産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

 ◎日本赤煉瓦建築物番付 栃木県場所 令和元年九月

           《ベスト30》のうち11~20

        勧進元  東京産業考古学会  行司  八木司郎

 《順位》 《所在地》   《 名 称 》         《備考》

前頭・・・・11. (宇都宮市宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫

        (旧第六十六歩兵連隊倉庫)・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・調査・赤煉

前頭・・・・12.(日光市)旧足尾銅山鉱業事務所付属書庫・・・・・・・・・・登録・項目

前頭・・・・13.(那須塩原市)大山通り赤煉瓦屋敷・・・・・・・・・・・・・・・・無

前頭・・・・14.(日光市足尾銅山細尾発電所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査

前頭・・・・15.(佐野市足利市)旧須花(大正6年竣工)隧道・・・・・調査

前頭・・・・16.(宇都宮市宇都宮市水道今市水系第六号接合井

                   ・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・調査・赤土・土木

前頭・・・・17.(宇都宮市)鬼怒橋(旧橋)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査・土木

前頭・・・・18.(日光市)間藤水力発電所跡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査

前頭・・・・19.(小山市)第二思川橋台と両毛線の煉瓦造橋梁群・・・・項目

前頭・・・・20.(日光市足尾銅山社宅防火壁・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・項目

 

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11. 宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫(旧第六十六歩兵連隊倉庫)・・・・1907(明治40)年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵連隊の厨房関係施設として建設され、現在は倉庫に用いられている。切妻造・平屋建で、イギリス積み煉瓦造、小屋組は木造トラスである。宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物。(文化庁データベース参照) 外壁は全体はイギリス積、角部はオランダ積の手抜きの赤煉瓦造で、出入口と半円アーチの窓を並べただけの簡潔な造りである。1925(大正14)年軍縮政策によって第66歩兵連隊が解散すると、その跡地に1928(昭和3)年栃木県立師範学校が移転し、この建物は理科実験実習室として使用された。1956(昭和31)年以降は県立宇都宮中央女子高校の倉庫として使用されている。2000(平成12)年12月に修復工事が行われ、屋根を瓦葺に復元された。

 

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12. 旧足尾銅山鉱業事務所付属書庫・・・・銅山中枢部の掛水移転にあわせて建設された書庫。煉瓦造二階建とする。イギリス積の外壁で、四隅に白い石材を帯状に配した付柱を設け、両側面と正面中央には妻壁を立ち上げて重厚な外観を持つ、銅山の中心施設の遺構として希少。1907(明治40)年竣工、煉瓦造2階建、鉄板葺、建築面積69㎡、 (文化庁データベース参照)

 

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13. 大山通り赤レンガ屋敷・・・・JR西那須野駅から歩いて400mぐらいのところにバス停「赤煉瓦前」がある。角地にかなり大きな平屋の煉瓦造がある。写真右側が大山通りに面した部分で建物は鋭角になっている。恐らく、大山牧場の門番詰所か受付があったと見られる。奥の方の広い部分は、管理人の家族の居住場所と考えられる。

 

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14. 足尾銅山細尾発電所(細尾第1発電所)・・・・日露戦争を目前にした日本国は銅の需要が増加していた。1906(明治39)年6月、第1期計画である2,000kwの発電設備が完成した。これが足尾銅山細尾発電所である。建物は幅9.5m、長さ23.7m。煉瓦造り平屋建て。床はコンクリート叩き。内部側面は漆喰塗り。屋根は鱗形天然スレート葺きである。発電所の設備は1,250馬力2台及び124馬力1台のフォイト式水車と1,000kw2台及び80kw1台の発電機を備えていた。この発電所が生み出した電力は11,000vの特別高圧によって標高1,300mを超す細尾峠を越え、間藤、簀子橋、小滝の各変電所を経由して足尾銅山の坑内外に配電された。1910(明治43)年4月細尾第1発電所の下に新たな細尾第2発電所を建設し、6,000kwの送電を開始した。1936(昭和11)年、細尾第1発電所の機能を第2発電所の位置に移動。設備の大改善を行なった。このため1906(明治39)建設の細尾発電所は空家になり、現在は屋根がぬけ廃屋の状態である。

 

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15-1. 旧須花(大正6年竣工)隧道・・・・佐野市下彦間と足利市名草町とを結ぶ須花峠に3本の隧道が並んで位置している。佐野市側から見て、左側にあるのが明治期に鑿と槌による人力だけで、1889(明治22)年1月に完成した全長117mの素掘の隧道である。現在は通行禁止である。1917(大正6)年、素掘隧道の北側に県の所管として隧道が掘削された。石積と煉瓦による円弧アーチ形状の構造である。全長81.9m、アーチの高さ・幅とも3.65mで入口部分の約2.4mは御影石、そこから内部は煉瓦造である。側壁はイギリス積、アーチ部は長手積である。栃木県の道路用隧道では現存する唯一の煉瓦組成による隧道である。その後、車両の交通量が多くなり両隧道の間に1979(昭和54)年コンクリート構造・アーチ形状の隧道が竣工した。

 

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15-2. 旧須花(大正6)年竣工隧道・・・・1917(大正6)年竣工の石造と煉瓦造による隧道の内部。この隧道は新規隧道の竣工により自転車と歩行者専用隧道として供用されていたが1998(平成10)年に防護柵が設置され、現在は通行禁止になっている。写真は防護柵の隙間から撮影した。

 

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16. 宇都宮市水道今市水系第六号接合井・・・・市北部に位置し、日光街道にほぼ並行して敷設された延長約25kmの送水管にかかる水圧を調整するための施設。深さ2.3mのコンクリート造構造物の上に、西洋城郭風意匠をあしらう八角形平面の煉瓦造上屋を建てる。宇都宮市近代化の水道施設遺構のひとつ。1915(大正4)年竣工。コンクリート造、面積17㎡、煉瓦造上屋付。(文化庁データベース参照)

第六号接合井は、今市浄水場で処理された水を約26km・標高差240mの戸祭配水場まで送水する際に、送水管にかかる水圧を緩和するため6箇所設置された接合井の一つです。これらの接合井は、標高が約30m下がる毎に1箇所設置されました。1949(昭和24)年の地震による被害により、当時のまま現存するのはこの第六号接合井だけです。(「関東の土木遺産」参照)

 

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17. 宇都宮市石井町から鬼怒川を東方(左岸)へは渡し舟であった。最初の木造橋が架かるのは1915(大正4)年3月で橋長554m、橋幅10.2m、径間約37m、15スパンの木造トラス橋であった。木造のため腐食や老朽化が進み、1931(昭和6)年9月、工期1年3ヶ月と短い期間で、橋長560m、スパン36.6mの曲弦鋼プラットトラス15連の橋が完成した。短期間で完成したのは木造橋の時、使用していた橋脚及び橋台を嵩上げ継足したことによる。写真は橋脚を写したもので、流水部分は焼過煉瓦を使用している。その上に石材を積んで橋脚としている。「嵩上げ継足した」というので、水流部分は木造橋時代のものを使用したと見られる。

 

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18. 間藤水力発電所跡・・・・1887(明治20)年代前半における足尾銅山の四大工事のひとつと言われた間藤水力発電所が完成したのは1890(明治23)年12月であった。足尾銅山の発展に伴う動力源を確保するため、古河市兵衛シーメンス社の技師ケスラー及び技手ブリュートゲンに依頼して渡瀬川上流部の松木川に間藤水力発電所を建設した。これが日本における最初の水力発電所である。遺構として道路脇に導水管の一部が残っている。川岸には発電所時代の煉瓦造の一部が残っている。当時の遠景の写真は残っているが水力発電所の配置図や水車・発電機の能力などは明らかでない。煉瓦造を含む発電所跡の遺構が残っているだけである。

 

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19. 第二思川橋台と両毛線の煉瓦造橋梁群・・・・両毛線小山駅思川駅の間に第一思川橋梁が架かっている。現在は3連の鉄橋とコンクリートの壁のようなものが築かれている。当初の橋梁は橋長160m、7径間連続鋼トラス橋で、6つの橋脚は全部煉瓦造であった。しかし、洪水で橋脚にずれが生じて危険なため、17m下流に新しい現在の橋梁を建設した。両毛線で次に長い橋梁は第二思川橋梁である。橋長76m、プレートガーター8連の橋梁である。7っの橋脚はすべてコンクリートで補強してあった。嵩上げした橋台だけが煉瓦造であった。次に長い橋梁は佐野駅富田駅間にある橋長48.2mの出流川橋梁であり、橋脚は煉瓦造である。

 

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20. 足尾銅山社宅防火壁・・・・足尾銅山には従業員と家族のための社宅が各地に建設されていた。火災が発生すると、木造住宅のため多くの社宅が被災した。それを防ぐため背の高い煉瓦造の防火壁が建造された。愛宕下社宅・深沢社宅・中才社宅の防火壁がある。足尾地区全体を集計すると20~30ヶ所の防火壁があると見られる。