産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

東京産業考古学会6月見学会」

 

                                       ●東京五輪前の大森へ

 

                                 ~ブラックペーパー(海苔)の物語~


  東京産業考古学会の6月のイベントは、大田区にある海苔の資料館『大森 海苔のふるさと館』の見学でした。

 

 海苔養殖業はかつて、東京湾を代表する食の産業でした。しかし、東京都に面する海域での海苔養殖は、1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックの前年の摘み取りをもって、長い歴史に終止符が打たれました。漁業権を放棄させられたからです。

 来年(2020年)、ふたたび東京五輪が開かれます。その前年に当たる今年、東京の海苔養殖について、改めて振り返ってみようということになりました。(…というのがワタクシメの見学会の趣旨解釈)

 

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           (開館10周年を迎えた『海苔のふるさと館』)

 

 江戸前東京湾)で生まれ、全国に波及して行った食品として、にぎり鮨、てんぷら、佃煮などがありますが、海苔もそのひとつです。大森は海苔養殖の中心となった所で、ここから全国にその技術が広がっていきました。


 海苔のことは欧米では俗称、「ブラックペーパー」と呼んでいます。黒い紙ということですね。

 大森のふるさと館には、廃業した海苔漁民が使っていた竹ヒビ、海苔切り包丁、海苔貯蔵用の瓶、ベカ舟などさまざまな用具が展示されています。

 

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           (天日干しの海苔。“ブラックペーパー”です)

 

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       (海苔漁で着た厚手の半纏。袖の長さが左右で違うのは、作業をし

        やすくするため利き手を短くしたため)

 

 昭和35年撮影の大森周辺の大きな航空地図が壁面に貼ってありました。海の上に赤いシールがあり、そこが現在のふるさと館の場所とのこと。地図をよく見ると、旧呑川など東京湾に注ぐ小さな川の流域に、米粒のようなものが点々と並んでいます。海苔採りに使う「ベカ舟」です。


 ふるさと館の学芸員から説明を受けました。


 「昭和37年12月に東京都の全区域、17漁協、約4千戸の漁家が漁業権を放棄させられ、一斉に生活の根拠を失いました。最後の海苔の摘み取りは東京五輪が開かれた昭和39年の前年の春でした」「補償金は多い家では約3千万円。若い漁師は町工場に働きに出、役目を終えた海苔干し場は、多くが補償金で建てたアパートになりました」

 

         ~ ◇         ◆          ◇~

 

 10数年前、海苔の産業遺産を調査したことがあるワタクシメとして、学芸員の話を以下、補足させていただきます。(自宅の押し入れから資料箱を取り出して…)

 

 べか舟が繋留されている航空写真があった呑川ですが、1982(昭和57)年に埋め立てられて緑地帯になり、地元の人たちの散策の場になっています。そこを歩くと、今日では建て替えなどでかなり減りましたが、それでもブルーやグリーンの波形トタンを張り巡らした2階建てのアパートをあちらこちらで見ることが出来ます。空き室が目立ちますが。

 

 漁業権を放棄させられた海苔漁師たちは、建てたアパートの賃料で生活費をまかなうことにしたのです。住所で言えば、大森東や大森南あたりで多く見かけます。筆者はこれこそが、海苔産業が残した産業遺産だと考えています。歴史的建造物なのです。

 関係者に聞きますと、一般的なアパートは6畳一間か4.5畳一間で、風呂はなく、トイレは共用だったそうです。

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     (呑川を埋め立てた緑道沿いに建っているトタンふきのアパート。
       2004年撮影)

 

 それぞれの漁家が保有していた海苔干場(畑)の面積は様々ですが、平均的なアパートの建築費は300万円程度だったそうです。


 漁業補償は、対象となった都内の17組合(組合員4,190人)で、総額330億円が支払われました。単純計算で1組合員当たり1,180万円ということです。

 

 補償金交渉が決着した1962(昭和37)年当時の銀行の1年定期預金利息は5.5%でした。税金など除外して計算すれば、年間利息は月換算で5万4千円です。住む家さえあれば老夫婦2人は働かなくても利息だけでなんとか食べていける額といえます。
 

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      (海苔漁師が建てた代表的なアパート。2008年撮影)

 

 ちなみに前回の東京五輪で金メダル取った女子バレーボールチームの大松博文監督(当時、大日本紡績の資材係長、42歳)の月給は約6万5千円、キャプテンの河西昌枝さんは、寮費などを引かれた後の手取りは約1万8千円だったそうです。

 

 大森沖で最後の海苔摘みがなされて56年経ちました。今年5月から元号は令和。まさに昭和は遠くなりにけり…、ですね。

 

                  以上、ツキナミかつ平凡な締めでした。