産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

◎日本赤煉瓦建造物番付 埼玉県場所 令和二年一月

          《ベスト30》のうち11~20位

        勧進元東京産業考古学会 行司  八木司郎

    《順位》  《所在地》   《 名 称 》   

   前頭・・・・11.(深谷市)日本煉瓦製造株式会社専用線の鉄橋等

   前頭・・・・12.(本庄市)柴崎家店舗煉瓦造防火壁・煉瓦蔵・煉瓦塀など

   前頭・・・・13.(入間市)旧石川組製糸西洋館本館

   前頭・・・・14.(東松山市)(株)津乃国の店舗煉瓦造防火壁・煉瓦塀

   前頭・・・・15.(行田市)大澤家煉瓦足袋倉庫

   前頭・・・・16.(深谷市)尾高家の煉瓦蔵

   前頭・・・・17.(深谷市)滝沢酒造の丸形煉瓦煙突・煉瓦倉庫

   前頭・・・・18.(深谷市)東白菊酒造の煉瓦煙突・煉瓦造精米所

   前頭・・・・19.(岩槻市)東玉大正館(旧中井銀行岩槻支店)

   前頭・・・・20.(深谷市)塚本燃料店の店舗煉瓦造防火壁 

 

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11-1.日本煉瓦製造株式会社専用線の鉄橋等・・・・「備前渠用水のアーチ橋」(深谷市上敷免)・・・・備前渠鉄橋から約10m深谷駅寄りの用水路に架かる煉瓦造のアーチ橋である。長さ2m程度の小規模なものであるが、完全な(表面だけでなく構造の内部まで)煉瓦構造物と推定される貴重な遺構である。アーチ部は4枚巻。煉瓦を輸送する専用線のため堅牢に築いてある。

 

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11-2.日本煉瓦製造株式会社専用線の鉄橋等・・・・「避溢鉄橋」(深谷市明戸地先)・・・・洪水時、福川から溢れた水の逃げ場となる遊水地に架けられた鉄橋。1径間が約4.5mのボックスガーター橋の5連からなる。橋脚及び橋台は煉瓦造で築かれている。 

 

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11-3.日本煉瓦製造株式会社専用線の鉄橋等・・・・「福川鉄橋」(深谷市明戸地先)・・・・現存する日本最古のポーナル型のプレートガーター橋で、全長約10m。明治28年架設。昭和61年、連接する避溢鉄橋とともに深谷市文化財に指定された。 

 

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11-4.日本煉瓦製造株式会社専用線の鉄橋等・・・・「唐沢川鉄橋」(深谷市稲荷町地先)・・・・全長13.4mのポーナル型プレートガーター橋である。この橋桁は、すでに他の場所で使用されていたものを、移設または再構成して、現在の場所に架設されたものと考えられる。専用線深谷駅から上敷免工場の間に敷設された日本最初の民間企業専用の鉄道である。明治28年3月に着工し、同年7月に開業した。現在はレールは取り払われ遊歩道になっている。 

 

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12-1.柴崎家店舗煉瓦造防火壁・煉瓦蔵・煉瓦塀など(本庄市銀座3丁目)・・・・JR本庄駅近くにあり、明治・大正期から昭和初期まで肥料販売商で財をなした老舗であった。2階建の店舗・居住部分の両側面の壁は小口積みの煉瓦で一面が覆われている。防火の目的で建築され、関東地方では少ない大型の「うだつ」を備えている。台所・風呂場・便所など、ほぼすべての木造家屋の周りに赤煉瓦を積んでいる。かまど及び風呂場の焚口の排煙のため煉瓦造の煙突も建っている。 

 

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12-2.柴崎家店舗煉瓦造防火壁・煉瓦蔵・煉瓦塀など(本庄市銀座3丁目)・・・・屋敷の裏側(写真の右側)には大きな煉瓦蔵(L字形)が建っている。主屋の裏に小型の煉瓦造煙突が見える。店舗の右側は木造の塀であるが、それ以外の外周はすべて煉瓦塀で造られている。 

 

 

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13.旧石川組製糸西洋館本館(入間市河原町13-13)・・・・石川組製糸がアメリカの貿易商をもてなすため、設計を室岡惣七として建設した迎賓施設。木造2階建で、内部は各室毎に変化を持たせ、天井から造作まで丁寧なつくりになる。セピア色の化粧煉瓦張りとした端正な外観は、当地域の近代の景観を今に伝えている。1921(大正10)年竣工。建築面積301㎡。(文化庁データーベース参照) 

 

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14-1.  (株)津乃国の店舗煉瓦造防火壁・煉瓦塀(東松山市材木町)・・・・「旧埼玉銀行東松山支店(東松山市文書庫)」を探訪のため東武東上線東松山に行った。目的の場所に行ったが、銀行らしき建物は見つからず、大きな土蔵があり、その高い基礎部分が煉瓦造であった。その土蔵を東松山市は文書庫として使用しているようであった。帰路偶然に、見事な「(株)津乃国 」の煉瓦造に出会った。昔の家業(事業)は知らないが、道路に面した2階建の店舗及び家屋を火災から防ぐため煉瓦造の防火壁を建物の両側面全体に積んであった。正面の右側は煉瓦壁を道路まで張り出して、煉瓦壁を垂直に積み、2階の屋根の中間まで立ち上げ、うだつの構造を設けていた。小口積み。

 

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14-2.(株)建の国の店舗煉瓦造防火壁・煉瓦塀(東松山市材木町)・・・・店舗の左側面は道路になっており、2階建ての店舗及び家屋の部分だけ火災から守るように防火壁が造られていた。道路の反対側には密集した家屋などは無く、類焼する恐れが少ないため低い煉瓦塀を屋敷の奥まで建設したようである。  

 

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 15.大澤家煉瓦足袋倉庫(行田市行田290-1)・・・・中心市街地の通りに面して建つ。東西棟の切妻造桟瓦葺で、南面に出入口を設ける。建築面積42㎡の2階建。内部は漆喰仕上げで、トラス組とし、開口部には鉄扉を吊る。イギリス積の煉瓦造で、補強のための鉄筋コンクリートの水平ラインが印象的である。(文化庁データーベース参照)

 

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 16.尾高家の煉瓦蔵(深谷市下手計236)・・・・尾高惇忠(藍香)生家の主屋の裏に煉瓦造蔵がある。煉瓦の色合いは不揃いで上等品とはいえない。尾高惇忠は渋沢栄一と従兄の関係にあり、10歳年上の論語の師である。雅号を藍香といい、維新後、官営富岡製糸場の初代場長を務めた。栄一の妻千代は淳忠の妹である。蔵の竣工は1898(明治31)年と伝えられている。1階と2階の間にある下屋部分の異形煉瓦の端末(見える部分)に「七二」「四八」など意味不明の数字が刻まれている。刻印のある異形煉瓦は蔵の全周(同じ段)に積んである。日本煉瓦製造株式会社製の煉瓦と見られるが上敷免製の刻印は発見できなかった。

 

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 17-1.滝沢家の丸形煉瓦煙突・煉瓦倉庫(深谷市田所町9-20)・・・・「丸形煉瓦煙突」・・・・1863(文久3)年に比企郡小川町から移住し、酒造を操業。当初は母屋と本倉だけであったが、必要な施設を次々に煉瓦で建てたという。特に目立つのが丸形の煉瓦造大煙突である。1931(昭和6)年の地震で先端部分が崩れたものの、現在でも深谷市街を代表する建造物の一つとなっている。この種の丸形煉瓦煙突は関東地方では唯一原型に近い構造を保っている煙突である。(群馬県安中市の有田屋の丸形煉瓦煙突は先端部が4~5m崩れている)

 

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 17-2.滝沢酒造の丸形煉瓦煙突・煉瓦倉庫(深谷市田所町9-20)・・・・「煉瓦倉庫」・・・・滝沢酒造の裏手に煉瓦造倉庫がある。長さ約30m、横約4mの煉瓦壁で小口積み、軒蛇腹は4段重ね。所々にアーチ付の小窓があったが、今は閉塞してある。アーチは小規模であるがフラットアーチ形である。

 

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 18-1.東白菊酒造の煉瓦煙突・煉瓦米蔵深谷市仲町4-10)・・・・「煉瓦煙突」・・・・以前は米蒸釜と煙突が連なっていたが、新しいボイラーを使用するようになってから煙突は不用になった。酒造業のシンボルとして残し「東白菊」の文字を大書し広告塔の役目を果たしている。煉瓦煙突はイギリス積みで地上と接する部分は、正4角形で一辺に煉瓦長手7枚半を積んでいる。地震等による破損防止のため、鉄のアングルで頑丈に補強してある。

 

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 18-2.東白菊酒造の煉瓦煙突・煉瓦造精米所(深谷市仲町4-10)・・・・「煉瓦造精米所」・・・・明治末期から大正初期に建てられた米蔵や精米所は土蔵造りの技術を応用して建てられているという。現在も、ここで酒造りをして「東白菊」銘の日本酒を生産している。20年前見学した時は、大きさ直径約2.7m(1間半)の大井戸があった。ご主人の話しでは井戸の中まで、すべて煉瓦造りであるという。

 

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 19.東玉大正館(旧中井銀行岩槻支店)(さいたま市岩槻区本町3-2439-9)・・・・東武野田線岩槻駅に近く、通りの北側に建つ煉瓦造2階建で、寄棟造桟瓦葺屋根とする。正面を3分割し、上部を半円アーチ型で飾る入口を中央に開き、2階は左右の対称位置に上げ下げ窓を開ける。腰壁を石貼りとし、その上を煉瓦タイルとモルタルで仕上げる。大正期の地方銀行の好例。建築面積130㎡。年代は大正後期、平成18年改修。(文化庁データーベース参照)

 

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 20.塚本燃料店の店舗煉瓦造防火壁(深谷市本住町1-5)・・・・大正時代初期の建物。道路に面した2階建の店舗及び居住用の家屋であり、鄰家と接する両壁の部分がすべて煉瓦で造られている。主屋の壁がそのまま道路の方へ張り出し、側面から見れば1階の下屋が隠れる位置まで煉瓦の塀が延びている。煉瓦の塀は、そのまま垂直に積み上げうだつの形でまとめている。壁は煉瓦長手1枚半の厚さで、イギリス積み。軒下蛇腹は主屋・うだつとも5段重ねであり建物全体の重厚さを表わしている。

この家を建てた当時は、日本煉瓦製造株式会社に燃料の石炭を納めていたという由緒ある商家である。この種の煉瓦造建物は、深谷市街で唯一のものである。店の床も煉瓦敷という。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◎日本赤煉瓦建造物番付 埼玉県場所 令和二年一月

           《ベスト30》のうち21~30位

         勧進元東京産業考古学会 行司 八木司郎

    《順位》《所在地》 《 名 称 》

    前頭・・・・21.  (深谷市)常盤園の煉瓦倉庫

    前頭・・・・22. ( 大宮市)JR東日本大宮工場煉瓦倉庫

    前頭・・・・23. ( 深谷市)旧七つ桜酒造の煉瓦煙突・煉瓦蔵

    前頭・・・・24. ( 深谷市)小林商店の煉瓦倉庫

    前頭・・・・25. ( 深谷市)旧岡部農業協同組合

    前頭・・・・26. ( 川越市)山崎家の煉瓦造通用門・煉瓦塀

    前頭・・・・27. ( 深谷市)旧福島屋商店の煉瓦倉庫・煉瓦工場

    前頭・・・・28. ( 深谷市)石川医院裏の煉瓦蔵・煉瓦塀

    前頭・・・・29. ( 深谷市)水かけ地蔵尊の煉瓦塀

    前頭・・・・30. ( ふじみ野市)苗間神明神社の煉瓦造常夜灯

 

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 21. 常盤園の煉瓦倉庫(深谷市仲町1-5)・・・・明治10年代建設の倉庫で、明治時代末期から大正時代初期にかけて、土蔵の外壁に煉瓦を張り付けたもの、古い建物を当時の新しい材料である煉瓦でリフォームしたものであろう。元々土蔵であったことを思わせる特大の鬼瓦が注目される。軒下蛇腹は5段重ねで建物の重厚さを見せている。上部壁面は総て小口積みであるが、下部壁面は2級品の煉瓦をイギリス積にしている。恐らく隣の建物で隠れる部分であったと見られる。昭和6年、震災対策のため外側に鉄枠を設置したという。

 

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22. JR東日本大宮工場煉瓦倉庫(大宮市錦町630)・・・・大宮工場は1894(明治27)年12月10日に日本鉄道株式会社汽車課として発足した。1896(明治29)年に大宮工場と改められた。工場の建設は、木工所を除いてすべて赤煉瓦が建材として使用された。しかし、関東大震災で倒壊したり亀裂が入ったりした建物は解体されたが、1897(明治30)年に年燃料倉庫として建てられた煉瓦造の一棟(写真)だけが残った。

 

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23-1. 旧七つ桜酒造の煉瓦煙突(深谷市深谷町9-12)・・・・酒造業/田中藤左衛門商店の煉瓦造煙突(写真)。分類では「装飾蛇腹4角煉瓦煙突」であろう、頂部の蛇腹部に三角形の角が突出しているように煉瓦を積んだ部分と煉瓦を立に積んでいる部分が確認できる。

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23-2.  旧七つ桜酒造の煉瓦蔵(深谷市深谷町9-12)・・・・酒造業/田中藤左衛門商店の精米所として使用していた煉瓦蔵。現在は酒造業は廃業している。町おこしの有志が管理して、各種のイベントを開いている。古い映画を上映している映画館があったり、古本屋・古道具屋などもあった。

 

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 24. 小林商店の煉瓦倉庫(深谷市西島4丁目3-50)・・・・小林商店は1894(明治27)年創業の砂糖商。煉瓦倉庫の内部の棟木に「大正元年上棟(中略)煉瓦職萩原悠次郎」と墨で書かれているという。建てられた年代と職人の氏名が判る貴重な建物の一つである。

煉瓦造倉庫はすべて小口積である。右隣りの3階建の洋風の建物が小林商店の店舗と主屋である。当時は羽振りがいい砂糖商であったと見られる。

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25. 旧岡部農業協同組合深谷市岡部町普済寺1126-2)・・・・元岡部村役場、1915(大正4)年竣工。側面のガラス窓などは割れ、かなり傷んでいる。

 

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26. 山崎家の煉瓦造通用門・煉瓦塀(川越市仲町2-6)・・・・川越市内の商店街の中心地にある商家のアーチ形の通用門で良質の煉瓦を丁寧に積んである。右側奥に向かって高い煉瓦塀が連なっている。

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27. 旧福島屋商店の煉瓦倉庫・煉瓦工場(深谷市深谷町10-26)・・・・1921(大正10)年頃の建物で、元々コンニャクの原料倉庫兼製造工場であったという。右端の日本瓦の家が道路に面した店舗・主屋。次のガラス窓の建物の反対側は煉瓦造の壁になっており、屋根には小さな煙突が残っている。手前の煉瓦造の建物は、深谷市内では珍しい長手積である。建物の中心より左側に原料のコンニャク玉を搬入するための出入口がある。

 

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28. 石川医院裏の煉瓦蔵・煉瓦塀(深谷市西島4丁目)・・・・石川医院(耳鼻科)裏の奥に写真のような2階建の煉瓦蔵と煉瓦塀があった。小林商店から見える位置である。以前は建物で囲まれていたので発見できなかった。今回、手前が空地になり駐車場になっていたので見ることができた。二五分(1/4)の煉瓦を使用した「純粋のイギリス積」の建物である。

 

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29. 水かけ地蔵尊の煉瓦塀(深谷市深谷町12)・・・・水かけ地蔵尊大円寺)の外塀は、長さ40mぐらいの小口積の煉瓦塀がある。小口の面に「七五」と読める太い刻印が多数見られる。さらに㋑のように、直径10mmの 〇 のなかにカタカナが入っている刻印も多く見られた。これと同じ刻印が群馬県中之条町光山商事煉瓦造2連棟倉庫の腰部にも使用されていた。

 

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30. 苗間神明神社の煉瓦造常夜灯(ふじみ野市苗間372-1)・・・・苗間神明神社境内の社殿脇に煉瓦造常夜灯が建っている。この常夜灯は、旧大井村初代村長の神木三郎兵衛が献灯したと思われている。建立年は不明であるが、明治20年代中ごろの様式を持つ埼玉県内で最も古いタイプの煉瓦建造物といわれている。この種の灯明台は、①茨城県石岡市常陸国総社宮の煉瓦造高燈籠 ②愛媛県今治市波方町の玉生八幡神社の灯明台 ③苗間神明神社の常夜灯の三基が煉瓦造の灯明台として全国で確認されている。

 ◎日本赤煉瓦建造物番付 群馬県場所 令和元年十月

                      《ベスト30》のうち  1~10位

          勧進元 東京産業考古学会 八木司郎

 《順位》 《所在地》  《 名 称 》         《備考》

横綱・・・・1.(富岡市)旧富岡製糸場・・・・・・・・・・・・・・・国宝3棟・重文6棟・総覧・赤煉

横綱・・・・2.  (安中市)旧碓氷峠鉄道施設群・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

             重文(橋梁5基・隧道10基・建物2棟)・総覧・赤煉・赤土・土木

大関・・・・3.(高崎市)旧新町紡績所(クラシェフーズ新町)・・・重文3棟・総覧・赤煉

関脇・・・・4.(前橋市)前橋刑務所煉瓦壁・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

小結・・・・5.(前橋市)旧安田銀行担保倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧

前頭・・・・6.(前橋市)上毛倉庫(株)2号倉庫・3号倉庫・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・7.(伊勢崎市)伊勢崎市境赤レンガ倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧・自指

前頭・・・・8.(館林市他)渡良瀬川橋梁と東武鉄道煉瓦造橋梁・・・・・・・総覧・土木

前頭・・・・9.(桐生市)旧(株)金芳織物工場鋸屋根工場・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧・赤煉

前頭・・・・10.(桐生市)旧矢野蔵群(有隣館、仕込蔵、煉瓦塀)・・・・総覧・赤煉・自指

 

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1-1.旧富岡製糸場・・・・国宝「繰糸所」。1872(明治5)年竣工、木骨煉瓦造、建築面積1,726.92㎡、東面玄関附属、桟瓦葺。旧富岡製糸場は、明治政府が設立した模範的な器械製糸工場である。フランス人の生糸検査人ブリュナの企画指導のもと、横須賀造船所の技師バスティアンが図面を作成し、施工は日本人があたり、明治5年10月4日に操業を開始した。繰糸所は敷地の中心に位置する繰糸を行う建物で、桁行が140mと長大である。キングポストトラスの小屋組や高い天井、鉄製ガラス窓で明るい大空間を実現している。(文化庁データベース参照)煉瓦はフランス積。

 

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1-2.旧富岡製糸場・・・・国宝「東置繭所」。1872(明治5)年竣工。木骨煉瓦造、建築面積1,486.60㎡、2階建、北面庇・北西面・西面及び南面ヴェランダ付、桟瓦葺。東西の置繭所は、繰糸所と直交方向に建つ桁行104m、2階建、ほぼ同形の建物である。眉を乾燥、貯蔵し、乾燥のために多数の窓を持つ、東置繭所は入口正面の建物でアーチの要石に「明治五年」の銘を刻む。旧富岡製糸場は、明治政府が推進した産業近代化の施策を端的に物語る官営の器械製糸工場で、繰糸所と東西の置繭所は我が国の製糸工場建築の模範となった。(文化庁データベース参照)煉瓦はフランス積。

 

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1-3.旧富岡製糸場・・・・国宝「西置繭所」。竣工・構造及び形式等は東置繭所とほぼ同じ。写真は西置繭所の裏側の道路から撮影したもの。この方向から見る人は少ない。右側の建物は繰糸所の一番奥の部分である。煉瓦はフランス積。

 

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1-4.旧富岡製糸所・・・・重要文化財「首長館」(通称:ブリューナ館)。木骨煉瓦造、建築面積917.03㎡、地下室及び四面ヴェランダ付、北面玄関及び廊下・東面教室及び便所附属、桟瓦葺(文化庁データベース参照)

 外に煉瓦造の重要文化財として「女工館」「検査人館」「蒸気釜所」「下水とう及び外とう」がある。

 

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2-1.旧碓氷峠鉄道施設群・・・・重要文化財「第三橋梁」(通称:めがね橋)。1893(明治26)年竣工、煉瓦造四連アーチ橋、橋長91.1m。松井田と軽井沢の間にある旧信越本線の鉄道施設。煉瓦造の橋梁7基、隧道11基、変電所3棟等からなる。橋梁・隧道は明治26年鉄道開通時(橋梁は明治29年に補強)、線路には峠越えの急勾配を克服するアプト式が用いられていた。(文化庁データベース参照)他に、重要文化財として「第二橋梁」「第四橋梁」第五橋梁」「第六橋梁」がある。

 

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2-2.旧碓氷峠鉄道施設群・・・・写真は重要文化財「第六隧道」入口。1893(明治26)年竣工、煉瓦造隧道、延長546.2m、甲横坑及び乙横坑付。現在、重要文化財に指定されている隧道は「第一隧道」「第二隧道」「第三隧道」「第四隧道」「第五隧道」「第六隧道」「第七隧道」「第八隧道」「第九隧道」「第十隧道」がある。第一隧道から第十隧道まで遊歩道として開放されている。

 

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2-3.旧碓氷峠鉄道施設群・・・・写真は重要文化財「丸山変電所機械室」。1911(明治44)年竣工。煉瓦造、建築面積354.75㎡、桟瓦葺一部鉄板葺、南面階段附属(文化庁データベース参照) 機械室には変圧機と回転変流機、昇圧機が設置されていた。横川発電所から特別高圧送電線により三相交流25ヘルツ、6,600ボルトで送られてきた電機は、変圧機によって電圧を変え、回転変流機により交流から直流に変えられた。そして、直流650ボルトで第三軌条(サードレール)に送電され、電気機関車を動かしていた。(旧碓氷峠鉄道施設ガイドブック参照)

 

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2-4.旧碓氷峠鉄道施設群・・・・写真は重要文化財「丸山変電所蓄電池室」。1911(明治44)年竣工、煉瓦造、建築面積430.77㎡、桟瓦葺一部鉄板葺、背面小屋附属、鉄骨鉄筋コンクリート造、建築面積34.63㎡。(文化庁データベース参照)

 蓄電池室には1列52個が6列、計312個の鉛蓄電池が並べられ、横川火力発電所から供給された電気を蓄えて、EC40形電気機関車に供給していた。その後、新型電気機関車の導入により大量の蓄電池は不用になり、1928’(昭和3)年頃から「機械室」として使用された。(旧碓氷峠鉄道施設ガイドブック参照)

 

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3-1.旧新町紡績所(クラシェフーズ新町)・・・・写真は重要文化財「旧新町紡績所 倉庫」。1897(明治30)年頃竣工、煉瓦造、建築面積293.66㎡、桟瓦葺1棟。旧新町紡績所は富岡製糸場から5年後の明治10年に明治政府が設立した絹糸紡績工場である。佐々木長淳を総括とし、ドイツ人の指導を受けながら大工の山添喜三郎ら日本人の手で建設された。明治42年まで操業を続け、その間工場の増築や建物の新築が図られてきた。工場本館のコの字形切妻造屋根部は官営期工場で、独特なトラスなどに洋風建築の技術と日本在来の技術の併用が見られる。鋸屋根の増築部、煉瓦造の機関室や倉庫は、明治期の紡績工場の発展形態を示している。(文化庁データベース参照)

 

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3-2.旧新町紡績所(クラシェフーズ新町)・・・・写真は重要文化財「旧新町紡績所 機関室」1898(明治31)年竣工、煉瓦造、建築面積414.21㎡、一部地下一階、鉄板葺、北面倉庫附属、木造、建築面積70.59㎡、桟瓦葺。(文化庁データベース参照)

他に、重要文化財「二階家煉瓦庫」がある。

 

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4-1.前橋刑務所煉瓦壁・・・・写真は「前橋刑務所正門」。1888(明治21)年「前橋監獄」が竣工。1922(大正11)年「前橋刑務所」の名称になった。周囲約1kmの及ぶ煉瓦造の高い壁。赤煉瓦総数は約170万個。(随筆:出典失念)

 

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4-2.前橋刑務所煉瓦壁・・・・写真は「前橋刑務所 煉瓦壁」。壁を支える補強のための柱は177ヵ所。刑務所の隣接地には家が並び、掘割に沿う道路は散歩道になっている。

(随筆:出典失念)

 

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5-1.旧安田銀行担保倉庫(協同組合前橋商品市場倉庫)・・・・登録有形文化財(建造物)。1913(大正2)年竣工、煉瓦造2階建、瓦葺、建築面積693㎡。群馬商業銀行附属前橋倉庫として建設。主として生糸等の担保用倉庫で、桁行30間 梁間6間規模、切妻造、桟瓦葺の煉瓦造2階建、煉瓦は日本煉瓦製造製、イギリス積、階下2枚・階上1枚半積で木造床、小屋組は木造のキングポストトラスである。(文化庁データベース参照)

 

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5-2.旧安田銀行担保倉庫(協同組合前橋商品市場倉庫)・・・・写真は旧安田銀行担保倉庫の北西面側を撮影したもの。当初は南側にもう一棟、同様の倉庫があったが1945(昭和20)の前橋空襲で焼け落ちたという。(パンフレット参照)

 

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6-1.上毛倉庫(株)・・・・写真は「道路側から見た2号倉庫」。矢印の銘板に「上毛倉庫株式会社 田中町レンガ倉庫 1896年竣工 前橋が「糸のまち」として栄えていた明治中期、繭・生糸の保管の必要性から、当時の群馬県知事や日本銀行の後援のもと、江原芳平を中心とした第三十九国立銀行(現・群馬銀行)の役員らを発起人として、明治28年(1895)12月6日上毛倉庫株式会社が設立されました。翌1896年前橋駅前の田中町(現・表町)に、2階建て瓦葺レンガ造の倉庫3棟(床面積295坪)が建てられ業務を開始しました。このレンガは、東京駅舎と同じく、深谷市の日本煉瓦製造株式会社で作られたものです。前橋空襲では屋根が焼け落ちたものの、戦後にすぐに復旧しました。その後、昭和25年の戦災復興区画整理の道路拡幅の為、けやき通り側の1棟が解体されました。残された2棟のレンガ倉庫の保管品は、乾繭・生糸・食料品・家具・家電製品・新聞用紙・段ボール原紙等、時代と共に移り変わり、倉庫としての使命を果たし続けながら、現在に至っております。平成27年12月 創立120周年記念事業により設置 上毛倉庫株式会社 代表取締役社長 江原友樹」と記されていた。(説明板参照)

 

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6-2.上毛倉庫(株)3号倉庫・・・・前橋駅側から見て正面奥に見えるのが「3号倉庫」

 

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7-1.伊勢崎市境赤レンガ倉庫・・・・建築年:1919(大正8)年、用途:当初 繭保管庫・生繭乾燥場、建築主:境運輸倉庫株式会社(当時)、建物構造:レンガ造(イギリス積)、建築面積:355.19㎡。境赤レンガ倉庫は、大正8年に繭の保管庫として建築され、平成12年に旧境町が取得。平成23年東日本大震災により、屋根の葺き替え工事を実施。平成26年に活用計画作成後、赤レンガ倉庫活用検討会議を開始。地元の代表者の方々の声を活かしながら、平成28年12月工事開始、平成29年11月完成。(伊勢崎市境赤レンガ倉庫パンフレット参照)

 

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7-2.伊勢崎市赤レンガ倉庫・・・・正面右斜めから見た旧境運輸倉庫赤レンガ倉庫

建物はレンガ造2階建、長さ20間(36.4m)× 幅5間(9.1m)× 高さ9.6m。レンガ壁はイギリス積み、繭の輸送には東武伊勢崎線 1910(明治43)開通が利用され、富岡製糸場にも運ばれたそうです。かって蚕種・養蚕・製糸・織物などの絹産業で栄えた境地区の歴史を今に伝える貴重な近代化資産である。(パンフレット「境まちなか散策マップ 境遺産めぐり」参照)

 

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8.渡良瀬川橋梁と東武鉄道煉瓦造橋梁・・・・写真は東武佐野線渡良瀬川橋梁(館林市側)の煉瓦造橋脚。群馬県内の東武鉄道のうち煉瓦造橋脚と橋台のある橋梁16ヵ所を調査した小野田滋によれば、渡良瀬川橋梁が最長で396.0mの橋梁である。2基の橋台及び16基中12基の橋脚は煉瓦造りである。特に橋脚には錫飾りが付いている。流水部分はコンクリート製になっている。(土木学会 関東支部ホームページ参照)

 

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 9-1.旧(株)金芳織物工場鋸屋根工場(ベーカリーカフェ・レンガ)・・・・1919(大正8)年竣工、煉瓦造平屋建、鉄板葺、建築面積298㎡。大正8年12月14日上棟の織物工場。施工は高崎市の島田組。外周壁を煉瓦造とし、木造で「鋸刃」状の屋根を架けた標準的な工場建築の造りを示す。京都西陣と並ぶ高級織物産地として知られる桐生の繁栄ぶりを今に伝えていることで貴重である。(文化庁データベース参照)

 以前は金井レース工業と称していた。

 

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9-2.旧(株)金芳織物工場鋸屋根工場(ベーカリーカフェ・レンガ)・・・・写真は2014.3.21撮影であるが、すでにパン屋になっていた。かなり繁盛していた。

 

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10-1.旧矢野蔵群(煉瓦造有鄰館)・・・・桐生市指定重要文化財 旧矢野蔵群(有鄰館)は、1717(享保2)年に現在の株式会社矢野の創業者である近江商人の初代 矢野久左衛門が桐生に移住し、二代目久左衛門が1749(寛延2)年に現在地で店舗を構えて以来、桐生の商業に大きく貢献してきた矢野本店の蔵群の総称である。この蔵群は酒・醤油・などの醸造業が営まれていた頃の建物で、江戸時代から大正時代に建築された蔵9棟と祠社2棟が桐生市指定重要文化財になっている。他に、煉瓦造仕込蔵(現レストハウス)、長い煉瓦塀がある。(有鄰館案内板参照)

 

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10-2.旧矢野商店蔵群(煉瓦造有鄰館)・・・・煉瓦造の腰部分の水切り煉瓦には「逆さ梅にタ」の刻印が並んでいる。この煉瓦の製造所は東京都北区堀船の田中煉瓦工場である。田中煉瓦工場は関東大震災で煉瓦焼成窯が損傷したので煉瓦製造は休止したが、経験を活かし煉瓦販売業に転換していた。煉瓦工場の跡地は現在も存在し、屋敷内に同じ焼き過ぎ煉瓦が多数残っている。

 ◎日本赤煉瓦建造物番付 群馬県場所 令和元年十月

          《ベスト30》のうち 11~20位

       勧進元  東京産業考古学会  行司  八木司郎

  《順位》  《所在地》    《 名 称 》         《備考》

前頭・・・・11.(桐生市みどり市)わたらせ渓谷鐡道トンネル群・・・・・・・登録・総覧

前頭・・・・12.(下仁田町下仁田煉瓦造倉庫2棟・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・13.(中之条町)光山商事 煉瓦造2連棟倉庫・5号倉庫・・・・・・・・総覧

前頭・・・・14.(富岡市)富岡倉庫 煉瓦造1号倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・15.(甘楽町甘楽町歴史民俗資料館

            (旧甘楽社小幡組煉瓦造倉庫)・・・・・・・・・・・・総覧・自指            

前頭・・・・16.(富岡市)小間金属工業倉庫

            (旧上高瀬製糸組合煉瓦造倉庫)・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・17.(前橋市)旧大竹酒造煉瓦蔵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧

前頭・・・・18.(富岡市)旧上丹生製糸組合煉瓦造倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・19.(前橋市)旧勝山社煉瓦蔵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧

前頭・・・・20.(前橋市)旧奈良製糸煉瓦造倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

 

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11-1.わたらせ渓谷鐡道坂下トンネル・・・・(写真:2019.9.30撮影)

江戸川橋梁より約1800m南西に位置する。延長82m。単線仕様の直線状の隧道。坑口は煉瓦4枚厚の馬蹄形とし、南坑門をほぼフランス積風の布積で築く。官鉄によるわが国初のトンネル規格である「鉄作乙第4375号型」とほぼ同じ断面をとる。(文化庁データベース参照)

 

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11-2.わたらせ渓谷鐡道第二神梅トンネル・・・・(写真:2019.9.30撮影)

第三神梅トンネルより約90m南東に位置する。延長27m。単線仕様の直線状の隧道で、覆工は全体を煉瓦積で築く。坑口は煉瓦4枚厚で江戸切仕上げの要石を用い、坑門は南北で積み方の異なる石積とする。北側には延長7.7mの谷積擁壁を連続的に築く。(文化庁データベース参照)

 

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12-1.下仁田煉瓦造倉庫 2棟・・・・(写真:2012.9.5撮影)

上信電鉄下仁田駅前に位置する煉瓦造 2棟のうち、左側の倉庫。出入口2カ所、2階の観音開きの鉄の扉は4カ所。右奥に見えるのは規模が小さい煉瓦造倉庫。

 

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12-2.下仁田煉瓦造倉庫2棟・・・・(撮影日:12-1と同じ)

上信電鉄下仁田駅前に位置する2棟の煉瓦造倉庫。裏側から撮影した写真。手前の倉庫は規模が小さい。

 

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13-1.光山商事 煉瓦造2連棟倉庫・・・・(写真:2019.9.27撮影)

中之町伊勢崎942に建つ、光山商事の煉瓦造2連棟倉庫。腰から下は小口積、外壁はイギリス積。腰から下の小口面に、太字縦書きの「七五」の刻印、〇の中にサ・タ・カ・・・などの刻印が多く見つかる。上敷免製の刻印もあった。

 

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13-2.光山商事 5号倉庫・・・・(撮影日:13-1と同じ) 写真の左側が道側。5号倉庫の手前の広場から右奥に進むと2連棟の倉庫(13-1)が建っている。5号倉庫からも上敷免製の刻印があった。

 

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14-1.富岡倉庫煉瓦造1号倉庫・・・・(写真:2014.11.8撮影)

上信電鉄富岡駅近くに建つている2階建の煉瓦造倉庫である。正面に車回しのロータリーに樹木が繁り、正面からの撮影はできなかった。

 

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14-2.富岡倉庫煉瓦造1号倉庫・・・・1号倉庫の裏側(撮影日:14-1と同じ)

写真(14-1)の1号倉庫裏側を撮影したもの。正面側には出入口が5~6ヵ所あったが、裏側の開口部は少ない建物になっている。

 

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15-1.甘楽町歴史民俗資料館(旧甘楽社小幡煉瓦造倉庫)・・・・(写真:2012.9.5撮影)

「この建物は、1926(大正15)年1月、製糸工場甘楽社小幡組の繭倉庫として建設された。戦時下の1943(昭和18)年製糸工場が閉鎖されたため、小幡町農業会に移管され、次いで甘楽町農業協同組合が引き継いで、農産物・肥料等の倉庫として使用していた。1984(昭和59)年2月、町がこれを買い受け、文化庁の指導を受け資料館に転用のうえ保存するため、1985(昭和60)12月から改装に着手し、1987(昭和62)5月、甘楽町歴史民俗資料館として開館した。この地の養蚕最盛期を象徴する建物として、1986(昭和61)年町の重要文化財に指定された。煉瓦造2階建・瓦葺き・延床面積289㎡」(説明板参照)

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15-2.甘楽町歴史民俗資料館(旧甘楽社小幡組煉瓦造倉庫)・・・・甘楽町歴史民俗資料館の裏側(撮影日:15-1と同じ)新版日本近代建築総覧(1983年11月発行)によれば、設計者は「小林某」になっている。

 

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16-1.小間金属工業倉庫(旧上高瀬製糸組合煉瓦造倉庫)・・・・(写真:2012.9.5撮影)

富岡市上高瀬182に建っ。新版日本近代建築総覧(1983年11月発行)によれば、施工者は「吉沢某」としている。

 

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16-2.小間金属工業倉庫(旧上高瀬製糸組合煉瓦造倉庫)・・・・小間金属工業倉庫の裏側(撮影日:16-1と同じ)

 

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17-1.旧大竹酒造煉瓦蔵・・・・1919~1926(大正後期)竣工。煉瓦造2階建、瓦葺、建築面積236㎡。前橋の中心市街地(前橋市三河町一丁目28-23)に残る唯一の酒造蔵。1988(昭和8)年に大竹酒造が建物を取得し、1972(昭和47)年まで醸造を行なっていた。煉瓦造を主体とするが壁厚は一枚分で内部に柱を二列八本立て、和小屋を組む。外壁は軒蛇腹、破風や柱型の一部に焼き過ぎ煉瓦を配し、立体感を強調している。(文化庁データベース参照)(写真:2014.11.7撮影)

 

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17-2.旧大竹酒造煉瓦蔵・・・・正面 (撮影日:17-1と同じ)

 

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18-1.上丹生製糸組合煉瓦造倉庫・・・・富岡市上高瀬にある2階建、瓦葺き寄棟の煉瓦造倉庫。(写真:2012.9.5撮影)T字路の一角にあり、当時、未活用物件のようであった。正面中央の出入口はシャッターに改造されていた。

 

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18-2.上丹生製糸組合煉瓦造倉庫・・・・他の製糸組合の煉瓦造倉庫に比べ窓が多いように感じた。(撮影日:18-2と同じ)

 

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19-1.旧勝山社煉瓦蔵・・・・1902(明治35)年竣工。煉瓦造2階建、瓦葺、建築面積45㎡。前橋市本町2-3-8。桁行8.8m梁間5.1m妻入り煉瓦造2階建で、屋根は切妻造桟瓦葺である。外壁の煉瓦はイギリス積で、鉢巻や窓まわりに土蔵風の意匠を見せる。正面出入口は後世の改修。小屋組はキングポスト・トラスである。軒が高く重厚な外観を呈している。(文化庁データベース参照)(写真:2012.3.18撮影)

 

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19-2.旧勝山社煉瓦蔵・・・・側面を写す。煉瓦はすべて焼き過ぎ煉瓦を使用している。焼き過ぎ煉瓦は普通煉瓦の2倍弱くらい高価であるため、建築主は裕福な人物であったとみられる。(撮影日:19-1と同じ)

 

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20-1.旧奈良製糸煉瓦造倉庫・・・・(写真:2014.11.7撮影)現在、民間の人が居住しており、手前の瓦葺きの下屋は改修されたものと見られる。軒先の蛇腹には異形煉瓦を使用したり、2階の開閉扉下に石材を敷いたり、周りに要石のようなものを取り付けるなど、他の製糸保管倉庫には見られない外観を呈している。

 

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20-2.旧奈良製糸煉瓦造倉庫・・・・道路側から見た旧奈良製糸煉瓦造倉庫の裏側。切妻造りの2階建。妻面上部の三角部分中央に円形の明かり窓を設けている。この種の意匠の製作には優れた技術力を持った職人が施工したものと見られる。また、高い腰部には焼き過ぎ煉瓦を使用している。(撮影日:20-1と同じ)

 ◎日本赤煉瓦建造物番付 群馬県場所 令和元年十月

            《ベスト30》のうちの21~30位

         勧進元  東京産業考古学会  行司  八木司郎

《順位》  《所在地》    《 名 称 》         《備考》

前頭・・・・21.(高崎市上信電鉄 烏川橋梁の煉瓦造橋梁・橋台・・・・・・・・総覧

前頭・・・・22.(高崎市)吉田家(旧釜浅肥料店)煉瓦造倉庫・・・・・・・・・・総覧・自指

前頭・・・・23.(安中市)旧米庄商店 煉瓦造米保管倉庫・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・24.(伊勢崎市)旧時報鐘楼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧・赤煉・自指

前頭・・・・25.(高崎市)旧茂木銀行煉瓦塀 (現 山田文庫煉瓦塀)・・・・・総覧・自指

前頭・・・・26.(高崎市)美蜂酒類煉瓦造倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・27.(安中市)有田屋 煉瓦造煙突(丸形)・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・28.(高崎市)岡醤油醸造(株)煉瓦造煙突2基・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・29.(桐生市)旧桐生高等学校染織学校正門・・・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧

頭・・・・30.(桐生市)無鄰館煉瓦造塀一及び二・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧

 

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 21.上信電鉄 烏川橋梁の煉瓦造橋脚・橋台・・・・上信電鉄の前身上野鉄道(こうずけてつどう)は1897(明治30)年に軌道763mm・蒸気動力で営業を開始した。1924(大正13)年 軌道を1067mmにし電化を採用した。橋脚の写真を見ると、中央上部は幅が狭く軽便鉄道時代の跡が残っており、軌道を拡げた時、橋脚の上流、下流部分を拡張強化した跡が見られる。また、当初は9基の橋脚であったが、4基増設し13基の橋脚にした。今回、現地に行ったら流水部分の橋脚がコンクリート製になっており、煉瓦造橋脚5基と橋台2基が残っていた。(Wikipedia参照)

 

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22.吉田家(旧釜浅肥料店)煉瓦造倉庫・・・・吉田家は江戸期から昭和初期まで続いた肥料店の老舗である。木造の旧店舗や主屋、門、煉瓦倉庫などが商都高崎の歴史を今に伝えている。(高崎市ホームページ参照)煉瓦倉庫の出入口は3ヶ所あり、瓦葺寄棟の屋根のは3ヶ所換気用の出窓がある。恐らく倉庫内は3区画になっていると見られる。湿気防止のため外壁の腰の部分がかなり高く積まれてる。

 

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23.旧米庄商店 煉瓦造米保管倉庫・・・・城下町安中の中心地である3丁目にある。現在は休業しているパチンコ屋が広場の反対側にある、恐らくパチンコ屋を含めた土地が米庄商店の敷地であったと見られる。米保管用の煉瓦造倉庫の軒下蛇腹は5段積み。水平の蛇腹から妻面の軒下蛇腹に変わる部分の積み方に特徴がある。普通煉瓦を削り出し異形煉瓦に仕上げている点に煉瓦職人の高い技術力が見られる。

 

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24.旧時報鐘楼・・・・横浜で薬種商を営んでいた小林桂助(市内三光町出身)の寄付で1915(大正4)年に着工、翌年に竣工した。江戸時代から親しまれていた中台寺の釣鐘を塔部に移して市民に時を告げていた。釣鐘は戦時中に金属回収で供出され、塔屋部は戦災で焼失した。市政施行50周年を記念して、創建当時のドーム状の姿に復元し、保存されることになった。(説明板参照) 建築総覧などでは、木骨煉瓦造となっていたが、近代化遺産総合調査で「鉄筋コンクリート造」にされた。現地の説明板には「鉄筋コンクリート煉瓦張り」なっているが、本物の煉瓦を多用しているので「鉄筋コンクリート煉瓦造」とすべきであると考えている。

 

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25.旧茂木銀行煉瓦塀(現山田文庫煉瓦塀)・・明治・大正・昭和と高崎の産業界で中心的な役割を担った山田昌吉、山田勝次郎らの居宅でしたが、1974(昭和49)年に勝次郎が創設した(財)山田文庫の図書館として、現在一般に公開されている。屋敷蔵、土蔵2棟、明治16年に移築した茶室、九蔵町の茂木銀行から移築されたと伝えられる煉瓦塀などが近代商都高崎の歴史を物語っている。煉瓦塀は高崎市内で現存する最古の煉瓦塀といわれている。1998(平成10)年「たかさき都市景観賞」を受賞している。(説明板参照)

 

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26.美蜂酒類煉瓦造倉庫・・・・戦時中の酒不足に対応するため、群馬県内の甘藷等により焼酎や合成酒の製造からスタートし、戦後、幾多の困難を乗り越えて、現在は甲類焼酎を始めとした酒類全般の製造販売までを行うアルコール総合メーカーになっている。

煉瓦造は外壁は長手積(半枚)であるが、開口部は厚く見えるので内側に漆喰壁かコンクリート壁が張ってあると見られる。(会社のホームページ参照)

 

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27.有田屋 煉瓦造煙突(丸形)・・・・安中藩の御用商人として有田屋は1832(天保3)年より190年近く、味噌、醤油の製造を続けている老舗である。有田屋の一族は、本業の醸造業だけでなく、明治、大正、昭和の三代に亘って日本の教育、社会、文化に貢献した多数の人物を輩出したことでも知られている。三代目治郎は新島襄に師事しキリスト教の洗礼をうけ、安中教会の建設や新島なき後の同志社英学校の運営に尽くし新島襄・八重との交流も知られている。(有田屋のパンフレット参照)煙突の煉瓦はすべて小口積みであり、先端は損壊しているが、古い写真を見るとかなり高く90尺煙突と見られる。高さ2mぐらいのところに蛇腹と模様が描かれていた。(有田屋のパンレット参照)

 

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28.岡醤油醸造(株)煉瓦造煙突2基・・・・1787(天保7)年 近江商人 初代 岡忠兵衛が足尾銅山から江戸へ銅を運ぶ街道の要衝として栄えた群馬県大間々の地に「河内屋」の屋号を掲げ、醤油醸造業を営んだのがはじまりである。1897(明治30)年 四代目宗一郎が高崎市常盤町の旧中山道沿いに支店を開設したのが現在地である。合理化のため醤油の醸造は大間々を行なっており、高崎では醤油と関連商品を販売しているという。(会社のホームページ参照)

 

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29.旧桐生高等染織学校正門・・・・1916(大正5)年竣工。煉瓦造、鉄製門扉附属、高さ3.7m、幅16.8m。旧桐生高等染織学校創立時の正門。本館の移設に応じて、本館玄関前の現位置に移設保存された。煉瓦造の門柱上部四面にゴシック風のポーチコを付けて頂部に門灯を掲げる。東京大学本郷キャンパスの煉瓦塀に似た門として知られる。(文化庁データベース参照)

 

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30-1.無鄰館煉塀一(旧北川織物工場女工宿舎煉瓦造外壁)・・・・1916(大正5)年頃建築。煉瓦造、延長18m。敷地北側境界に沿って建つ高さ6.2m、延長18.3mの煉瓦塀。防火を目的に、工場女工宿舎の北側外壁として建てられた。煉瓦をイギリス積で積上げ、現在は鉄骨で補強する。工場主屋の鋸屋根と共に地域の歴史的景観を特徴づける。(文化庁データベース参照)

 

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30-2.無鄰館煉瓦塀二(旧北川織物工場煉瓦塀)・・・・1916(大正5)年頃建築。煉瓦造、総延長33m。女工宿舎煉瓦造外壁の両端から敷地北西隅及び北東隅まで延びる煉瓦造。高さ2.4mで、東側延長14.0m、西側延長19.2mになる。煉瓦の寸法ならびに積方は女工宿舎煉瓦外壁と同じイギリス積で、一連の景観を形成する。(文化庁データベース参照)

 

《備考》 (略字)

国宝・・・・国宝に指定されているもの

重文・・・・国指定重要文化財に指定されているもの

登録・・・・登録有形文化財(建造物)に登録されているもの

総覧・・・・群馬県近代化遺産総覧(平成3年度)に記載されているもの

赤煉・・・・日本赤煉瓦建築番付に記載されているもの

赤土・・・・日本赤煉瓦土木番付に記載されているもの

土木・・・・日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2000に載っているもの

自指・・・・市(町)指定文化財に指定されているもの

無・・・・・・無指定のもの

 ◎日本赤煉瓦建築物番付 栃木県場所 令和元年九月

           《ベスト30》のうち1~10位

         勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

 《順位》《所在地》 《 名 称 》            《備考》

横綱・・・・1.(野木町)旧下野煉化製造会社煉瓦窯・・・・・・・・・・・・・・・・重文・調査・赤煉

横綱・・・・2.(高根沢町宇都宮市)鬼怒川橋梁

     (JR東北本線宝積寺駅・岡本駅間上り線)・・・・・・・・・・・調査・土木

大関・・・・3.(佐野市群馬県館林市渡良瀬川橋梁 (田島駅渡瀬駅間)

         と東武佐野線の煉瓦造橋梁群・・・・・・・・・・・・・・・・調査

関脇・・・・4.(大田原市矢板市)箒川橋梁(野崎駅・矢板駅間)と

         JR東北本線の煉瓦造橋梁群・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査

小結・・・・5.(真岡市)五行川(勤行川)橋梁(北真岡駅西田井駅間)と

         真岡鉄道の煉瓦造橋梁群・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査・土木

小結・・・・6.(足利市)トチセン(旧足利織物)・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・調査

前頭・・・・7.(宇都宮市宇都宮市水道戸祭配水場配水池・・・・・・・・・・登録・調査・土木

前頭・・・・8.(日光市足尾銅山煉瓦構造物群・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査・赤土

前頭・・・・9.(那須塩原市那須拓陽高校大山記念館・・・・・・・・・・・・・・調査・赤煉

前頭・・・・10.(野木町)旧新井製糸所煉瓦蔵・漆喰蔵・・・・・・・・・・・・・登録

 

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1. 旧下野煉化製造会社煉瓦窯・・・・1889(明治22)年頃竣工。煉瓦及び木造、建築面積840.0㎡、十六角造、鉄板葺、中央煙突付、階段2箇所附属。1979(昭和54)年2月3日国指定重要文化財に指定。明治初年から我国でも造られ始めたドイツのホフマン式輪窯という煉瓦焼成用の大規模な窯である。煉瓦造で平面十六角形(差し渡し32.6m)の中央に煙突(高さ34.3m)を立て、木造の上屋を架ける。窯は環状トンネル型で、16区画に分かれ、順次循環・移動しながら煉瓦を焼く。煉瓦造の建造物として優れており、建築材料である煉瓦を製造した産業遺跡の一つとしても、きわめて価値が高い。(文化庁データベース参照)

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2. 鬼怒川橋梁・・・・JR東北本線宝積寺駅・岡本駅間の上り線の橋梁である。ワーレントラスは鉄道院が設計し、東京石川島造船所で1915(大正4)年に製作された。架設は1917(大正6)年、橋長482.9m、支間長29.7mのワーレントラス10連と支間長12.9mのブレートガーター11連の混合橋である。橋脚は長方形で隅石飾りと三角水切りの付いた美しい煉瓦造りである。全体として橋脚20箇所がすべて赤煉瓦と石造で建設されている。栃木県内で最も多く赤煉瓦を使用している構造物は、この鬼怒川橋梁である。

 

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3. 渡良瀬川橋梁・・・・東武佐野線田島駅渡瀬駅間の橋梁である。1914(大正3)年に架設された橋長396mの単線橋梁である。アメリカン・ブリッジ社製作の曲弦ブラットトラス橋で輸入品である。夏草が繁っており、近くで撮影できなかった。群馬県館林市側は橋脚を含めて新しいものに改修されており、当初の構造物は全体の約1/3程度である。東武佐野線の橋梁のなかで次に長いのは、橋長87mの第三秋山川橋梁(多田駅葛生駅間)で橋脚は煉瓦造である。

 

 

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4. 箒川橋梁・・・・JR東北本線野崎駅・矢板駅間の上り線の橋梁である。橋長は322.7m、支間長22.9mの上部プレートガーター14連。13箇所の橋脚は煉瓦造で角部に石材を使用している。河床保護のため特殊なコンクリートブロックを敷き詰めてある。

栃木県内の東北本線で、次に長い橋梁は那珂川橋梁(黒磯駅高久駅間上り線)橋長126.89mで、橋脚は煉瓦造である。

 

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5. 五行川(勤行川)橋梁・・・・真岡線北真岡駅西田井駅間にある五行川の橋梁である。1913(大正2)年7月11日の鉄道開業に合わせて架設された橋長42.71mの単線ポニーワーレントラス(支間長29.98m)と単線上路プレートガーターの混合橋である。

真岡線には五行川橋梁とほぼ同一の小貝川橋梁(西田井駅益子駅間)がある。真岡線には他にも橋梁があるがすべて煉瓦造である。

 

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6-1. トチセン(旧足利織物)・・・・「赤レンガ捺染工場」1913(大正2)年~1919(大正8)年頃創業、煉瓦造平屋建、瓦葺、建築面積1,587㎡、1999(平成11)年11月18日登録有形文化財(建造物)に登録。煉瓦造の外壁と木造の内部軸組からなる広大な工場建築で、6連の鋸屋根を架ける。頂部まで立ち登る柱型と重厚な軒蛇腹とで縁取る妻壁の意匠や、出入口・窓の大きな開口部を一石のまぐさ石で支える手法に特色がある。(文化庁データベース参照)

 

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6-2. トチセン(旧足利織物)・・・・「赤レンガサラン工場」1913(大正2)~1919(大正8)年頃創業、煉瓦造平屋建、瓦葺、建築面積357㎡、1999(平成11)年11月18日登録有形文化財(建造物)に登録。東西棟の長大な工場建築。煉瓦造、切妻造で、東妻側に差し掛け屋根の張り出しを設ける。北側面大きな石材を窓枠とする窓が密に並んでいる点に特色がある。北面東半部では上部にも窓を設けて二階建ての趣き見せているが、上段の窓は後補。(文化庁データベース参照)

3件目の登録有形文化財(建造物)「汽罐室」:煉瓦造平屋建、スレート葺、建築面積239㎡、ボイラー2基付。工場敷地の南西隅に位置する煉瓦造平屋建で、波形スレート葺の切妻屋根を2連にかける。妻壁は北棟が山形、増築の南棟が方形である。外壁は煉瓦のイギリス積で柱形が付く。内部にはランカシャーボイラーを2基ずつ設置した。黒色迷彩塗料が残り戦時を物語る。(文化庁データベース参照)

 

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7. 宇都宮市水道戸祭配水場配水池・・・・1915(大正4)年竣工、煉瓦造及びコンクリート造、面積1,910㎡、2006(平成18)年10月18日登録有形文化財(建造物)に登録。

市の中心部に位置する。コンクリート造の一辺31mの正方形の2池を並列し、導水壁の上部に煉瓦5枚厚の連続欠円アーチで屋蓋をつくる。外壁はフランス積風の煉瓦貼とし、隅部と階段には花崗岩を用いる。宇都宮市近代化の水道施設遺構のひとつ。(文化庁データベース参照)側面の煉瓦5枚厚の連続欠円アーチ部は12面あり、約62mの長さで壮大な景観である。反対側も同じ造りであり、欠円アーチ部は24面、階段の斜面4面(約2.5m×4面)合計28面、約134mの赤煉瓦壁が水道山の緑地によく映えている。赤煉瓦は手抜き成形の焼き過ぎ煉瓦をフランス積で積むとは美的感覚の人物が設計したものと見られる。

 

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8-1. 足尾銅山煉瓦構造物群(宇都野火薬庫跡)・・・・宇都野火薬庫は1909(明治42)年に造られたと言われる。足尾銅山では掘削の際の発破として火薬は必需品であり、扱いは非常に厳重であった。写真は火薬庫跡の隧道の入口か。

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8-2. 足尾銅山煉瓦構造物群・・・・(宇都野火薬庫跡)宇都野火薬庫の建物は煉瓦造1棟、石造3棟(うち1棟は小規模の石造)があった。4棟の火薬庫は山腹に造成された敷地に各々土手で囲まれて独立した空間に建てられていた。

その他、小滝地区、通洞地区の製錬所跡、選鉱所跡等にも煉瓦構造物が残っている。

 

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9. 那須拓陽高校大山記念館・・・・明治の那須野が原開拓により大山農場地内に建てられた別邸である。大山記念館の建設時期は不明確であるが、建築用煉瓦(赤煉瓦)が1903(明治36)年~1909(明治42)年にかけて製造され、その一部を別邸に使用したといわれる。別邸は内部や天井が改装されているとはいえ、全体的に創建当時の姿を留めており、素朴で重厚な明治建築であり、那須野が原で唯一の赤煉瓦の別邸でもある。

1970(昭和45)年、大山家から栃木県に譲渡され、県立那須農業高校(現那須拓陽高校)の実習農場内の施設として維持され、「大山記念館」として整備されている。

 

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10. 旧新井製糸所煉瓦蔵・・・・新井家には登録有形文化財(建造物)として登録された建物が3棟ある。「旧新井製糸所煉瓦蔵」「旧新井製糸所漆喰蔵」「旧新井製糸所事務室」である。「旧新井製糸所漆喰蔵」は1894(明治27)年、煉瓦造及び土蔵造2階建、瓦葺、建築面積42㎡、1階は繭の保管庫、2階は生糸製品庫として建てられた。1階の外壁は下野煉化製造の焼き過ぎ煉瓦の三等品を積み、2階の壁は漆喰土蔵造りに仕上げていた。この頃の新井製糸所はまだ小規模の養蚕家であり生糸の生産量もわずかであった。1899(明治32)年富岡製糸場を視察して機械製糸に転換した。その後、飛躍的に事業を拡大し、1907(明治40)年には従業員数女工・男工合わせて190名、総釜数300で県内で有数の製糸工場であった。1902(明治35)年養蚕飼育のため「旧新井製糸所煉瓦蔵」を建設した。煉瓦はすべて旧下野煉化製造の屑煉瓦(不良品)を購入して建築した。そのため外壁の色合いは不揃いである。工事には見習いの職人を用いて技術向上を図った。関東大震災東日本大震災にも耐え壁面に亀裂が起きなかったという。

 

 ◎日本赤煉瓦建築物番付 栃木県場所 令和元年九月

           《ベスト30》のうち11~20

        勧進元  東京産業考古学会  行司  八木司郎

 《順位》 《所在地》   《 名 称 》         《備考》

前頭・・・・11. (宇都宮市宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫

        (旧第六十六歩兵連隊倉庫)・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・調査・赤煉

前頭・・・・12.(日光市)旧足尾銅山鉱業事務所付属書庫・・・・・・・・・・登録・項目

前頭・・・・13.(那須塩原市)大山通り赤煉瓦屋敷・・・・・・・・・・・・・・・・無

前頭・・・・14.(日光市足尾銅山細尾発電所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査

前頭・・・・15.(佐野市足利市)旧須花(大正6年竣工)隧道・・・・・調査

前頭・・・・16.(宇都宮市宇都宮市水道今市水系第六号接合井

                   ・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・調査・赤土・土木

前頭・・・・17.(宇都宮市)鬼怒橋(旧橋)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査・土木

前頭・・・・18.(日光市)間藤水力発電所跡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査

前頭・・・・19.(小山市)第二思川橋台と両毛線の煉瓦造橋梁群・・・・項目

前頭・・・・20.(日光市足尾銅山社宅防火壁・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・項目

 

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11. 宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫(旧第六十六歩兵連隊倉庫)・・・・1907(明治40)年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵連隊の厨房関係施設として建設され、現在は倉庫に用いられている。切妻造・平屋建で、イギリス積み煉瓦造、小屋組は木造トラスである。宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物。(文化庁データベース参照) 外壁は全体はイギリス積、角部はオランダ積の手抜きの赤煉瓦造で、出入口と半円アーチの窓を並べただけの簡潔な造りである。1925(大正14)年軍縮政策によって第66歩兵連隊が解散すると、その跡地に1928(昭和3)年栃木県立師範学校が移転し、この建物は理科実験実習室として使用された。1956(昭和31)年以降は県立宇都宮中央女子高校の倉庫として使用されている。2000(平成12)年12月に修復工事が行われ、屋根を瓦葺に復元された。

 

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12. 旧足尾銅山鉱業事務所付属書庫・・・・銅山中枢部の掛水移転にあわせて建設された書庫。煉瓦造二階建とする。イギリス積の外壁で、四隅に白い石材を帯状に配した付柱を設け、両側面と正面中央には妻壁を立ち上げて重厚な外観を持つ、銅山の中心施設の遺構として希少。1907(明治40)年竣工、煉瓦造2階建、鉄板葺、建築面積69㎡、 (文化庁データベース参照)

 

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13. 大山通り赤レンガ屋敷・・・・JR西那須野駅から歩いて400mぐらいのところにバス停「赤煉瓦前」がある。角地にかなり大きな平屋の煉瓦造がある。写真右側が大山通りに面した部分で建物は鋭角になっている。恐らく、大山牧場の門番詰所か受付があったと見られる。奥の方の広い部分は、管理人の家族の居住場所と考えられる。

 

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14. 足尾銅山細尾発電所(細尾第1発電所)・・・・日露戦争を目前にした日本国は銅の需要が増加していた。1906(明治39)年6月、第1期計画である2,000kwの発電設備が完成した。これが足尾銅山細尾発電所である。建物は幅9.5m、長さ23.7m。煉瓦造り平屋建て。床はコンクリート叩き。内部側面は漆喰塗り。屋根は鱗形天然スレート葺きである。発電所の設備は1,250馬力2台及び124馬力1台のフォイト式水車と1,000kw2台及び80kw1台の発電機を備えていた。この発電所が生み出した電力は11,000vの特別高圧によって標高1,300mを超す細尾峠を越え、間藤、簀子橋、小滝の各変電所を経由して足尾銅山の坑内外に配電された。1910(明治43)年4月細尾第1発電所の下に新たな細尾第2発電所を建設し、6,000kwの送電を開始した。1936(昭和11)年、細尾第1発電所の機能を第2発電所の位置に移動。設備の大改善を行なった。このため1906(明治39)建設の細尾発電所は空家になり、現在は屋根がぬけ廃屋の状態である。

 

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15-1. 旧須花(大正6年竣工)隧道・・・・佐野市下彦間と足利市名草町とを結ぶ須花峠に3本の隧道が並んで位置している。佐野市側から見て、左側にあるのが明治期に鑿と槌による人力だけで、1889(明治22)年1月に完成した全長117mの素掘の隧道である。現在は通行禁止である。1917(大正6)年、素掘隧道の北側に県の所管として隧道が掘削された。石積と煉瓦による円弧アーチ形状の構造である。全長81.9m、アーチの高さ・幅とも3.65mで入口部分の約2.4mは御影石、そこから内部は煉瓦造である。側壁はイギリス積、アーチ部は長手積である。栃木県の道路用隧道では現存する唯一の煉瓦組成による隧道である。その後、車両の交通量が多くなり両隧道の間に1979(昭和54)年コンクリート構造・アーチ形状の隧道が竣工した。

 

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15-2. 旧須花(大正6)年竣工隧道・・・・1917(大正6)年竣工の石造と煉瓦造による隧道の内部。この隧道は新規隧道の竣工により自転車と歩行者専用隧道として供用されていたが1998(平成10)年に防護柵が設置され、現在は通行禁止になっている。写真は防護柵の隙間から撮影した。

 

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16. 宇都宮市水道今市水系第六号接合井・・・・市北部に位置し、日光街道にほぼ並行して敷設された延長約25kmの送水管にかかる水圧を調整するための施設。深さ2.3mのコンクリート造構造物の上に、西洋城郭風意匠をあしらう八角形平面の煉瓦造上屋を建てる。宇都宮市近代化の水道施設遺構のひとつ。1915(大正4)年竣工。コンクリート造、面積17㎡、煉瓦造上屋付。(文化庁データベース参照)

第六号接合井は、今市浄水場で処理された水を約26km・標高差240mの戸祭配水場まで送水する際に、送水管にかかる水圧を緩和するため6箇所設置された接合井の一つです。これらの接合井は、標高が約30m下がる毎に1箇所設置されました。1949(昭和24)年の地震による被害により、当時のまま現存するのはこの第六号接合井だけです。(「関東の土木遺産」参照)

 

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17. 宇都宮市石井町から鬼怒川を東方(左岸)へは渡し舟であった。最初の木造橋が架かるのは1915(大正4)年3月で橋長554m、橋幅10.2m、径間約37m、15スパンの木造トラス橋であった。木造のため腐食や老朽化が進み、1931(昭和6)年9月、工期1年3ヶ月と短い期間で、橋長560m、スパン36.6mの曲弦鋼プラットトラス15連の橋が完成した。短期間で完成したのは木造橋の時、使用していた橋脚及び橋台を嵩上げ継足したことによる。写真は橋脚を写したもので、流水部分は焼過煉瓦を使用している。その上に石材を積んで橋脚としている。「嵩上げ継足した」というので、水流部分は木造橋時代のものを使用したと見られる。

 

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18. 間藤水力発電所跡・・・・1887(明治20)年代前半における足尾銅山の四大工事のひとつと言われた間藤水力発電所が完成したのは1890(明治23)年12月であった。足尾銅山の発展に伴う動力源を確保するため、古河市兵衛シーメンス社の技師ケスラー及び技手ブリュートゲンに依頼して渡瀬川上流部の松木川に間藤水力発電所を建設した。これが日本における最初の水力発電所である。遺構として道路脇に導水管の一部が残っている。川岸には発電所時代の煉瓦造の一部が残っている。当時の遠景の写真は残っているが水力発電所の配置図や水車・発電機の能力などは明らかでない。煉瓦造を含む発電所跡の遺構が残っているだけである。

 

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19. 第二思川橋台と両毛線の煉瓦造橋梁群・・・・両毛線小山駅思川駅の間に第一思川橋梁が架かっている。現在は3連の鉄橋とコンクリートの壁のようなものが築かれている。当初の橋梁は橋長160m、7径間連続鋼トラス橋で、6つの橋脚は全部煉瓦造であった。しかし、洪水で橋脚にずれが生じて危険なため、17m下流に新しい現在の橋梁を建設した。両毛線で次に長い橋梁は第二思川橋梁である。橋長76m、プレートガーター8連の橋梁である。7っの橋脚はすべてコンクリートで補強してあった。嵩上げした橋台だけが煉瓦造であった。次に長い橋梁は佐野駅富田駅間にある橋長48.2mの出流川橋梁であり、橋脚は煉瓦造である。

 

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20. 足尾銅山社宅防火壁・・・・足尾銅山には従業員と家族のための社宅が各地に建設されていた。火災が発生すると、木造住宅のため多くの社宅が被災した。それを防ぐため背の高い煉瓦造の防火壁が建造された。愛宕下社宅・深沢社宅・中才社宅の防火壁がある。足尾地区全体を集計すると20~30ヶ所の防火壁があると見られる。