産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

                               ●日立に吹くアートの風


                                 新田次郎妹島和世

 

  世界的な女流建築家・妹島和世氏がデザインを監修した西武鉄道の新型特急がこの3月に運行を開始したとのニュースを聞くや、彼女の出身地である茨城県日立市に思いが飛び、このほど訪れてみました。日立製作所の源流の町です。
 旅の目的の一つは日立駅舎を見ることです。

 

        f:id:TIAS:20190421204336j:plain

        (妹島和世氏がデザインを担当したJR日立駅舎)

 

 2011年に完成したJR日立駅舎も妹島氏がデザインを監修しました。駅に付属する長さ139メートルの自由通路はガラス張りで、海側に行けば太平洋を眼下に約120度展望できます。鉱山と重電の町、日立のイメージを一新する粋なデザイン。14年に鉄道の国際デザインコンペで「ブルネル賞」を受賞しました。


 日立市は、久原房之助が赤沢銅山を買収して日立鉱山として開業後、急速に発展した町です。日立鉱山の電気機械修理工場からスタートしたのが日立製作所です。
 妹島和世氏の父は日立製作所に勤務していたエンジニアでした。

      

f:id:TIAS:20190421204609j:plain

           (保存されている堅坑)

 日立駅からバスで山側へ約30分行った所にある「日鉱記念館」。日立鉱山跡地に建つ同記念館は1985(昭和60)年にオープンしました。現在のJX金属グループになるまでの歴史を紹介する本館のほか、2つの竪坑、かつてのコンプレッサー室を活用した鉱山資料館などがあります。

 鉱山町としてかなり栄えたはずなのに、少なくともバス通りからは、鉱山関連施設跡は不思議なくらい見当たりません。足尾や別子、小坂などは赤レンガ建造物などがあちらこちらに残っていますが、日立にはこれといったものがないのです。不思議です。


 最大の産業遺産はなんといっても、1914(大正3)年に建てられた大煙突です。完成時の高さ156メートルは当時、世界一でしたが、1993(平成5)年に突然、根元3分の1を残して倒壊しました。


 日立の産業遺産は他に、劇場として使われていた旧「共楽館」(大正6年築)ぐらいで、地元で生まれ育ったという同館の管理人は「このあたりに鉱山住宅が立ち並んでいたけど、もう何も残っていないよ」と。

      f:id:TIAS:20190421205019j:plain

               (旧共楽館)

 駅の観光案内所でもらったパンフによると、鉱山電車跡やカラミ(銅鉱石を溶かした際に出るかす)跡などがあるようですが…。

 こうした中、目に付いたのは映画『ある町の高い煙突』のポスターです。同名の新田次郎の小説(昭和44年発表)を映画化し、この春に完成したばかりとのこと。6月から一般公開されるそうです。


 煙害対策として立てられた高い煙突は、新田次郎という著名な作家の作品で紹介されて全国的に知られ、町のシンボルとなったのです。

          f:id:TIAS:20190421204858j:plain

               (映画のパンフ)

 

 水俣病をテーマにした石牟礼道子の『苦海浄土』、足尾鉱毒事件を扱った志賀直哉立松和平の文学作品もそうですが、公害の歴史を後生に伝える上で大きな力になるのは文学作品作で、そうした作品がないところは記憶から消えて行きます。


 文学も建築も広義のアートです。鉱山と重電の町・日立は、新田次郎妹島和世の2人によって改めて注目されているといえるでしょう。


 ちなみに妹島和世は2010年に建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞を受賞。父、妹島五彦は大阪大学工学部を卒業して日立製作所に入社、溶接学会フェローを受章するなどした優れたエンジニアでした。妹島和世のご両親は素晴らしい方だったようです。(敬称略)


 これについては改めて記します。             (続く:K.O)

 

         ●新紙幣の渋沢栄一、その旧邸見学へ

           ●新紙幣渋沢栄一、その旧邸見学へ

 十条跨線橋の保存運動に取り組んでいるわが「東京産業考古学会」は、同橋があるJR東十条駅の見学会を企画、3月23日に催しました。

 同時に、王子駅の隣りにある飛鳥山公園内の「渋沢史料館」と「旧渋沢庭園」も見学しました。言うまでもなく、「日本資本主義の父」と称された渋沢栄一ゆかりの施設です。


 新紙幣が2024年度に一新され、一万円札の肖像画渋沢栄一が選ばれたこともあり、現地へ行きたくても行けない方のために、学芸員解説付き見学記をご報告します。

                  ◇

 各施設についての概要は、関連のホームページ(HP)等に詳しく記されていますので簡単にし、学芸員氏によるあまり知られていない話を中心に紹介したいと思います。(※聞き間違い等があればお詫びします)

 

●旧渋沢庭園の主な施設

 

<アクセス>
・所在地は、東京都北区西ヶ原2-16-1です。

・JR京浜東北線王子駅南口から歩5分、東京メトロ南北線西ヶ原駅から6分のところにあります。飛鳥山は桜の名所として江戸時代から知られ、花見シーズン中は、はとバスのコースにも組み入れられています。

 渋沢栄一がかつて保有していた飛鳥山の土地は2万8千平方㍍(8,470坪)ありましたが、太平洋戦争中の空襲で多くの建物が消失したこともあり、現在は青淵文庫や晩香廬などがある旧渋沢庭園だけになっています。

▽青淵文庫

f:id:TIAS:20190411102402j:plain

青淵文庫

 青淵文庫は、栄一の傘寿(80歳)と子爵昇格のお祝いを兼ねて1925(大正14)年に竜門社から贈呈された建物です。ステンドグラス、テラス、絨毯など随所に「壽(ことぶき)」の文字が目に付きます。

 床の絨毯には、壽の文字とともに、蝙蝠が描かれていました。
 蝙蝠の「蝠」は、旁(つくり)が「福」と同じなので、福を招く動物とされ、中国など東アジアでは吉祥文様としてよく使われています。

 中華料理店で、「福」の文字を逆さにして掲げているところがありますが、「倒福」(とうふく)といい、天井などからぶら下がる蝙蝠のイメージにつながるのだそうです。

 

f:id:TIAS:20190411102603j:plain

青淵文庫の内部

f:id:TIAS:20190411102644j:plain

青淵文庫床の蜘蛛模様のカーペット

 ▽晩香盧 (※建物の内部は撮影禁止です)

f:id:TIAS:20190411103635j:plain

晩香盧の外観

 

 喜寿(77歳)を祝って清水組(現・清水建設)から贈られた洋風茶室。賓客をもてなすため利用されました。

 建物そのものが工芸品といっていいかと思います。「見れば見るほど随所にこだわりがある」とは学芸員氏の弁。


 例えばシェード。薄く剥がした淡貝を使用しています。この他にも2カ所、「ステンドグラスの縁」と「壁」に貝を使い、独特の雰囲気を醸し出しています。壁に使った貝はアオガイ栄一のを砕いて塗り込めてあるそうです。

 建物や調度品には、アーツ・アンド・クラフト運動(19世紀後半に英国で始まった美術工芸運動)の影響が見られます。 

 

f:id:TIAS:20190411103727j:plain

晩香盧の室内

 ▽渋沢史料館

 渋沢栄一(1840-1931)の生涯を紹介する資料が展示されています。

 栄一は、約500の企業の設立・育成に関わり、約600の社会事業にタッチしました。事業に対する考えは、「金儲けは道徳的に正しいものでなくてはならない」というものでした。それは「道徳経済合一説」という考えで知られています。


 栄一は不動産事業を嫌いました。土地の値上がりが生む利益は投機だからです。

 栄一が亡くなって今年で88年になりますが、「今日でもしばしば雑誌等で栄一が紹介されるのは、その理念と行動に学ぶべき点が多いからでしょう」と学芸員氏。納得です。

(※撮影は禁止されているところがあります。ご注意ください)

 以上、東京産業考古学会の見学会報告でした。

 ★当学会はどなたでも会員になれます。毎月開催している講演会、勉強会を一度覗いてみてください。


東十条駅跨線橋見学記は別の機会に改めて記します。以上です

 

                            ●歴史ある英国製橋の保存を③


                          ~旧江ヶ崎跨線橋「第3の人生」~

 

 1929(昭和4)年に建設された新鶴見操車場に、2009(平成21)年まで80年間架かっていた旧江ヶ崎こ線橋は、不要になった3つの橋を移設・ドッキングして造られたものです。

 一つは、先に説明した英国コクラン社製の旧荒川橋梁。もう一つは、1896(明治29)年に日本鉄道土浦線(現・JR常磐線)の旧隅田川橋梁にかかっていた橋で、英国ハンディサイド社製です。(残り1つはどこから転用したのか不明)

 旧江ヶ崎跨線橋は撤去後、英国コクラン社製の一部はモニュメントとして保存展示されたわけですが、ハンディサイド社製の橋は、横浜市中区新山下地区にある新山下運河を渡る「霞橋」に再利用されています。

 

     f:id:TIAS:20190404002728j:plain

              横浜の「霞橋」

 この霞橋は、横浜の観光名所である「港の見える丘公園」の展望台に立つと、ほぼ真下に見えます。かわらけ投げでもすれば、当たるかもしれないと思われるほどの近さです。

 橋の権威である伊東孝・元日本大学教授は、コクラン社とハンディサイド社という2つの英国メーカーの橋について、「1880年代から90年代にかけての時期は、英国製のトラス橋から米国製の橋への転換期にあたり、残されている橋は歴史的価値が非常に高い」とのことです。

f:id:TIAS:20190404002808j:plain

港の見える丘公園から見た「霞橋」(中央のやや左手)

 真っ白な霞橋は、周囲の風景にすっかり溶け込んでいます。通る車も少なく、その分、負荷がかかっていないようで、申し分のない「第3の人生」といえるかと思います。

 霞橋の袂には、この橋の長い歴史と特色を記した説明板が2箇所立てられ、大切にされていることを感じます。
 なお、この霞橋は土木学会の田中賞を2013年に受賞しています。

 

 十条跨線橋についても是非、霞橋のような第3の人生を歩んで欲しいものです。

                             (おわり)

 


 
          ●歴史ある英国製橋の保存を②
                                      ~同じ橋だった江ヶ崎跨線橋

 

  JR東十条駅南口の「十条跨線橋」は、先に記したように、最初は荒川橋として使われ、同橋の架け替えで撤去され,1932(昭和7)年に現在の東十条に移設されたわけですが、旧荒川橋の他の1連(約30㍍)は、新鶴見操車場(川崎市幸区横浜市鶴見区)をまたぐ旧江ヶ崎跨線橋(長さ約178メートル、1929年架設)として使われていました。
 つまり、十条跨線橋と旧江ヶ崎跨線橋(東側30㍍)は元は同じ橋だったのです。

   旧江ヶ崎こ線橋は2009(平成21)年に掛け替えのため、撤去されました。


  下の写真は、旧橋がかかっていたころの同操車場風景です。新鶴見操車場は、既に役割を終え、跡地は荒涼としていました。

f:id:TIAS:20190330095106j:plain

      (写真:雪の日の新鶴見操車場跡。正面の鉄橋が旧江ヶ崎こ
           線橋1994年2月撮影)

 

   上の写真は、江ヶ崎こ線橋の約600メートル北側、つまり横須賀線新川崎駅側に位置する小倉こ線橋から撮りました。撮影した日はたまたま雪で,横浜方面に火災らしき黒煙が見えたのでシャッターを押しました。
 
  今年(2019年)3月に現地を訪ねた際、小倉こ線橋から同じ方向を撮影したのが下の写真です。

f:id:TIAS:20190330092716j:plain

 

              (写真:正面のマンションの向こう側に江ケ崎こ線橋があります)

 

 新しく掛け替えられた江ケ先こ線橋の西詰めに、役割を終えた旧跨線橋の一部が、モニュメント(下の写真)して保存されています。十条こ線橋に残されているのと同じコクラン社の銘板が付いています。

 

f:id:TIAS:20190402181401j:plain

 

 私がこのモニュメントを見に来たのは今年(2019年)3月7日でした。


  この日の朝、NHKテレビのニュース番組を見ていたら、米国の俳優クリント・イーストウッド(88)が登場、自ら監督・主演した新作映画『運び屋』について語っていました。日本での公開(3月8日)前のインタビューでした。


 クリント・イーストウッドが監督・主演し、大ヒットした映画に『マディソン郡の橋』があります。


  米国アイオワ州マディソン郡にあるその橋、ローズマン・ブリッジは、木造の屋根付き橋と紹介されていますが、屋根というよりはどちらかといえば幌のイメージです。江ヶ崎跨線橋マディソン郡の橋よりかなり大きい鉄橋ですが、これに幌をかければ似ないでもありません。

 

   この日は本降りの雨。モニュメントのすぐ横の交差点(江ヶ崎こ線橋西)の信号機の赤が雨に煙って、ふと、『マディソン郡の橋』後半のハイライトシーンを想起させました。
  激 しく降る雨の中、主人公のカメラマン、キンケイド(クリント・イーストウッド)運転の車が町を去ろうとするところを、恋人フランチェスカメリル・ストリープ)が涙で見送る場面です。4日間の情事、実らぬ恋のエンディングです。

 余談ですが、このシーンでは雨がポイントになのですが、映画のロケでは快晴続きで、消防車を借りて雨を降らせたのだそうです。                                                                                    (続く)

 

       ●歴史ある英国製橋の保存を①

           ~アートとしての産業遺産~

 

 東京都北区を走るJR京浜東北線に「東十条駅」があります。この駅の南口(王子駅側)に「十条こ線橋」という古い橋があります。橋の長さは約30㍍。

 下の写真がその全景です。

 

f:id:TIAS:20190316172124j:plain

十条こ線橋

 この橋は、1895(明治28)年に、英国のコクラン(コックレーンともいう)という会社で造られ、当初は、日本鉄道本線(現・JR東日本東北本線)の旧荒川橋梁として使われていましたが、その後、橋の架け替えで1932(昭和7)年に東十条のこの地に道路橋として移設されました。

 英国から輸入されて124年、東十条に移って87年。この間、重要なインフラとして地域に貢献してきました。

 しかし、東十条駅南口の整備計画により、この橋は撤去される方向になっています。

なんとか、現状のままでは無理としても、どこか他で再活用できないものでしょうか。第三の人生を歩ませたいと思っています。

 

f:id:TIAS:20190316172147j:plain

下から見た十条こ線橋

 東京産業考古学会の会員でもある筆者は、ヘリテージ・フォトグラファー(遺産写真家)を名乗っていることもあり、この橋をアートとして撮影しました。産業遺産といえば、古く、肩苦しいイメージがないでもありませんが、アートでほぐして皆さんに見てもらいたいと思っています。

f:id:TIAS:20190329141548j:plain

黄昏のシルエット

 

f:id:TIAS:20190329141641j:plain

橋に十字とハート

 取り急ぎ以上です。次回②へと続きます。        (K.O)

 

 

 

 

    東京産業考古学会」ブログを開設しました。

 

 《当会の紹介》


東京産業考古学会」は、産業遺産の調査・研究を行っている団体で、定例的に講演会や見学会を催しています。(※詳しくは当会のホームページをご覧ください)

 

 さて当会では、従来からのニューズレターに加え、ブログ、インスタグラム等のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)でも様々な情報を発信していくことにしました。


 会員の皆様はどうぞ、産業遺産に関する情報をこのブログを利用して発信し、当会をPRしてください。


   また会員以外の方もどうぞブログをお読みになって、みなさんと交流していただければと思っています。

 

 当会主催の講演会や見学会には、会員以外の方も自由に参加いただけます。どうぞ気軽に足をお運びください。


 会員にはどなたでもなれますのでお申し込みください。お待ちしています。

 詳しくはHPをご覧ください。

                                 (以上)