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日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

“薬都“トヤマからのつぶやき③与謝野晶子・鉄幹が…~その(二)敦賀港

福井県敦賀港から与謝野晶子は夫・鉄幹を追って欧州へ

 

 1912(明治45)年、東京・新橋-敦賀港駅間に直行列車「欧亜国際連絡列車」が運航を開始しました。敦賀港から日本海を渡る連絡船でウラジオストックへ、そこからシベリア鉄道で欧州に行くルートです。

 この鉄道が開通するや、その年、晶子はパリにいる鉄幹に会うため7人(!)の子供を預けて敦賀港から日本海を渡り、欧州へと旅立ったのでした。

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敦賀ウラジオストック間には連絡線が運航していた

 愛してやまない夫を追って、敦賀港から晶子は日本を離れたわけですが、恐らく彼女の心には別の複雑な思いが去来していたのではないでしょうか。

 といいますのは、敦賀駅からJR小浜線で約1時間西へ行くと小浜駅に着きます。ここ福井県小浜市は、鉄幹を巡って晶子と競った恋のライバル、歌人山川登美子の出身地なのです。その生家は現在、山川登美子記念館となっています。

 登美子は、晶子が敦賀港に来た3年前に病没しています。

 晶子、登美子の2人と鉄幹の関係は、日本歌壇史のエポックでもあり、竹西寛子の『山川登美子』、津村節子『白百合の崖(きし)-山川登美子・歌と恋』などでも紹介されています。

 

■“命のビザ”の難民

 この敦賀港は第二次世界大戦時、ナチスの迫害に遭ってシベリア鉄道で欧州から逃れてきたユダヤ難民がウラジオストックから船で日本に上陸した地点でもあります。

 リトアニアの日本領事館に勤務していた外交官、杉原千畝(ちうね)が1940年、ナチスの迫害から逃れるため同領事館に押し寄せた大勢のユダヤ人難民に対して交付した、いわゆる“命のビザ”を持った亡命者たちでした。ビザ交付は、日本政府の指示に反した行為でした。

 ★千畝がビザ交付の決断に苦悩するさまを、妻・幸子(ゆきこ)がうたった短歌。

 「ビザ交付の 決断に迷ひ 眠れざる 夫のベッドの 軋むを聞けり」

 悩む夫の背中を押したのは幸子でした。3人の幼い子供を抱えながらも、「外務省の命令に背いてビザを出して、あとで私たちがどうなるかわかりませんが、私たちだけが逃げるなんて絶対できません。ビザを交付してください」と。

 敦賀港に上陸した難民は、1940(昭和15)年9月29日から翌年の6月14日までだったとのことですが、その人数ははっきりしません。6千人程度と言われています。

 難民らは、徒歩もしくは敦賀港線を使って敦賀駅まで出て、主に神戸港経由で米国など第三国に渡りました。

                   ◆

 

 敦賀港線(JR敦賀駅敦賀港。2.7㌔)は後に貨物専用線になりましたが、役割を終えて2019年4月に廃止になりました。

 

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廃線となった敦賀港線

 ■赤レンガ建築

 敦賀港周辺は、遊歩道がある緑地帯として整備されており、その一角に「敦賀赤レンガ倉庫」が2棟建っています。

 1905(明治38)年に石油貯蔵庫として建てられました。現在は、レストランやお土産店などを供えた商業施設になっています。

 

 

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敦賀赤レンガ倉庫

 

 下の写真は、敦賀港駅ランプ小屋です。1918(大正7)年に建てられました。 

 まだ電灯がなかった時代、汽車を運行させるため石油ランプを使っていました。危険物でもあり、その管理はレンガ造りの建物でなされていました。

 この建物のレンガには15種類程の刻印が見付かっていますが、製造した工場名ではなく、請け負った職人が業務を区分するため付けたと見られています。

 

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ランプ小屋

 

 なお、敦賀港には2019年11月、新型コロナウイルスの集団感染で有名になったクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」が寄港、乗船客が敦賀市内観光を楽しみました。その3カ月後、横浜港で運航中止になりました。        (奥っくん)