産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

         ~「三条金物」資料館のあり方~
              -収集品はどう見せるか-

 

 先日の日本経済新聞(6月26日付朝刊、文化面)に、博物館のコレクションについての記事がありました。
 鳥取県北栄町の郷土資料館が、収蔵庫が満杯になったことを理由に昨年、保存していた民具類を手放すため、他館や個人への譲渡会を開催したことを紹介した上で、全国の博物館・資料館はどこもコレクターの死去などによる寄贈や寄託の問い合わせが増えて、限られた収納スペースの中、どう対応すべきか戸惑っているとの内容でした。
                ◇
 この記事を読んで、産業考古学に何十年も関わっているB会員(80代)が、産業遺産の収集・保存問題について以前語っていたことを思い出しました。

「集めることもそうだけど、集めたモノをどう保存・展示していくかも難しい問題。資料館の責任者が代わって、それまで苦労して収集したものがすべて廃棄処分になってしまったケースや、集めたのはいいが、地下の倉庫に眠ったままになっているものもあるしで…」と。

 

 思うに産業遺産・遺物類に対する一般の人たちの関心、理解があまり高くなく、その「評価」が多様なことが一因ではないでしょうか。「産業遺産」とは言いますが、そもそもは役目を終えてカネを生まなくなった遺物、ゴミですから。遺産なのか、それともただのゴミなのか、判断は分かれます。
                  ◆
 先日、JR東日本の大人の休日倶楽部切符(4日間連続使用で1万5千円)で新潟県三条市に行ってきました。包丁、はさみなど「三条金物」で全国的に知られた町です。

 

 北三条駅のすぐ南側にある三条市歴史民俗産業資料館」にぶらりと立ち寄りました。入場料は無料でした。平日の昼下がり、見学者は私の他、コンパクトカメラで展示品をパチパチやっていた30代風の女性と、すべての展示物をじっくり丁寧に見ていた70~80代の男性の2人のみ。(2人はそれぞれ何の目的で来たのでしょうか?)
資料館の職員は事務所の奥の方で何やら忙しそうで、展示会場には姿を見せませんでした。
  鍛冶屋の仕事場を再現したセットがありましたので撮りました。下の写真。

 

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               (ノコギリ鍛冶の仕事場)

 展示は特に良くもなく悪くもなく、想像の範囲内でしたが、気になったのは、入口近くの壁に掛けられた大きめのパネル(A2~A1サイズ程度)に博物館・資料館の意義と役割が長々と記されていたことでした。


 それもごく一般的かつ平凡なことだったため、かえって驚きました。敢えてこうした文章を掲げる意味は何でしょうか。

 想像ですが、見学者がまばらな資料館の維持・運営に、税金を投じることに一体どれだけの意味があるのか、との市民の声があったのではないでしょうか。

 三条市地場産業の金物で栄えた町ですが、今はどこの地方都市もそうであるように、町中に人影はまばらで、閉めた工場や飲み屋が目に付きました。

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     (廃業して数十年になるという料亭。「味わいのある建物なので
      保存・活用が検討されたが、修理費用がかなりかかることが分
      かり、計画は断念され、いずれ解体されるようだ」とは近所の
      人の話)

                  ☆


 Bさんに話を戻すと、こうも言っていました。


 「産業遺産の見学会で何年か前に佐渡に行ったんだけど、廃校となった教室に漆塗りのお膳やお椀がずらっと並べてあって、それはその町の人たちから寄付された“生活遺産”とも言えるものなんだろうけど、展示物はどれも色褪せ、歪みも生じ、いずれ処分されてしまいそうな感じだった。桐箱に入れて蔵にでもしまっておけばいいのだろうが、それでは皆に見てもらえず意味がないので、こうして展示したんだと想像した。その趣旨はいいが、高価な品がもう財産ではなくなってしまった感じで…。これもなんだか複雑な心境で寂しかったわ」と。

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        (写真は富山県の旧家の蔵にしまってある漆塗りのお膳セット。

         輪島塗のようです。このように保存すれば漆食器は痛まない

         が、広く一般の人たちに見てもらうことにはならない)

 

 産業遺産・遺物類を集めるのは結構なことだが、どう保存し、見せていくか。難しい問題ですね。                           (以上)

東京産業考古学会6月見学会」

 

                                       ●東京五輪前の大森へ

 

                                 ~ブラックペーパー(海苔)の物語~


  東京産業考古学会の6月のイベントは、大田区にある海苔の資料館『大森 海苔のふるさと館』の見学でした。

 

 海苔養殖業はかつて、東京湾を代表する食の産業でした。しかし、東京都に面する海域での海苔養殖は、1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックの前年の摘み取りをもって、長い歴史に終止符が打たれました。漁業権を放棄させられたからです。

 来年(2020年)、ふたたび東京五輪が開かれます。その前年に当たる今年、東京の海苔養殖について、改めて振り返ってみようということになりました。(…というのがワタクシメの見学会の趣旨解釈)

 

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           (開館10周年を迎えた『海苔のふるさと館』)

 

 江戸前東京湾)で生まれ、全国に波及して行った食品として、にぎり鮨、てんぷら、佃煮などがありますが、海苔もそのひとつです。大森は海苔養殖の中心となった所で、ここから全国にその技術が広がっていきました。


 海苔のことは欧米では俗称、「ブラックペーパー」と呼んでいます。黒い紙ということですね。

 大森のふるさと館には、廃業した海苔漁民が使っていた竹ヒビ、海苔切り包丁、海苔貯蔵用の瓶、ベカ舟などさまざまな用具が展示されています。

 

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           (天日干しの海苔。“ブラックペーパー”です)

 

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       (海苔漁で着た厚手の半纏。袖の長さが左右で違うのは、作業をし

        やすくするため利き手を短くしたため)

 

 昭和35年撮影の大森周辺の大きな航空地図が壁面に貼ってありました。海の上に赤いシールがあり、そこが現在のふるさと館の場所とのこと。地図をよく見ると、旧呑川など東京湾に注ぐ小さな川の流域に、米粒のようなものが点々と並んでいます。海苔採りに使う「ベカ舟」です。


 ふるさと館の学芸員から説明を受けました。


 「昭和37年12月に東京都の全区域、17漁協、約4千戸の漁家が漁業権を放棄させられ、一斉に生活の根拠を失いました。最後の海苔の摘み取りは東京五輪が開かれた昭和39年の前年の春でした」「補償金は多い家では約3千万円。若い漁師は町工場に働きに出、役目を終えた海苔干し場は、多くが補償金で建てたアパートになりました」

 

         ~ ◇         ◆          ◇~

 

 10数年前、海苔の産業遺産を調査したことがあるワタクシメとして、学芸員の話を以下、補足させていただきます。(自宅の押し入れから資料箱を取り出して…)

 

 べか舟が繋留されている航空写真があった呑川ですが、1982(昭和57)年に埋め立てられて緑地帯になり、地元の人たちの散策の場になっています。そこを歩くと、今日では建て替えなどでかなり減りましたが、それでもブルーやグリーンの波形トタンを張り巡らした2階建てのアパートをあちらこちらで見ることが出来ます。空き室が目立ちますが。

 

 漁業権を放棄させられた海苔漁師たちは、建てたアパートの賃料で生活費をまかなうことにしたのです。住所で言えば、大森東や大森南あたりで多く見かけます。筆者はこれこそが、海苔産業が残した産業遺産だと考えています。歴史的建造物なのです。

 関係者に聞きますと、一般的なアパートは6畳一間か4.5畳一間で、風呂はなく、トイレは共用だったそうです。

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     (呑川を埋め立てた緑道沿いに建っているトタンふきのアパート。
       2004年撮影)

 

 それぞれの漁家が保有していた海苔干場(畑)の面積は様々ですが、平均的なアパートの建築費は300万円程度だったそうです。


 漁業補償は、対象となった都内の17組合(組合員4,190人)で、総額330億円が支払われました。単純計算で1組合員当たり1,180万円ということです。

 

 補償金交渉が決着した1962(昭和37)年当時の銀行の1年定期預金利息は5.5%でした。税金など除外して計算すれば、年間利息は月換算で5万4千円です。住む家さえあれば老夫婦2人は働かなくても利息だけでなんとか食べていける額といえます。
 

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      (海苔漁師が建てた代表的なアパート。2008年撮影)

 

 ちなみに前回の東京五輪で金メダル取った女子バレーボールチームの大松博文監督(当時、大日本紡績の資材係長、42歳)の月給は約6万5千円、キャプテンの河西昌枝さんは、寮費などを引かれた後の手取りは約1万8千円だったそうです。

 

 大森沖で最後の海苔摘みがなされて56年経ちました。今年5月から元号は令和。まさに昭和は遠くなりにけり…、ですね。

 

                  以上、ツキナミかつ平凡な締めでした。

 

 

 

                                                 ●またまた「八王子見学会」
                                                         -「太い繊維を織る」とは?-  

 

 八王子の絹遺産関連見学会の報告に関して、80代の女性会員から先日、電話がありました。

  その方は見学会には参加できなかったのですが、後日、知人から見学会の写真をたくさん見せてもらったそうです。

   彼女は、八王子市郷土資料館の地機(じばた)の説明パネルに、違和感を感じるとのことでした。


 地機とは、今日ではほとんど見かけなくなった伝統的な織機のことです。実物が同資料館に展示してありました。(写真A) 

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                                                (写真A:地機の実演風景)

 

   彼女は言います。「パネル写真(写真B)には、地機は“麻や木綿などの太い繊維を織るために使う”とあるようだけど、ひっかかるんだなあ…。書いた人、繊維のことちゃんと理解しているのかねえ…」。

 

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                     (写真B:説明文の2段落目に「太い繊維を織る」とあります)

 「正しく表記するなら、全ての繊維は糸から布にするわけだから、“太い糸で織る”とか、”厚手の布を織る”とした方がいいんじゃないのかしら。…今の若い人は糸というとカードに巻いてあるものしか知らないから、こんな表記になったのでは」と。

 電話を受けながら、なるほどその方が確かに正確と思う一方、微妙な感じもしないではありませんでしたが、戦前・戦後と農業の傍ら、副業として織物の仕事をして家計を支えてきた人なので、こだわりがあるのでしょう。

  彼女は続けます。


 「…まあいいいんだけどね。厚手の木綿というと、酒屋の前掛け、材木運びの肩布、大工の腹掛けなどが思い出されるわね。消防団のハッピなどもね。いずれも昭和の思い出よね。…昭和は遠くになりにけり、か」。
                                                                                                                                 以上

 

 

◇道の駅駅長は、芥川龍之介の孫

 

  先日、八王子の絹遺産見学会報告の中で、八王子の道の駅「八王子滝山」について書いたら、見学会に参加した方から、以下の情報が寄せられました。

 

 「あの道の駅の初代駅長は、作家の芥川龍之介の孫、芥川麻実子(まみこ)さんが務めた。作曲家・芥川也寸志(龍之介の三男)の長女で、1948年生まれ、道路絡みの仕事をしているみたい」とのことでした。

 

  そういえば、見学会の時にガイドの方が「龍之介の孫」のようなことを言っていたのを思い出した次第です。龍之介の孫、覚えやすい“肩書き”です。

 

 それにしてもなぜ、道の駅の駅長なのか、ネットで調べてみたら、彼女は交通評論家を名乗り、元・首都高速道路協会理事だったらしいです。道路環境プランナーという肩書きも持っているそうですが、この肩書きを持つ人は他におらず、「自分でかってに付けた」とのこと。なかなか柔らか頭、ユニークな方のようです。

 

   で、連絡してきた人に、どこで彼女のことを知ったのかと聞いたら、その人曰く、「近くの図書館に行ったら、田端文士村記念館のイベントビラ(下の写真)が置いてあって、そこに河童忌(竜之介の忌日)の特別企画『芥川竜之介の“孫対孫”対談』」として麻実子さんと、芥川比呂志の三女、耿子(てるこ)さんが対談するとあったので」とのことでした。

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   ご関心がある方は7月1日必着で同記念館に申し込んでみてください。

  産業遺産とはあまり関係がない話でした。                (了)



  

●八王子「絹の道」見学会

                                            ●八王子「絹の道」見学会

 

  群馬、長野、栃木県など関東の絹関連産業遺産にはこれまで何度か足を運びましたが、東京に住みながら八王子にはまだ行っていませんでした。そこへ知人から「産業考古学会」の“八王子絹織物遺産見学ツアー”があるので参加しないか、との誘いを受け、このほど出かけてきました。

 見学会は貸し切りバス(参加者約30人)で、八王子市郷土資料館からスタートしました。

 

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    (八王子郷土資料館の内部。木綿などの太い繊維を織る地機<じばた>と、

     八王子の織物に関する資料))

 

 市内には意外と絹織物関連の施設が残されていないことを早い段階で知ることになります。関東で絹織物の街といえば桐生市ですが、八王子は比べものになりません。桐生には今でもノコギリ屋根の織物工場が点在していますが、八王子は一体どこにあるのでしょうか、まったく見当たりません。

 ガイドの方は、「ノコギリ屋根工場はかつてあちこちに普通にあったのに…。歴史的遺産の保存に八王子は熱心でない」とコメント。

 

                 ▽絹の道へ

 八王子の絹遺産と言えば誰もが思い浮かべるのが「絹の道」です。安政6年(1859年)の横浜開港で、絹が日本の最大の輸出品になったのですが、絹の一大集積地になった八王子から横浜へ運ぶルートが絹の道でした。

 現在は八王子市内の約1.5キロの道が市の史跡に指定されています。写真がそれです。

 

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               (木立に囲まれた絹の道)

 見学会参加者の中に約30年前にこの道を歩いた人がいて、「当時は今よりえぐれていて、歩くのが大変だった。マムシがよく出没、近くの学校の下駄箱にとぐろを巻いていたのを見たことがある」と。

 

 絹の道は「絹の道資料館」(八王子市鑓水989-2)からすぐです。


 車通りから絹の道に入る所に花崗岩でできた道標があって、そこには「鑓水(やりみず)停車場」(注:読み間違いでなければ)とありました。しかしその停車場は完成しませんでした。この碑が建てられた昭和2(1927)年には確かに停車場を設ける計画がありましたが、同年に起きた昭和金融恐慌、その2年後の世界恐慌で絹市況が暴落、鉄道敷設計画は頓挫してしまったのです。鉄道を計画したのは「鑓水商人」でした。

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        (鑓水停車場と書かれた石碑。停車場は幻となった)

 鑓水商人というのは、八王子を中心に活躍した絹商人で、絹を安い時に仕入れ、高くなってから横浜に出すことで成功、富を築きました。絹輸送は馬車でした。


 しかし、その繁栄も鉄道が敷設されるまで。明治22(1889)年に甲武鉄道(現・JR中央本線)、明治44(1911)年に横浜鉄道(現・JR横浜線)が開通すると、鑓水商人を介さず、自分たちで横浜まで絹を出荷する製糸業者が増えたのです。これに危機感を覚えた鑓水商人は自分たちで鑓水地区から八王子まで鉄道を敷設することを計画したという次第です。

 恐慌で鑓水商人は完全に没落してしまいました。

 

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     (車通りから右手に入った細い道が絹の道。撮影者の背後に「絹の資料

      館」がある)

 

 八王子駅に戻るバスが「絹の資料館」を離れて間もなく、「左手に見える大学が“タマビ”で知られる多摩美術大学です」とのアナウンス。「八王子は絹産業がダメになり、税収が落ち込んだので、学園都市構想を打ち出しました。都心の大学を誘致したのです。結果として30校ほどが移転して来ましたが、近年、大学の都心回帰の動きが出て、このままではまた寂れるというので、別の新たな活性化策を検討しています」と。

 その活性化策の説明がありましたが、他の自治体でも考えていそうな内容でした。果たして人を呼び込めるでしょうか、ちょっと心配に感じたのは私だけでしょうか。

 

             ▽賑わう道の駅


 見学会の最後は、道の駅「八王子滝山」。東京都で唯一の道の駅だそうです。地元の野菜・果物や畜産物、ソフトクリーム、ジェラートなどがなかなか人気。八王子の人気スポットとのこと。なるほど、納得。こっちの方は成功しているようです。

 

 八王子の“栄枯盛衰見学ツアー”でした。              (K.O)
   

 

◎セルロイドと林芙美子

         ◎セルロイド林芙美子

 

 セルロイドハウス横浜館に行った方のブログを拝読して、昨年、新宿区中井にある林芙美子記念館(林芙美子の旧宅)を訪ねた際、ボランティアガイドの方から聞いた若い頃の芙美子の苦労話を思い出しました。

 

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         (林芙美子の旧宅。現在は「林芙美子記念館」)

 

 芙美子は1903(明治36)年に行商人の両親の間に生まれ、家が貧しかったことから一家は住居を転々とし、芙美子は学校に行くこともままならず、様々な仕事に就いて生活費を稼ぎます。

 彼女の『文学的自叙伝』を読めば、いかに多くの仕事をしてきたかが分かります。「只、働きたべるための月日をおくりました」と記しています。女中、株屋の事務員、雑貨の夜、毛糸店の売り子、代書屋、カフェー…。

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              (芙美子が描いた自画像)

 その一つにセルロイド工場がありました。1924(大正13)年頃です。彼女は別の所に書いています。


セルロイド玩具をつくる工場に、女工として通つてゐました。(中略)セルロイド工場では、私は朝も夜もキユーピーや蝶々の色づけをしました。(中略)私はキユーピーや蝶々に埋れて、始めて自分の人生をとりもどしたように、本を読んだり、散歩をしたりするようになりました」。

 『放浪記』でブレークし、本格的な作家生活が始まるのはその6年後です。貧困生活からの脱出でした。

 

 芙美子が亡くなって今年で68年になりますが、両親とともに放浪してきた九州の炭鉱、尾道の造船所、そしてセルロイド工場等まで、その足跡は日本の産業史と重なります。

 セルロイドハウス横浜館訪問ブログに接し、林芙美子を懐かしく思い出した次第です。


                            (以上)

 

 

セルロイドを見に行ってきました

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セルロイド人形

            ◎世界最大のセルロイド
         
 去る5月11日(土)午後、セルロイドハウス横浜館(注1)を見学した。 参加者は、中高年の勉強会の「たまごクラブ」(市川市民が中心)の会員7名であった。
佐藤館長代理からまず概要のお話があった。同館の収蔵品は約10万点で、およそセルロイドに関するものはすべて収集展示されており、世界最大唯一のセルロイド博物館である由。

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セルロイドの接見箱

 

  セルロイド製品の製造工程のビデオを鑑賞したあと、同氏のご案内で、1階から3階までキューピー人形を初め各種製品、工程、製造機器、文献等を見学した。終わって岩井館長から歓迎のご挨拶を頂き、茶菓の振る舞いがあって懇談した。

 参加者から、「祖父が都内でセルロイド製品の製造に携わっていた」との話があり、一同、戦後のセルロイドが日常生活の様々な用途に使用されていた時代を懐かしく想起して見学を終了した。

 なお、同館の開館日は土曜日のみで、要予約です。

(注1)所在地は横浜市港北区高田東1-1-20。

電話:045-549-6260。

 

            (東京産業考古学会理事・平井東幸)