)煉瓦造倉庫・・・・・・・・・・総覧・自指

前頭・・・・23.(安中市)旧米庄商店 煉瓦造米保管倉庫・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・24.(伊勢崎市)旧時報鐘楼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧・赤煉・自指

前頭・・・・25.(高崎市)旧茂木銀行煉瓦塀 (現 山田文庫煉瓦塀)・・・・・総覧・自指

前頭・・・・26.(高崎市)美蜂酒類煉瓦造倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・27.(安中市)有田屋 煉瓦造煙突(丸形)・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・28.(高崎市)岡醤油醸造(株)煉瓦造煙突2基・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・29.(桐生市)旧桐生高等学校染織学校正門・・・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧

頭・・・・30.(桐生市)無鄰館煉瓦造塀一及び二・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧

 

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 21.上信電鉄 烏川橋梁の煉瓦造橋脚・橋台・・・・上信電鉄の前身上野鉄道(こうずけてつどう)は1897(明治30)年に軌道763mm・蒸気動力で営業を開始した。1924(大正13)年 軌道を1067mmにし電化を採用した。橋脚の写真を見ると、中央上部は幅が狭く軽便鉄道時代の跡が残っており、軌道を拡げた時、橋脚の上流、下流部分を拡張強化した跡が見られる。また、当初は9基の橋脚であったが、4基増設し13基の橋脚にした。今回、現地に行ったら流水部分の橋脚がコンクリート製になっており、煉瓦造橋脚5基と橋台2基が残っていた。(Wikipedia参照)

 

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22.吉田家(旧釜浅肥料店)煉瓦造倉庫・・・・吉田家は江戸期から昭和初期まで続いた肥料店の老舗である。木造の旧店舗や主屋、門、煉瓦倉庫などが商都高崎の歴史を今に伝えている。(高崎市ホームページ参照)煉瓦倉庫の出入口は3ヶ所あり、瓦葺寄棟の屋根のは3ヶ所換気用の出窓がある。恐らく倉庫内は3区画になっていると見られる。湿気防止のため外壁の腰の部分がかなり高く積まれてる。

 

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23.旧米庄商店 煉瓦造米保管倉庫・・・・城下町安中の中心地である3丁目にある。現在は休業しているパチンコ屋が広場の反対側にある、恐らくパチンコ屋を含めた土地が米庄商店の敷地であったと見られる。米保管用の煉瓦造倉庫の軒下蛇腹は5段積み。水平の蛇腹から妻面の軒下蛇腹に変わる部分の積み方に特徴がある。普通煉瓦を削り出し異形煉瓦に仕上げている点に煉瓦職人の高い技術力が見られる。

 

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24.旧時報鐘楼・・・・横浜で薬種商を営んでいた小林桂助(市内三光町出身)の寄付で1915(大正4)年に着工、翌年に竣工した。江戸時代から親しまれていた中台寺の釣鐘を塔部に移して市民に時を告げていた。釣鐘は戦時中に金属回収で供出され、塔屋部は戦災で焼失した。市政施行50周年を記念して、創建当時のドーム状の姿に復元し、保存されることになった。(説明板参照) 建築総覧などでは、木骨煉瓦造となっていたが、近代化遺産総合調査で「鉄筋コンクリート造」にされた。現地の説明板には「鉄筋コンクリート煉瓦張り」なっているが、本物の煉瓦を多用しているので「鉄筋コンクリート煉瓦造」とすべきであると考えている。

 

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25.旧茂木銀行煉瓦塀(現山田文庫煉瓦塀)・・明治・大正・昭和と高崎の産業界で中心的な役割を担った山田昌吉、山田勝次郎らの居宅でしたが、1974(昭和49)年に勝次郎が創設した(財)山田文庫の図書館として、現在一般に公開されている。屋敷蔵、土蔵2棟、明治16年に移築した茶室、九蔵町の茂木銀行から移築されたと伝えられる煉瓦塀などが近代商都高崎の歴史を物語っている。煉瓦塀は高崎市内で現存する最古の煉瓦塀といわれている。1998(平成10)年「たかさき都市景観賞」を受賞している。(説明板参照)

 

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26.美蜂酒類煉瓦造倉庫・・・・戦時中の酒不足に対応するため、群馬県内の甘藷等により焼酎や合成酒の製造からスタートし、戦後、幾多の困難を乗り越えて、現在は甲類焼酎を始めとした酒類全般の製造販売までを行うアルコール総合メーカーになっている。

煉瓦造は外壁は長手積(半枚)であるが、開口部は厚く見えるので内側に漆喰壁かコンクリート壁が張ってあると見られる。(会社のホームページ参照)

 

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27.有田屋 煉瓦造煙突(丸形)・・・・安中藩の御用商人として有田屋は1832(天保3)年より190年近く、味噌、醤油の製造を続けている老舗である。有田屋の一族は、本業の醸造業だけでなく、明治、大正、昭和の三代に亘って日本の教育、社会、文化に貢献した多数の人物を輩出したことでも知られている。三代目治郎は新島襄に師事しキリスト教の洗礼をうけ、安中教会の建設や新島なき後の同志社英学校の運営に尽くし新島襄・八重との交流も知られている。(有田屋のパンフレット参照)煙突の煉瓦はすべて小口積みであり、先端は損壊しているが、古い写真を見るとかなり高く90尺煙突と見られる。高さ2mぐらいのところに蛇腹と模様が描かれていた。(有田屋のパンレット参照)

 

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28.岡醤油醸造(株)煉瓦造煙突2基・・・・1787(天保7)年 近江商人 初代 岡忠兵衛が足尾銅山から江戸へ銅を運ぶ街道の要衝として栄えた群馬県大間々の地に「河内屋」の屋号を掲げ、醤油醸造業を営んだのがはじまりである。1897(明治30)年 四代目宗一郎が高崎市常盤町の旧中山道沿いに支店を開設したのが現在地である。合理化のため醤油の醸造は大間々を行なっており、高崎では醤油と関連商品を販売しているという。(会社のホームページ参照)

 

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29.旧桐生高等染織学校正門・・・・1916(大正5)年竣工。煉瓦造、鉄製門扉附属、高さ3.7m、幅16.8m。旧桐生高等染織学校創立時の正門。本館の移設に応じて、本館玄関前の現位置に移設保存された。煉瓦造の門柱上部四面にゴシック風のポーチコを付けて頂部に門灯を掲げる。東京大学本郷キャンパスの煉瓦塀に似た門として知られる。(文化庁データベース参照)

 

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30-1.無鄰館煉塀一(旧北川織物工場女工宿舎煉瓦造外壁)・・・・1916(大正5)年頃建築。煉瓦造、延長18m。敷地北側境界に沿って建つ高さ6.2m、延長18.3mの煉瓦塀。防火を目的に、工場女工宿舎の北側外壁として建てられた。煉瓦をイギリス積で積上げ、現在は鉄骨で補強する。工場主屋の鋸屋根と共に地域の歴史的景観を特徴づける。(文化庁データベース参照)

 

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30-2.無鄰館煉瓦塀二(旧北川織物工場煉瓦塀)・・・・1916(大正5)年頃建築。煉瓦造、総延長33m。女工宿舎煉瓦造外壁の両端から敷地北西隅及び北東隅まで延びる煉瓦造。高さ2.4mで、東側延長14.0m、西側延長19.2mになる。煉瓦の寸法ならびに積方は女工宿舎煉瓦外壁と同じイギリス積で、一連の景観を形成する。(文化庁データベース参照)

 

《備考》 (略字)

国宝・・・・国宝に指定されているもの

重文・・・・国指定重要文化財に指定されているもの

登録・・・・登録有形文化財(建造物)に登録されているもの

総覧・・・・群馬県近代化遺産総覧(平成3年度)に記載されているもの

赤煉・・・・日本赤煉瓦建築番付に記載されているもの

赤土・・・・日本赤煉瓦土木番付に記載されているもの

土木・・・・日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2000に載っているもの

自指・・・・市(町)指定文化財に指定されているもの

無・・・・・・無指定のもの