産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

 ◎日本赤煉瓦建築物番付 栃木県場所 令和元年九月

           《ベスト30》のうち1~10位

         勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

 《順位》《所在地》 《 名 称 》            《備考》

横綱・・・・1.(野木町)旧下野煉化製造会社煉瓦窯・・・・・・・・・・・・・・・・重文・調査・赤煉

横綱・・・・2.(高根沢町宇都宮市)鬼怒川橋梁

     (JR東北本線宝積寺駅・岡本駅間上り線)・・・・・・・・・・・調査・土木

大関・・・・3.(佐野市群馬県館林市渡良瀬川橋梁 (田島駅渡瀬駅間)

         と東武佐野線の煉瓦造橋梁群・・・・・・・・・・・・・・・・調査

関脇・・・・4.(大田原市矢板市)箒川橋梁(野崎駅・矢板駅間)と

         JR東北本線の煉瓦造橋梁群・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査

小結・・・・5.(真岡市)五行川(勤行川)橋梁(北真岡駅西田井駅間)と

         真岡鉄道の煉瓦造橋梁群・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査・土木

小結・・・・6.(足利市)トチセン(旧足利織物)・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・調査

前頭・・・・7.(宇都宮市宇都宮市水道戸祭配水場配水池・・・・・・・・・・登録・調査・土木

前頭・・・・8.(日光市足尾銅山煉瓦構造物群・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査・赤土

前頭・・・・9.(那須塩原市那須拓陽高校大山記念館・・・・・・・・・・・・・・調査・赤煉

前頭・・・・10.(野木町)旧新井製糸所煉瓦蔵・漆喰蔵・・・・・・・・・・・・・登録

 

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1. 旧下野煉化製造会社煉瓦窯・・・・1889(明治22)年頃竣工。煉瓦及び木造、建築面積840.0㎡、十六角造、鉄板葺、中央煙突付、階段2箇所附属。1979(昭和54)年2月3日国指定重要文化財に指定。明治初年から我国でも造られ始めたドイツのホフマン式輪窯という煉瓦焼成用の大規模な窯である。煉瓦造で平面十六角形(差し渡し32.6m)の中央に煙突(高さ34.3m)を立て、木造の上屋を架ける。窯は環状トンネル型で、16区画に分かれ、順次循環・移動しながら煉瓦を焼く。煉瓦造の建造物として優れており、建築材料である煉瓦を製造した産業遺跡の一つとしても、きわめて価値が高い。(文化庁データベース参照)

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2. 鬼怒川橋梁・・・・JR東北本線宝積寺駅・岡本駅間の上り線の橋梁である。ワーレントラスは鉄道院が設計し、東京石川島造船所で1915(大正4)年に製作された。架設は1917(大正6)年、橋長482.9m、支間長29.7mのワーレントラス10連と支間長12.9mのブレートガーター11連の混合橋である。橋脚は長方形で隅石飾りと三角水切りの付いた美しい煉瓦造りである。全体として橋脚20箇所がすべて赤煉瓦と石造で建設されている。栃木県内で最も多く赤煉瓦を使用している構造物は、この鬼怒川橋梁である。

 

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3. 渡良瀬川橋梁・・・・東武佐野線田島駅渡瀬駅間の橋梁である。1914(大正3)年に架設された橋長396mの単線橋梁である。アメリカン・ブリッジ社製作の曲弦ブラットトラス橋で輸入品である。夏草が繁っており、近くで撮影できなかった。群馬県館林市側は橋脚を含めて新しいものに改修されており、当初の構造物は全体の約1/3程度である。東武佐野線の橋梁のなかで次に長いのは、橋長87mの第三秋山川橋梁(多田駅葛生駅間)で橋脚は煉瓦造である。

 

 

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4. 箒川橋梁・・・・JR東北本線野崎駅・矢板駅間の上り線の橋梁である。橋長は322.7m、支間長22.9mの上部プレートガーター14連。13箇所の橋脚は煉瓦造で角部に石材を使用している。河床保護のため特殊なコンクリートブロックを敷き詰めてある。

栃木県内の東北本線で、次に長い橋梁は那珂川橋梁(黒磯駅高久駅間上り線)橋長126.89mで、橋脚は煉瓦造である。

 

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5. 五行川(勤行川)橋梁・・・・真岡線北真岡駅西田井駅間にある五行川の橋梁である。1913(大正2)年7月11日の鉄道開業に合わせて架設された橋長42.71mの単線ポニーワーレントラス(支間長29.98m)と単線上路プレートガーターの混合橋である。

真岡線には五行川橋梁とほぼ同一の小貝川橋梁(西田井駅益子駅間)がある。真岡線には他にも橋梁があるがすべて煉瓦造である。

 

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6-1. トチセン(旧足利織物)・・・・「赤レンガ捺染工場」1913(大正2)年~1919(大正8)年頃創業、煉瓦造平屋建、瓦葺、建築面積1,587㎡、1999(平成11)年11月18日登録有形文化財(建造物)に登録。煉瓦造の外壁と木造の内部軸組からなる広大な工場建築で、6連の鋸屋根を架ける。頂部まで立ち登る柱型と重厚な軒蛇腹とで縁取る妻壁の意匠や、出入口・窓の大きな開口部を一石のまぐさ石で支える手法に特色がある。(文化庁データベース参照)

 

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6-2. トチセン(旧足利織物)・・・・「赤レンガサラン工場」1913(大正2)~1919(大正8)年頃創業、煉瓦造平屋建、瓦葺、建築面積357㎡、1999(平成11)年11月18日登録有形文化財(建造物)に登録。東西棟の長大な工場建築。煉瓦造、切妻造で、東妻側に差し掛け屋根の張り出しを設ける。北側面大きな石材を窓枠とする窓が密に並んでいる点に特色がある。北面東半部では上部にも窓を設けて二階建ての趣き見せているが、上段の窓は後補。(文化庁データベース参照)

3件目の登録有形文化財(建造物)「汽罐室」:煉瓦造平屋建、スレート葺、建築面積239㎡、ボイラー2基付。工場敷地の南西隅に位置する煉瓦造平屋建で、波形スレート葺の切妻屋根を2連にかける。妻壁は北棟が山形、増築の南棟が方形である。外壁は煉瓦のイギリス積で柱形が付く。内部にはランカシャーボイラーを2基ずつ設置した。黒色迷彩塗料が残り戦時を物語る。(文化庁データベース参照)

 

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7. 宇都宮市水道戸祭配水場配水池・・・・1915(大正4)年竣工、煉瓦造及びコンクリート造、面積1,910㎡、2006(平成18)年10月18日登録有形文化財(建造物)に登録。

市の中心部に位置する。コンクリート造の一辺31mの正方形の2池を並列し、導水壁の上部に煉瓦5枚厚の連続欠円アーチで屋蓋をつくる。外壁はフランス積風の煉瓦貼とし、隅部と階段には花崗岩を用いる。宇都宮市近代化の水道施設遺構のひとつ。(文化庁データベース参照)側面の煉瓦5枚厚の連続欠円アーチ部は12面あり、約62mの長さで壮大な景観である。反対側も同じ造りであり、欠円アーチ部は24面、階段の斜面4面(約2.5m×4面)合計28面、約134mの赤煉瓦壁が水道山の緑地によく映えている。赤煉瓦は手抜き成形の焼き過ぎ煉瓦をフランス積で積むとは美的感覚の人物が設計したものと見られる。

 

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8-1. 足尾銅山煉瓦構造物群(宇都野火薬庫跡)・・・・宇都野火薬庫は1909(明治42)年に造られたと言われる。足尾銅山では掘削の際の発破として火薬は必需品であり、扱いは非常に厳重であった。写真は火薬庫跡の隧道の入口か。

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8-2. 足尾銅山煉瓦構造物群・・・・(宇都野火薬庫跡)宇都野火薬庫の建物は煉瓦造1棟、石造3棟(うち1棟は小規模の石造)があった。4棟の火薬庫は山腹に造成された敷地に各々土手で囲まれて独立した空間に建てられていた。

その他、小滝地区、通洞地区の製錬所跡、選鉱所跡等にも煉瓦構造物が残っている。

 

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9. 那須拓陽高校大山記念館・・・・明治の那須野が原開拓により大山農場地内に建てられた別邸である。大山記念館の建設時期は不明確であるが、建築用煉瓦(赤煉瓦)が1903(明治36)年~1909(明治42)年にかけて製造され、その一部を別邸に使用したといわれる。別邸は内部や天井が改装されているとはいえ、全体的に創建当時の姿を留めており、素朴で重厚な明治建築であり、那須野が原で唯一の赤煉瓦の別邸でもある。

1970(昭和45)年、大山家から栃木県に譲渡され、県立那須農業高校(現那須拓陽高校)の実習農場内の施設として維持され、「大山記念館」として整備されている。

 

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10. 旧新井製糸所煉瓦蔵・・・・新井家には登録有形文化財(建造物)として登録された建物が3棟ある。「旧新井製糸所煉瓦蔵」「旧新井製糸所漆喰蔵」「旧新井製糸所事務室」である。「旧新井製糸所漆喰蔵」は1894(明治27)年、煉瓦造及び土蔵造2階建、瓦葺、建築面積42㎡、1階は繭の保管庫、2階は生糸製品庫として建てられた。1階の外壁は下野煉化製造の焼き過ぎ煉瓦の三等品を積み、2階の壁は漆喰土蔵造りに仕上げていた。この頃の新井製糸所はまだ小規模の養蚕家であり生糸の生産量もわずかであった。1899(明治32)年富岡製糸場を視察して機械製糸に転換した。その後、飛躍的に事業を拡大し、1907(明治40)年には従業員数女工・男工合わせて190名、総釜数300で県内で有数の製糸工場であった。1902(明治35)年養蚕飼育のため「旧新井製糸所煉瓦蔵」を建設した。煉瓦はすべて旧下野煉化製造の屑煉瓦(不良品)を購入して建築した。そのため外壁の色合いは不揃いである。工事には見習いの職人を用いて技術向上を図った。関東大震災東日本大震災にも耐え壁面に亀裂が起きなかったという。