日本赤煉瓦建造物番付
◎日本赤煉瓦建造物番付 神奈川県場所 令和二年十一月
《ベスト30》のうち21~25位
《順位》 《所在地》 《 名 称 》
前頭・・・・21.(横須賀市)覚栄寺裏山貯水池
前頭・・・・22.(平塚市)パイロットコーポレーションのレンガ棟「蒔絵工房NAMIKI」
(旧第二海軍火薬廠安定度試験場)
前頭・・・・23.(横須賀市)横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門
(旧横須賀重砲兵連隊営門)
前頭・・・・24.(横須賀市)海上自衛隊横須賀造修補給所煉瓦倉庫
(旧横須賀海軍軍需部第二計器倉庫)
前頭・・・・25.(川崎市)多摩川親水公園の煉瓦壁(旧明治製糖の護岸壁)
21(1) 覚栄寺裏山貯水池・・・・覚栄寺本堂の左側に墓地がある。その墓地の間を抜けて
奥まったところに、写真のような貯水池がある。1895(明治28)年築造の旧海軍貯水池である。鉄格子で囲まれ中に入れない。横須賀市水道局が管理している看板があった。
21(2) 覚栄寺裏山貯水池・・・・写真21(1)の鉄格子の左側に沿って、急な山を登った先に、誰も入った様子の無い雑木があった。 そこを抜けると写真のような煉瓦造があった。鉄の扉の下部は腐食しかなり傷んでいた。
21(3) 覚栄寺裏山貯水池・・・・ここの水源地は横須賀市が1908(明治41)年に築造した貯水池である。裏側にコンクリートで覆った大きなかまぼこ状の建造物があった。落ち葉と枯れた小枝が重なってよく分からない。コンクリートの下はアーチ状の天井がある煉瓦造貯水池と推察される。
21(4) 覚栄寺裏山貯水池・・・・ 貯水池正面には、2カ所に出入口の鉄製の扉がある。写真は左側の扉。下部は腐食してボロボロであった。出入口の左右上部に丸窓があるのが印象的である。煉瓦造はイギリス積であり、煉瓦の一部は焼があまく、剥離が見られた。横須賀市はこの貯水池は使用していないという。
21(5) 覚栄寺裏山貯水池・・・・21(3)の写真の左側にコンクリート塗りの柱がある。その柱の中間より上のほうに、石板が埋め込まれていた。この石板に「明治四十一年六月竣成」と刻まれていた。
21(6)覚栄寺裏山貯水池・・・・覚栄寺は浄土宗のお寺である。そこに建つ解説板の後段に、「お堂の右手奥には『滝の井戸』と呼ばれる湧き水があり裏山の湧水は市の水道水源地となっていました」と記してある。21(1)はお寺の左手奥であったが、21(2)~(5)の煉瓦造貯水池は、お寺の本堂の右手奥に相当する位置であった。裏山全体は原始林に覆われており、小原台を含めてこの地域一帯は水を大量に蓄積していたようである。横須賀市走水浄水場は覚栄寺裏山貯水池の裏側に相当する場所にあり、まさに、覚栄寺裏山の湧水が横須賀水道の発祥の地である。
22(1) パイロットコーポレーションのレンガ棟「蒔絵工房NAMIKI」(旧第二海軍火薬廠安定度試験場)・・・・写真は「蒔絵工房NAMIKI」の正面玄関。パイロット万年筆の展示場。単なる展示場ではなく、一本80万円もする最高級蒔絵万年筆などが展示されている。まさに美術工芸品級の万年筆ばかりであった。
22(2) パイロットコーポレーションのレンガ棟「蒔絵工房NAMIKI」・・・・1926(大正15)年より、日本が世界に誇る漆工芸のひとつ、蒔絵を施した高級万年筆を欧米に展開。後に人間国宝となる蒔絵師・松田権六氏を中心とした、蒔絵師グループ「国光会」を結成し、日本古来の伝統工芸である蒔絵の技を90年以上にわたって守り続けています。旧第二海軍火薬廠として使用されていた平塚近代史の遺構である煉瓦造りの建物を改装し、蒔絵万年筆の歴史と漆芸作品を展示しています。(「蒔絵工房NAMIKI」のホームページ参照)
22(3) パイロットコーポレーションのレンガ棟(旧海軍火薬廠安定度試験場)・・・・海軍火薬廠は神奈川県旧平塚市・中郡大野町(現在の平塚市)にまたがる約38万坪の敷地に製造設備を建設した。日本帝国海軍の兵器に使用する爆薬・火薬を製造する海軍の工廠であった。組織改編により平塚本廠は第二火薬廠に改称されている。1945(昭和20)年7月、平塚は米軍の主要攻撃目標となり空襲により壊滅的な被害をうけた。敷地及び建物は終戦後、進駐軍が接取していた。
パイロットは第二次大戦の空襲で大塚工場が被災した。1948(昭和23)年に火薬廠の一部の払い下げをうけ、平塚市に生産拠点工場を移設した。以降、すべての万年筆を平塚工場で生産することにした。
22(4) パイロットコーポレーションのレンガ棟 (旧第二海軍火薬廠安定度試験場)
・・・・平塚における火薬製造は1905(明治38)年、英国アームストロング、ノーベル、ヴィッカースの3社によって設立された日本爆発物製造株式会社平塚製造所を前身としている。1919(大正8)年4月、日本海軍により買収され、海軍火薬廠が発足した。
本レンガ棟の建設の時期が不明であるが、爆発物の安定度試験場は海軍が買収した時にはすでに存在していたと考えられる。しかし、1923(大正12)年の関東大震災では、この種の煉瓦造は崩壊したと推察される。半壊であれば、改修の跡が窺えるが、その痕跡は見られないので、震災後の建築のようである。
さらに、平塚の大空襲でも、被災せず残存したことは幸運であった。平塚では煉瓦造がこの建物以外には無いようである。パイロットコーポレーションのレンガ棟は平塚市の建造物の文化財に相当するものである。
22(5)パイロットコーポレーションのレンガ棟・・・・イギリス積でバッレス(控え柱)が密に建造されれいる。Ⅼ字形の煉瓦造で、建物の中央に通路が造られ、安定度試験場のため、細かく間仕切りされている。煉瓦の大きさは長さ210mm、幅95mm、厚さ55mmで比較的小ぶりであり、積み方は4段9寸(272mm)。窓からの侵入警戒のため建物の全周にわたって、警報装置を取り付けた痕跡が見られた。刻印は発見できなかった。
23(1) 横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門(旧横須賀重砲兵連隊営門)・・・・写真は
旧横須賀重砲兵連隊営門。横須賀重砲兵連隊は1890(明治23)年に要塞砲兵第一連隊として設置された。現在残る門は連隊の正門で、1907(明治40)年10月26日に竣工されている。正面から向かって右側の門柱に「横須賀市立坂本中学校」の表札が掲げてある。
23(2) 横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門(旧横須賀重砲兵連隊営門)・・・・正面から見て左側の門柱に「横須賀市立桜小学校」の表札が掲げてある。門柱はかなり堅牢であり、重砲兵連隊の勢力を現わしている。
門柱に連なってい残る約16mの塀は、1891(明治24)に出来上がったものと推定されている。門柱はその後、1907(明治40)年10月26日に竣工したという。長さ16mの塀の跡に連隊の正門が完成したことになる。なぜ、正門が後から完成したのか、疑問が残る。恐らく、以前の門柱は連隊の規模に照らしてやや小さかったと見られる。装備した火砲が大型化し、門柱の幅が狭かったこと、日露戦争で勝利し陸軍の権威を高めることなどが考えられる。後から完成した門柱は58cm角、高さ3.24m、塀の高さ1.8mで、堂々としている。
23(3) 横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門(旧横須賀重砲兵連隊営門)・・・・煉瓦塀の道路側に解説の柱が建ててあった。文言は次のとおり。「横須賀市指定市民文化資産 旧横須賀重砲兵連隊営門 連隊の正門で、1907(明治40)年10月に竣工した。これに連なる塀は、1891(明治24)に完成したものと推定される。本市に残る数少ない明治建造物である。」
23(4) 横須賀市立桜小学校・坂本中学校校門(旧横須賀重砲兵連隊営門)・・・・煉瓦壁の転倒防止のため、煉瓦壁の裏面に堅牢なささえ柱を設けている。丁寧な工事である。陸軍の塀が倒れたなど、恥になるような作業はしなかった。
24(1) 海上自衛隊横須賀造修補給所煉瓦倉庫(旧横須賀海軍軍需部第二計器庫)
・・・JR横須賀線田浦駅を海岸方面にでると旧横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫群がある。現存する倉庫は相模運輸倉庫が7棟。海上自衛隊横須賀造修補給所の倉庫が6棟ある。横須賀には多くの煉瓦造建築物があったが、関東大震災の影響で土木遺構以外で、その姿をみることはほとんどない。海上自衛隊の地区に1921(大正10)年築の煉瓦造「旧第二計器庫」が残っている。イギリス積、2階建、キングポストトラスの木造の小屋組、梁間17.1m、桁行72.48m、間柱で挟まれた中央を通路としている。
24(2) 海上自衛隊横須賀造修補給所煉瓦倉庫(旧横須賀海軍軍需部第二計器庫)
・・・・外壁は帯鉄で巻かれ、その上にコンクリートの付け柱が等間隔で設置されており、内部にも同じように付け柱が見られるという。帯鉄や付け柱は震災後に補強のためつけられたものとみられる。
24(3)海上自衛隊横須賀造修補給 所煉瓦倉庫(旧横須賀海軍軍需部第二計器庫)
・・・・煉瓦造取り巻く帯鉄、コンクリートの付け柱がよく見える。妻面が波板鉄板で覆われている。建設当初は煉瓦造であったと見られる。多分関東大震災で妻面が損傷したので除去したかもしれない。相模運輸倉庫エリア にもう一棟煉瓦造があるが、全面をモルタルで塗り固めているという。この煉瓦造はこの「第二計器庫」よりも古い建築物であるという。この建物から「小菅集治監製煉瓦」を現わす刻印が確認されたという。
(「神奈川県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」参照)
25(1)多摩川親水公園の煉瓦壁(旧明治製糖の護岸壁)・・・・1906(明治39)年、川崎駅西口に川崎市最古の大工場である横濱製糖川崎工場が開設された。1912(明治45)年、明治製糖(現・大日本明治製糖)と合併し、1923(大正12)年、関東大震災により壊滅的打撃を受けたが、最新設備の整った工場として復興を遂げた。
川崎工場裏手の多摩川沿いには、煉瓦造の護岸壁(河岸、海岸などの水際の浸食防止のための壁)が建設され、ここに「テルファー」と呼ばれる当時最新の移動式クレーンが設置された。横浜港から〝はしけ〟(大型船と陸との間を往復して貨物や乗客を運ぶ小舟)により運ばれた原料は、テルファーで陸揚げされ工場内へ運搬されていたようである。多摩川沿いには煉瓦造の護岸壁が現存している。
25(2) 多摩川親水公園の煉瓦壁(旧明治製糖の護岸壁)・・・・川崎は、安価な工場用地と二ヶ領用水の工業用水が確保できた点、原料や製品の輸送が陸上・海上ともに便利な点、大都市に隣接しているという立地条件などから、この明治製糖を皮切りに次々と工場が建設された。当初、明治製糖川崎工場の資材水上運搬施設の一部として建築された赤煉瓦造の護岸壁。現在は、多摩川親水公園の一部として市民に親しまれている。
25(3) 多摩川親水公園の煉瓦壁(旧明治製糖の護岸壁)・・・当初、明治製糖川崎工場の資材水上運搬用施設の一部として建築された赤煉瓦造りの護岸壁でした。
現在は多摩川親水公園の一部として市民に親しまれている。
赤煉瓦造の壁は長さ約300m、イギリス積、煉瓦壁の高さは平均2.5m。約半分は埋まっていると考えられるので、建設当初は高さ約5m以上の赤煉瓦壁であったと推定している。
日本赤煉瓦建造物番付
◎日本赤煉瓦建造物番付 神奈川県場所 令和二年十一月
《ベスト30》のうち26~30位
《順位》 《取在地》 《 名 称 》
前頭・・・・26.(藤沢市)旧サムエル・コッキング庭園の煉瓦造温室遺構
前頭・・・・27.(横浜市)山手80番館遺跡
前頭・・・・28.(横浜市)ジェラール水屋敷地下貯水槽
26(1) 旧サムエル・コッキング庭園の煉瓦造温室遺構・・・・英国人貿易商サムエル・コッキングが、江の島に造った庭園の一角に巨額の私財を投じて1887(明治20)年頃、煉瓦造温室を建造した。1923(大正12)年の関東大震災で温室の上屋はすべて倒壊したが、煉瓦を主体とした基礎部分や地下に造られた施設が残った。
26(2) 旧サムエル・コッキング庭園の煉瓦造温室遺構・・・・地下通路の入口、通路の幅は約1m、高さ約1.9m、天井はアーチ型。
26(3) 旧サムエル・コッキング庭園の煉瓦造温室遺構・・・・遺構の一部
26(4) 旧サムエル・コッキング庭園の煉瓦造温室遺構・・・・遺構の各所にこのような解説板が建てられている。
26(5) 旧サムエル・コッキング庭園の煉瓦造温室遺構の煉瓦刻印・・・・遺構の上に通路が設けられており、見学者は通路から下の遺構や煉瓦を見ることができる。①と②の刻印は現地で確認できた。刻印①の煉瓦は多摩川沿いに工場があった「横浜煉化製造会社」の製品である。刻印②の製造所は不明。③④は「○にカ」の刻印で旧東京砲兵工廠銃包製造所(自衛隊十条駐屯地)の建物に使用されていた。製造所の特定はできていないが、東京の荒川沿いの煉瓦工場と見られる。(刻印の出典はインターネット「歩鉄の達人」より転写)
27(1) 山手80番館遺跡・・・・関東大震災前に建てられた横浜に唯一現存する外国人の住宅の遺構で、当時の生活状況を伝える貴重な遺跡。震災当時はマクガワン夫妻の住居であったという。解説板(27(4))によれば、遺構の概要は次のとおり。
「構造規模:鉄筋補強煉瓦造(当初3階建)、建築面積:180㎡、外壁:人造石貼、
内壁:モルタル塗・一部漆喰塗、床:コンクリート及び土間(当時板床)・一部タイル敷、附属設備:煉瓦造浄化槽、建設年代:明治末~大正初期、設計者:不詳、居住者:マクガワン夫妻(大正12年当時)」
27(2) 山手80番館遺跡・・・・建造物は3階建のため、煉瓦壁がかなり厚い。
27(3) 山手80番館遺跡・・・・山手80番館は、煉瓦壁体が鉄棒によって補強されており、耐震上の配慮がなされていたが、床部のせりあがりや壁体の亀裂が随所にみらて関東大地震による被害が甚大であったことがわかる遺構である。
27(4) 山手80番館遺跡・・・・現地に建つ解説板。山手80番館はかなり広い面積の建物で、間取りの多い3階建の煉瓦造であった。
28(1) ジェラール水屋敷地下貯水槽・・・・この建造物は、登録有形文化財(建造物)に2001年4月24日に登録されている。建設:1877~1886(明治10)年代。煉瓦造、面積114㎡、所在地:横浜市中区元町1-77。
幕末から横浜に居住したフランス人ジェラールが経営した船舶給水業の施設で、兼業したフランス瓦・煉瓦製造工場の地下に築造され、谷戸の湧水を集めて貯水した。天井はいわゆる防火床。水屋敷の遺構として親しまれ、最近ポケットパーク的に整備された。(文化庁データーベース参照)
28(2) ジェラール水屋敷地下貯水槽・・・・元町公園中央の低地部分や市営プールなど「ウォーターガーデン」として整備されているあたりは、明治の初めにフランス人実業家ジェラールが船舶給水業を営んだ場所として知られている。湧き水を簡易水道で引き、外国船に飲料水として売っていた。その品質の良さで好評だったらしい。ジェラールはまた同地で西洋瓦の製造も行っている。ジェラールのこれらの施設を、人々は「ジェラールの水屋敷」と呼んだという。
ジェラールは1878(明治11)年に帰国、工場はフランス人ドゥヴェーズが継承し1907(明治40)年に工場の機械類が売却されるまで、このドゥヴェーズがジェラール工場の
繁栄を支えていた。
28(3) ジェラール水屋敷地下貯水槽・・・・現地に建つ「ジェラールの瓦工場と水屋敷跡」を説明した解説板。
29(1) 旧横浜居留地煉瓦造下水道・・・・煉瓦造土木構造物、建設年代:1881~1883(明治14~16)年、故造及び形式等:外径長4.0m、外径幅3.2m、沈殿槽部深さ2.1m、前後卵形管延長41.5m附属。
明治初年のブラントン設計による陶管下水道を煉瓦造に改造した際の施設。当時神奈川県御用掛の三田善太郎が計画にあたる。日本人の計画になる最初の近代下水道遺構として貴重。2本の中下水卵形管を接続する。大桟橋入口の開港広場に保存展示されている。(文化庁データーベース参照)写真は横浜都市発展記念館前に展示されている卵形煉瓦造下水管。
29(2) 旧横浜居留地煉瓦造下水道・・・・横浜都市発展記念館前に建つ解説板。
30(1) 旧居留地消防隊地下貯水槽遺構・・・・1871(明治4)年から1899(明治32)年まで居留地消防隊の本拠地だった場所にある遺構。1972(昭和47)年まで使用されていた。
横浜市認定歴史的建造物に指定されている。所在地は横浜市中区日本大通12、横浜都市発展記念館前。
30(2) 旧居留地消防隊地下貯水槽遺構・・・・建造年:1893(明治26)年(推定)、構造:煉瓦造(イギリス積)、規模:底面3.19m×3.17m・高さ4.50m・貯水量28㎥、
ここは、居留地消防隊が本拠地として使用した後にも、日本初の消防車(1914(大正3)年)、救急車(1933(昭和8)年)が配置されるなど、日本における近代消防ゆかりの地ともいえる場所である。
30(3) 旧居留地消防隊地下貯水槽遺構・・・・現地に建つ解説板。
YKKの町、富山県黒部へ ~干しカレイの町~
ある会員の方から、富山にいるなら、黒部市にあるYKKの史料館に、日本機械遺産学会が認定した機械遺産「ファスナーチェーンマシン(YKK-CM6)」があるので、見てきたらどう、との連絡をいただき、先日、行ってきました。
そこは「あいの風とやま鉄道」(元・JR北陸線)の生地(いくじ)駅から歩15分ほどの所にある「YKKセンターパーク」です。
「YKKセンターパーク」という広々とした敷地にあるこの建物は、1958(昭和33)年に建てられたファスナーの基布紡績工場でした。
その工場が役割を終えた後、取り壊さずに資料館として再生しました。
2010年に「BELCA賞ベストリフォーム部門賞」を受賞しています。歴史的建造物を改造して、後世に引き継いだことが高く評価されました。
なお、横浜赤レンガ倉庫なども、この賞を受賞しています。
さて、展示室ですが、写真撮影は禁止でした。機械遺産に認定されたそのファスナーも展示されていましたが、撮ることはできませんでした。
同社は、1994年に「YKK」と社名変更するまで「吉田工業」でした。創業者は故・吉田忠雄、PR施設があるこの場所は黒部市吉田という町名です。
ファスナー事業で積極的に海外展開し、現在は72カ国・地域で事業をしています。
地味で保守的な県として知られる富山では珍しい““インターナショナル企業“です。展示説明は、英語が先で、日本語はその下にありました。なんともオシャレ!です。
例えば、次のように。
「Longer Fiber Suits Zipper Yarn」の英文の下に「ファスナー用の糸には長い繊維が必要です」と。
「We Make All Dies Ourselves」「あらゆる金型を自社でつくる」といった感じで。
◇
ファスナーは1893年に米国で発明されたのですが、用途として最も厳しい条件が求められたジーンズ用で米国製品を凌駕するものを開発したことで、YKKはファスナーで世界1になるきっかけをつかんだそうです。
展示館の敷地の一角はビオトープになっていて、カエルの卵などが見えました。初夏になるとヘビも出るそうです。
池を覗くと、クルミがいくつも落ちていました。
クルミは黒部市ではごく普通に見られるそうです。果実が熟すると黒くなるので、
クルミのことを地元の方言で「くろべ」といい、その名が地名の黒部となったようです。
センターパークから日本海に向け約1.5キロ歩くと黒部漁港に着きます。
漁港に隣接して魚の駅「生地(いくじ)」があります。海産物を扱う市場になっています。
そこで見かけたのが「カレイのほっぺ」です。説明文を読んでみてください。
この黄色い説明紙の下の冷凍ケースにその「ほっぺ」はありました。確か6個入りのコブクロで650円程度でした。
店内にはいろんなカレイが並び、私は、長さ30センチ弱のアカガレイの一夜干しを2匹買いました。帰宅して焼いて食べたのですが、うーん、なかなか美味でした。
上のアカカレイは結構大きい方です。
海岸通りの魚店の店先にカレイが干してありました。黒いのは鳥よけです。
産業遺産に関心を持って旅に出ることと、「食」とは、密な関係にあると常々思っていますので敢え魚等を紹介しているのですが、ここ生地(いくじ)という所は、詩人の田中冬二の郷里でもあります。その詩は教科書にもよく載っています。
その故郷である生地での詩「ふるさとにて」の中に、「ほしがれひをやくにほひがする」の句もあります。
産業史に戻りますが、田中冬二の母方の祖母は安田善次郎の妹です。そういう血縁もあり、冬二は安田銀行(後の富士銀行)に就職します。
以上です。 (K.O)
◎旧碓氷線のアプトの道 ~廃レールも再活用~
赤レンガ建築研究者、八木司郎氏による『日本赤煉瓦建造物番付<群馬県場所>』で、富岡製糸場と並んで横綱になった旧碓氷線の赤煉瓦構造物等について、東京産業考古学会(会長:八木司郎)では今年1月に、「碓氷峠浪漫倶楽部」の萩原豊彦理事長を講師としてお招きし、いろいろお話を伺いました。
東京産業考古学会のHPです。→ http://tias3.web.fc2.com/
JR軽井沢駅から横川駅までの旧碓氷線に沿って、新潟県で採れる石油を首都圏に運ぶためのパイプラインが敷設されていて、その遺構が現在でも部分的に残っている(非公開)とは初めて知りました。
下の写真は、碓氷第三橋梁(通称「めがね橋」)です。旧碓氷線エリアで最も有名な場所です。横川駅から現地まで歩約1時間20分。 (2018年8月撮影)
萩原講師も講演で触れておられましたが、JRの「大人の休日倶楽部」のPR撮影が吉永小百合をモデルにここでなされました。写真に人影が写っていますが、その少し先あたりに吉永小百合が佇むというシーンでした。
私が4年前に現地を訪れた時、橋の周辺の草刈りをしていた年配の作業員が、撮影目撃談をこう話してくれました。
「別の女性モデルを橋の上に立たせて、カメラマンがしばらくテスト撮影をした後、トンネルの中から車に乗った吉永小百合がJRのスタッフらと現れ、そのモデルと交代、ほんの数分の感じだったなあ、カメラマンがシャッターを押したのは。撮影が終わったら彼女はその場から去った」と。
(下の写真は2016年7月撮影)
碓氷線の跡は現在、遊歩道「アプトの道」となってます。
下の写真は、アプトの道沿いに走る観光電車です。横川駅そばにある「碓氷峠鉄道文化むら」から旧丸山変電所の横を通って、峠の湯駅まで行きます。約3キロ。
(撮影:2018年8月)
碓氷線は急勾配だったため、登山鉄道などに使用するアプト式レールが使われました。スイスの技術者、ローマン・アプト(1850~1933)が開発しました。
(上の写真には写っていません)
アプト式レールとは、通常のレールの間に歯車状の別のレールを敷き、機関車の下に取り付けた歯車(ラックギア)とかみ合わせることで、急勾配でも列車が滑らずに上り下りができるようにしたものです。
下の写真は、不用となったアプト鉄道のレールを、側溝の蓋に転用したものです。
アプトの道近くで見かけました。
JR信越本線「横川駅」前の側溝にも使われています。(撮影2010年8月)
下の写真は信越本線「磯部駅」のロータリーです。正面の建物は駅舎。
同駅は横川駅と高崎駅の中間にあります。磯部温泉の最寄り駅です。
磯部温泉は、情緒溢れる静かな温泉地です。静かさの中でゆっくりしたひとときを過ごしたい人向きです。
市営の温泉施設「恵みの湯」が同駅から歩いて10分の所にあります。筆者は碓氷線の産業遺産見学の後、よく立ち寄りました。
(撮影:2019年1月)
以上です。
◎赤煉瓦倉庫の中に入りました ~早稲田大学が保存プロジェクト~
埼玉県本庄市にある旧本庄商業銀行倉庫は、赤煉瓦建造物としての番付は八木ブログによると、前頭筆頭(6)です。
筆者はここにも何度か行きました。訪問目的は別にして、筆者が見に行った2016年から17年にかけて同倉庫は、建物内部の改修工事が行われていました。耐震補強工事も併せて実施されました。
(2016年8月撮影。右手は白壁の蔵)
この赤レンガ倉庫は、JR高崎線・本庄駅から歩いて約15分の所にあります。
旧中山道に面し、シルクで繁栄した本庄市のシンボル的な建物となっています。
この赤レンガ建造物ですが、ローヤル洋菓子店が保有していた2011(平成23)年に、本庄市が同店から取得しました。
その後、本庄市の依頼を受けた早稲田大学理工学術院総合研究所のプロジェクトチームにより保存・活用策が示され、一連の工事が完了した2017(平成29)年4月から本庄市の交流施設として、一般公開されています。
(※早稲田大学の調査報告書は、本庄市のホームページに載っています。読みましたが、なかなか味わい深い内容といえるかと思います)
なお、早稲田大学ですが、本庄市に大学や高校のキャンパスを設け、同大学の最寄りである上越新幹線の駅名が「本庄早稲田駅」であることからもわかるように、市は早稲田大学と密接な関係にあります。
(2016年に撮影した外壁)
保存・改修工事を終えた同赤煉瓦倉庫の中に入ってみました。2017年4月でした。一階(下の写真)は、展示スペースです。
2階(下の写真)は多目的ホールになっています。
まあ、内部はこんな感じですね。
◇
ところで本庄ですが、絹で栄えた歴史ある町だけに、タウンウオッチングをすると、思わず足を止め、見入ってしまう建物や看板が目につきます。
例えば下の写真にある元仕出し屋のように。
地元の人にはごく平凡な風景だからでしょう、写真を撮っていると、不思議な眼で見られます。
(お寿司の弁当をやっていたお店跡)
下はオシャレな建物、諸井家住宅です。埼玉県の文化財に指定されています。
ざっと、以上です。 (K.0)
◎深谷の日本煉瓦製造に行ってきました ~緑のガラス片~
(解体の日本煉瓦製造の建物。2007年9月撮影)
赤煉瓦番付の八木ブログで埼玉県深谷市の日本煉瓦製造の建造物が、埼玉県の番付で横綱とありますが、歴史的役割からみても当然でしょうね。納得です。
私はこれまでに5回ほど現地に行きました。
上の写真は同社が2006年に清算し、120年の歴史を閉じることを決めた翌年に
撮りました。正面に見えるのが同社のメーンの建物「旧事務所」です。八木ブログの「1-3」にある建物ですね。
日本煉瓦の正面玄関を入った右手に、その旧事務所はあります。
その正面玄関に赤煉瓦づくりの門柱があり、それは八木ブログの「1-3」の写真の中央に写っていますが、その門柱の上部に明かり窓があります。
深いグリーンのガラスがはめ込まれています。
私が訪ねた時、そのガラスの何枚かが経年劣化で落下、緑の破片が門柱下に散らばっていました。その1つを拾って、今でも大切に持っています。
こうしたパーツも産業遺産だと思っています。過去を振り返り、さまざまなことに思いを寄せることができるからです。
正面を右手にまわると、赤煉瓦塀がずっと続いています。ここにも門柱に緑のガラスがはめ込まれていますね。
コギーと散歩する女の子が通り過ぎました。
深谷といえばネギですが、畑の中の道を歩いていたらひょうたんがありました。
取りましたではなく、撮りました。
通る人が少ないこともあるからでしょうか、自転車に乗った人、散歩の人、皆さんすれ違う時、「おはよう」とニッコリ。
◇
さて、最後に1998年に、深谷市教育委員会が編集したパンフレット「深谷の煉瓦物語」に載っていた深谷駅から遊歩道(専用線跡)、日本煉瓦製造とその周辺の地図をコピーし、参考までに添付しました。
私はこの道を何度か歩いたのですが、ルートを外れると、あたりは同じような風景が連続する田んぼなので、道に迷ってしまいます。
歩いて現地を訪ねる方はどうぞご注意下さい。
以上です。 (K.O)
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◎日本赤煉瓦建造物番付 埼玉県場所 令和二年一月
《ベスト30》のうち1~10位
《順位》 《所在地》 《 名 称 》
横綱・・・・1.(深谷市)日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
ホフマン輪窯六号窯・変電室・旧事務所・備前渠鉄橋
大関・・・・3.(県内各地)煉瓦造樋管・堰群
小結・・・・5.(入間市他)西武鉄道旧入間川橋梁と煉瓦造橋梁群
前頭・・・・6.(本庄市)旧本庄商業銀行倉庫
前頭・・・・7.(川口市)旧田中家住宅洋館・煉瓦塀
前頭・・・・8.(熊谷市)日本聖公会熊谷聖パウロ教会礼拝堂・門
前頭・・・・10.(秩父市)旧武毛銀行本店
1-1(1) 日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設(深谷市上敷面字中島28番地2他)
「ホフマン輪窯六号窯」(1997年5月29日 国定重要文化財に指定)の内部・・・・ドイツ人窯業技術者フリードリッヒ・ホフマン考案の大量生産用煉瓦焼成窯である。本窯は1907(明治40)年頃に建造され、1968(昭和43)年までの約60年間生産を続けた。全長56.5m、幅20m、高さ3.3mの総煉瓦構造である。内部には18の焼成室があり、各室に煉瓦の搬出入口、燃料の石炭投入口、排煙口が設置されている。この焼成室を窯火が巡りながら常時煉瓦を焼成することにより、月産65万個の煉瓦生産高を実現していた。(説明板:参照)
1-1(2) 日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設 「ホフマン輪窯六号窯」(国指定重要文化財)の現況・・・・大天幕を展張し六号窯を改修中。創業当時、窯は地上3階の木造上屋に覆われ、2階は燃料投入室、3階は煉瓦乾燥室とされた。煙突も当初煉瓦構造だったが関東大震災により倒壊、現在の鉄筋コンクリート構造になった。今回の改修で3階の煉瓦乾燥室を再建するかどうか未確認である。
1-2.日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設「旧変電室」(1997年5月29日 国指定重要文化財に指定)・・・・日露戦争後の好景気による建築・土木事業の拡大がもたらした煉瓦需要の増加に応対するため、会社は設備投資の一環として電力の導入を開始した。諸産業への電力利用の普及もあり、従来より使用していた蒸気式原動機の電動機への転換に踏み切ったのである。1906(明治39)年8月、高崎水力電気株式会社と契約を締結、電灯線を架設し、電動機を導入した。当時の深谷町に電灯が導入される1年前のことである。この建物だけが建造当時の外観をとどめている貴重な建物である。(説明板:参照)
1-3.日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設 「旧事務所」(1997年5月29日 国指定重要文化財に指定)・・・・日本煉瓦製造株式会社は、明治政府が計画した洋風建築による官庁街建設を推進するため、煉瓦を大量供給する民営工場として、渋沢栄一らが中心となって設立された。政府に招かれていた建築技師ウイルヘルム・ベックマン、チーゼらのドイツ人技術者の指導により選定され、良質の原土を産出し、水運による東京への製品輸送が可能な現深谷市上敷免に決定された。建物は1888(明治21)年頃の建設で、煉瓦製造技術の指導に当たったチーゼ技師が住所兼事務所として使用し、娘クララと共に1889(明治22)年12月に帰国するまで生活した。その後は会社事務所として使用された。建物全周の基礎には煉瓦が用いられている。(説明板:参照)
1-4.日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設「備前渠鉄橋」(1997年5月29日 国指定重要文化財に指定)・・・・操業当初からの輸送手段であった利根川舟運は安定した輸送力に欠け、燃料や製品の輸送に度々問題が発生した。これを解決するため建設されたのが鉄道専用線であり、1895(明治28)年、深谷駅との間で日本初の民間専用線として運用を開始した。専用線には4ヶ所の鉄橋があり、すべてに「ポーナル製プレート・ガーター橋」が採用された。本鉄橋は4ヶ所のうち、一番長い15.7mの橋桁が用いられている。橋台は両岸とも日本煉瓦製造株式会社の赤煉瓦が使用された。(説明板:参照)
1-2(1).誠之堂(深谷市起会字唐言110番3)・・・・「誠之堂」(2003年5月30日 国指定重要文化財に指定)・・・・誠之堂は渋沢栄一の喜寿を祝い、第一銀行の運動場及び保養施設の清和園に建設された記念堂である。1916(大正5)年3月に起工、同年11月12日に竣工開館した。設計は清水組技師長の田辺淳吉である。1998(平成10)年から1999年にかけて、大ばらし解体のうえ、現在地に移築復原された。
煉瓦造、平屋建、屋根は天然スレート葺き、建築面積113.30㎡。平面はヴェランダ付きの大広間を中心として、次の間、化粧所、玄関などの構成になる。誠之堂は、外観の基調を英国の田園趣味に基づいたものとし、多彩な煉瓦積技法と自在な意匠とにより、端整かつ雅趣ある建築作品に仕上がっている。
大正期の名建築デザイナーとされる田辺淳吉の代表作のひとつであり、大正建築の特質の一面である美術工芸運動的傾向を代表する作品として、重要である。(文化庁データーベース参照)
1-2 (2).「誠之堂」(国指定重要文化財)・・・・暖炉の背後に接する北側外部壁面には、煉瓦による朝鮮風の装飾積みで「喜寿」の文字を表わしている。また、外壁にはあえて色ムラのある煉瓦を使用しリズミカルに配置することで、装飾性と変化を与えている。フランス積み。使用している煉瓦は日本煉瓦製造株式会社で焼かれたものであることが確認されている。(パンフレット参照)
3-1. 煉瓦造樋管・堰群(県内各地)・・・・(通称)めがね橋「倉松落大口逆除」(くらまつおとしおおぐちさかよけ)(春日部市八町目地先)・・・・埼玉県内に数多い煉瓦造の樋管・堰の中で最古級であり、現存する樋管の中で最大級で、かつ4連はこれだけである。竣工は1891(明治24)年。現在は市道橋である。写真の正面が南側で、アーチ型の4連の煉瓦造の樋管で水面に円形が並んで眼鏡のように見えることから、この呼称がある。
この煉瓦造の樋管は、「倉松落大口逆除」が建設時の名称である。同樋管の前身である倉松落の門樋は1890(明治23)年8月の洪水で破壊された。このため1891(明治24)年3月に強固な煉瓦造の4連の樋管が完成した。本樋管の役割は排水先である大落古利根川の高水が、倉松落に逆流するのを防止するためである。(土木学会HP参照)
3-2. 煉瓦造樋管・堰群(県内各地)・・・・「五笊田堰」(ござるたぜき)(久喜市北中曽根)・・・・この堰は備前堀川の中流部に設けられた農業用水の取水堰。清久工業団地の西端、NHKラジオ放送局と県道12号線の中間に位置する。五笊田堰は煉瓦造の堰としては埼玉県内で最大規模である。1908(明治41)年12月1日起工し、翌1909(明治42)年3月20日竣工している。総工費は7,030円、建設資材は地元負担、建設は県の直括工事。基礎杭は松丸太(長さ3間:5.5m、直径6寸:18cm)667本を打ち込み、杭頭の周囲に木材で枠を組み、中に砂利や栗石を敷詰めた後に突き固めて、その上に捨コンクリートを打設した。その後、使用煉瓦数は約48,000個(表積み16,000個、裏積み32,000)、イギリス積みで堰を造ったという記録が残っている。(埼玉県の煉瓦水門 HP参照)
3-3(1). 煉瓦造樋管・堰群(県内各地)・・・・「千貫樋」(せんがんぴ)(さいたま市桜区五関地内)・・・・1904(明治37)年6月竣工。煉瓦造の2連の樋管、面壁・翼壁の荷重を支持するため、基礎杭として生松丸太(長さ3間:5.5m、直径6寸:18cm)を158本打ち込み、その上に6寸(18cm)角の生松木を平面に縦横に組み土台にしている。生松材の土台にコンクリートが打設され、その上が樋管本体等の煉瓦積みとなる。
埼玉県内には明治・大正期に建設された煉瓦造樋管が39基現存し、そのうち頂部がアーチ状の樋管は21基現存し、4連樋管が1基(めがね橋)で、2連樋管は2基でその一つが「千貫樋」である。残る18基は単樋管である。(土木学会関東支部HP参照)
3-3(2). 「千貫樋」(せんがんぴ)のアーチ部・・・天井部分は煉瓦の長手積み、入口のアーチリングは4巻。側壁はイギリス積み。1987(昭和62)年浦和市(現:さいたま市)は千貫樋周辺を整備し、「千貫樋水郷公園」にして下流から見て右側の樋管を遊歩道(通路の幅は2,4m、高さ1.8m、長さ14.3m)にして人の通行を可能にした。(土木学会関東支部HP参照)
3-4.煉瓦造樋管・堰群(県内各地)・・・・「甚左衛門堰」(じんざえもんせき)(草加市神明2-145-1他)・・・・ 札場河岸公園内にある甚左衛門堰は、かって付近に広がっていた水田の用水量を調整するため、綾瀬川と伝右川の間に設けられた。野口甚左衛門により造られたので、甚左衛門堰という名で呼ばれている。1890(明治23)年の大洪水の後、県に改築のための補助を求め、その3年後に補助金が交付され、1894(明治27)年に3ヶ月かけて現在の煉瓦造りの甚左衛門堰が完成した。1983(昭和58)年まで、約90年間にわたり使用された。
甚左衛門堰には、横黒煉瓦が32,500個使用され、「オランダ積」あるいは「イギリス積」と呼ばれる技法で積まれている。甚左衛門堰は古いタイプの横黒煉瓦を使用していますが、建設年代から見てもこの種の煉瓦を使った最後期を代表する遺構です。また、デザインが美しいだけでなく、保存状態も極めて良く、農業土木技術史・窯業技術史上、貴重な建造物です。(草加市HP参照)
4(1).秩父鉄道荒川橋梁(左岸:秩父群長瀞町長瀞、右岸:皆野町下田野)・・・・秩父鉄道の上長瀞駅と親鼻駅の間、上長瀞駅から徒歩約8分で荒川の左岸に着く。橋梁の形式は「ポーナル型プレートガーター橋」10連、全長約176m、煉瓦造橋脚・橋台。1914(大正3)年竣工。通称「親鼻鉄橋」。親鼻駅と上長瀞駅は荒川橋梁の竣工と同時の開業だが、当時、上長瀞駅は国神駅と称し、1928(昭和3)年に上長瀞駅へ改名した。(鉄道橋HP参照)
4(2).秩父鉄道荒川橋梁・・・・橋脚の高さは約20m。非常に高い橋脚が特徴である。荒川を横断するため、10連の橋桁と9基の橋脚が造られた。流水部分の6基の橋脚は煉瓦造の4段積みであった。すべての橋脚の最上段も煉瓦造であったが、その後の改修工事で最上段はコンクリートで補強され長方形になっている。橋脚の断面は舟形の楕円形で前後と側面の中央部分には石材が使用されている。両岸にある橋台も煉瓦造で、イギリス積みである。
5(1). 西武鉄道旧入間川橋梁(入間市野田)・・・・西武鉄道池袋線の元加治駅と仏子駅の間に残る旧路線の鉄橋。竣工は1915(大正4)年。この地方は材木・木炭・砂利・織物などの商売が盛んであり、鉄道建設の機運が盛り上がっており、地元の資本家が出資して建設した鉄道が武蔵野鉄道(西武鉄道の前身)であった。
形式は上路プレートガーター橋の6連、長さ約100m、5基の橋脚は2段重ねの煉瓦造、下部の断面は尖頭形で、上流側に石造の水切り形の尖頭隅石が積まれ、下流側は角部に隅石がある。下から2段目の煉瓦積みは長方形で、1段目と2段目の中間には石材を挟んでいる。(「元加治駅~仏子駅間の廃鉄橋」HP参照)
5(2).西武鉄道旧入間川橋梁・・・・入間川の左岸は河岸段丘で高く、右岸は盛り土の堤防であり、煉瓦造橋台の建設は困難であったと見られる。橋台の周りの側面は、河川の丸石をコンクリトに埋め込んで築いており、地元有志の発案した鉄道建設であったことをうかがわせる工事と見られる。写真は左岸の高い河岸段丘に造られた煉瓦造橋台。橋台の周りには入間川から採取した自然石の丸石をコンクリトで固めた側壁である。橋桁の高さも低く、人や荷車程度が通行できれば良いという時代だったようである。
6(1).旧本庄商業銀行倉庫(本庄市銀座1-5-16)・・・・1997年6月12日、登録有形文化財(建造物)に登録。数年前までは「ローヤル洋菓子店」であったが、最近本庄市が購入し市が管理することになった。1894(明治27)年頃の竣工。煉瓦造2階建、瓦葺、建築面積279㎡。約31m×8.5mの内法の長方形平面の煉瓦造倉庫である。当時高価であった繭や生糸を担保として貯蔵するため、左右対称の位置に設けられた窓に、戸棚と鉄扉を設け、通風と防火に配慮している。現在では菓子店の店舗兼工場として活用され、広く親しまれている。(文化庁データベース参照)
6(2).旧本庄商業銀行倉庫・・・・倉庫裏側から撮影、駐車場を設け、奥の別棟にトイレを新設し観光客を誘致するように配慮している。
7(1).旧田中家住宅洋館(川口市末広1-7-2)・・・・2006年3月27日、登録有形文化財(建造物)に登録。1921(大正10)年竣工。煉瓦造3階建、瓦葺、建築面積186㎡。佐立七次郎の下で西洋建築を習得した櫻井忍夫が設計。煉瓦造3階建で、北側に蔵、南側に台所棟を配する。外部は暗紫色の化粧煉瓦と石材等で仕上げ、柱頭等を銅板装飾で飾る。内部は玄関帳場や2階座敷以外を洋風意匠でまとめる。大正期の本格的洋風住宅の好事例。(文化庁データーベース参照)
7(2). 旧田中家住宅洋館・・・・正面本館の右側に2階建の煉瓦造蔵が建つ。すべて「焼き過ぎ煉瓦」(写真)を使用している。覆輪目地のイギリス積み。
7(3).旧田中家住宅煉瓦塀・・・・2006年3月27日 登録有形文化財(建造物)に登録。1921(大正10)年頃に竣工。煉瓦塀 煉瓦造延長52m。敷地西辺中央を鉄柵とし、北方、南方及び敷地南辺を煉瓦塀とし、鉄柵中央に鉄門を開く。北方煉瓦塀の2ヶ所、南方に1ヶ所の通用門を開き、北方の鉄門寄りの通用門にはアーチを架ける。洋館と同時期で、国道沿いの景観を整える。(文化庁データーベース参照)
8(1).日本聖公会熊谷聖パウロ教会礼拝堂(熊谷市宮町1-139)・・・・2005年11月10日、登録有形文化財(建造物)に登録。1919(大正8)年竣工、煉瓦造平屋建、瓦葺、建築面積141㎡。焼き過ぎ煉瓦を効率的に用いた煉瓦造教会。イギリス積み。桁行約16m、梁行約7m規模の単廊式会堂で、東面北端に鐘塔を建ち上げ下部を玄関ポーチとし、外壁要所に尖塔アーチ窓とバットレスを配す。内部は煉瓦壁を顕わにし、木造シザーストラスを架ける。設計はW.ウィルソン。(文化庁データーベース参照)
8(2). 日本聖公会熊谷聖パウロ教会門・・・・2005年11月10日、登録有形文化財(建造物)に登録。1919(大正8)年竣工、煉瓦造、間口4.5m。鐘塔を兼ねた礼拝堂玄関ポーチに対応した位置に建つ。門の間口は内法で2.2m、東側に脇門を設ける。門柱は煉瓦造で、煉瓦長手2枚角、脇門柱は1枚半角とする。門柱根積部との境に柾立ての層を挟み、礼拝堂と合わせた積み方とするのが特徴。礼拝堂の門柱と表札。(文化庁データベース参照)
9(1). 日本聖公会川越キリスト教会礼拝堂(川越市松江町2-4-13)・・・・2011年11月20日、登録有形文化財(建造物)に登録。1921(大正10)年竣工、煉瓦造平屋建、スレート葺、建築面積138㎡、塔屋付。立教大学新築のため来日したW.ウィルソンの設計により建設。東西に細長い切妻造・平屋建で、外壁煉瓦造、内側は挟み組み式の小屋組を見せ、尖塔アーチの縦長窓や控壁にゴシック様式細部を備える。T字路の突き当たりに建ち、際だった景観を構成している。(文化庁データーベース参照)
9(2). 日本聖公会川越キリスト教会礼拝堂の石板の表札、キリスト教の煉瓦造教会の建築では煉瓦を縦積みで使用する例が多い。特に基礎部分には縦積みが見られる。
10. 旧武毛銀行本店(秩父市下吉田3871-1)・・・・ 1997年12月12日、登録有形文化財(建造物)に登録。1918(大正7)年竣工、煉瓦造2階建、瓦葺、建築面積148㎡。秩父から上毛地方の顧客を対象にした銀行の本店社屋として建築されたもの。正面及び側面の全面を白タイル貼りとし、寄棟造、瓦葺の屋根をかける。小規模な建物ながら全体的に質も高く、幾何学文様を主体とした意匠は、近代建築への移行を示す好例である。(文化庁データーベース参照)現在は、吉田町立歴史民俗資料館になっている。