産業遺産へGO! 過去のきらめきに触れたい

日本の近代化に寄与した産業遺産に関する話題

 ◎日本赤煉瓦建造物番付 群馬県場所 令和元年十月

                      《ベスト30》のうち  1~10位

          勧進元 東京産業考古学会 八木司郎

 《順位》 《所在地》  《 名 称 》         《備考》

横綱・・・・1.(富岡市)旧富岡製糸場・・・・・・・・・・・・・・・国宝3棟・重文6棟・総覧・赤煉

横綱・・・・2.  (安中市)旧碓氷峠鉄道施設群・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

             重文(橋梁5基・隧道10基・建物2棟)・総覧・赤煉・赤土・土木

大関・・・・3.(高崎市)旧新町紡績所(クラシェフーズ新町)・・・重文3棟・総覧・赤煉

関脇・・・・4.(前橋市)前橋刑務所煉瓦壁・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

小結・・・・5.(前橋市)旧安田銀行担保倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧

前頭・・・・6.(前橋市)上毛倉庫(株)2号倉庫・3号倉庫・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・7.(伊勢崎市)伊勢崎市境赤レンガ倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧・自指

前頭・・・・8.(館林市他)渡良瀬川橋梁と東武鉄道煉瓦造橋梁・・・・・・・総覧・土木

前頭・・・・9.(桐生市)旧(株)金芳織物工場鋸屋根工場・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧・赤煉

前頭・・・・10.(桐生市)旧矢野蔵群(有隣館、仕込蔵、煉瓦塀)・・・・総覧・赤煉・自指

 

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1-1.旧富岡製糸場・・・・国宝「繰糸所」。1872(明治5)年竣工、木骨煉瓦造、建築面積1,726.92㎡、東面玄関附属、桟瓦葺。旧富岡製糸場は、明治政府が設立した模範的な器械製糸工場である。フランス人の生糸検査人ブリュナの企画指導のもと、横須賀造船所の技師バスティアンが図面を作成し、施工は日本人があたり、明治5年10月4日に操業を開始した。繰糸所は敷地の中心に位置する繰糸を行う建物で、桁行が140mと長大である。キングポストトラスの小屋組や高い天井、鉄製ガラス窓で明るい大空間を実現している。(文化庁データベース参照)煉瓦はフランス積。

 

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1-2.旧富岡製糸場・・・・国宝「東置繭所」。1872(明治5)年竣工。木骨煉瓦造、建築面積1,486.60㎡、2階建、北面庇・北西面・西面及び南面ヴェランダ付、桟瓦葺。東西の置繭所は、繰糸所と直交方向に建つ桁行104m、2階建、ほぼ同形の建物である。眉を乾燥、貯蔵し、乾燥のために多数の窓を持つ、東置繭所は入口正面の建物でアーチの要石に「明治五年」の銘を刻む。旧富岡製糸場は、明治政府が推進した産業近代化の施策を端的に物語る官営の器械製糸工場で、繰糸所と東西の置繭所は我が国の製糸工場建築の模範となった。(文化庁データベース参照)煉瓦はフランス積。

 

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1-3.旧富岡製糸場・・・・国宝「西置繭所」。竣工・構造及び形式等は東置繭所とほぼ同じ。写真は西置繭所の裏側の道路から撮影したもの。この方向から見る人は少ない。右側の建物は繰糸所の一番奥の部分である。煉瓦はフランス積。

 

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1-4.旧富岡製糸所・・・・重要文化財「首長館」(通称:ブリューナ館)。木骨煉瓦造、建築面積917.03㎡、地下室及び四面ヴェランダ付、北面玄関及び廊下・東面教室及び便所附属、桟瓦葺(文化庁データベース参照)

 外に煉瓦造の重要文化財として「女工館」「検査人館」「蒸気釜所」「下水とう及び外とう」がある。

 

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2-1.旧碓氷峠鉄道施設群・・・・重要文化財「第三橋梁」(通称:めがね橋)。1893(明治26)年竣工、煉瓦造四連アーチ橋、橋長91.1m。松井田と軽井沢の間にある旧信越本線の鉄道施設。煉瓦造の橋梁7基、隧道11基、変電所3棟等からなる。橋梁・隧道は明治26年鉄道開通時(橋梁は明治29年に補強)、線路には峠越えの急勾配を克服するアプト式が用いられていた。(文化庁データベース参照)他に、重要文化財として「第二橋梁」「第四橋梁」第五橋梁」「第六橋梁」がある。

 

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2-2.旧碓氷峠鉄道施設群・・・・写真は重要文化財「第六隧道」入口。1893(明治26)年竣工、煉瓦造隧道、延長546.2m、甲横坑及び乙横坑付。現在、重要文化財に指定されている隧道は「第一隧道」「第二隧道」「第三隧道」「第四隧道」「第五隧道」「第六隧道」「第七隧道」「第八隧道」「第九隧道」「第十隧道」がある。第一隧道から第十隧道まで遊歩道として開放されている。

 

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2-3.旧碓氷峠鉄道施設群・・・・写真は重要文化財「丸山変電所機械室」。1911(明治44)年竣工。煉瓦造、建築面積354.75㎡、桟瓦葺一部鉄板葺、南面階段附属(文化庁データベース参照) 機械室には変圧機と回転変流機、昇圧機が設置されていた。横川発電所から特別高圧送電線により三相交流25ヘルツ、6,600ボルトで送られてきた電機は、変圧機によって電圧を変え、回転変流機により交流から直流に変えられた。そして、直流650ボルトで第三軌条(サードレール)に送電され、電気機関車を動かしていた。(旧碓氷峠鉄道施設ガイドブック参照)

 

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2-4.旧碓氷峠鉄道施設群・・・・写真は重要文化財「丸山変電所蓄電池室」。1911(明治44)年竣工、煉瓦造、建築面積430.77㎡、桟瓦葺一部鉄板葺、背面小屋附属、鉄骨鉄筋コンクリート造、建築面積34.63㎡。(文化庁データベース参照)

 蓄電池室には1列52個が6列、計312個の鉛蓄電池が並べられ、横川火力発電所から供給された電気を蓄えて、EC40形電気機関車に供給していた。その後、新型電気機関車の導入により大量の蓄電池は不用になり、1928’(昭和3)年頃から「機械室」として使用された。(旧碓氷峠鉄道施設ガイドブック参照)

 

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3-1.旧新町紡績所(クラシェフーズ新町)・・・・写真は重要文化財「旧新町紡績所 倉庫」。1897(明治30)年頃竣工、煉瓦造、建築面積293.66㎡、桟瓦葺1棟。旧新町紡績所は富岡製糸場から5年後の明治10年に明治政府が設立した絹糸紡績工場である。佐々木長淳を総括とし、ドイツ人の指導を受けながら大工の山添喜三郎ら日本人の手で建設された。明治42年まで操業を続け、その間工場の増築や建物の新築が図られてきた。工場本館のコの字形切妻造屋根部は官営期工場で、独特なトラスなどに洋風建築の技術と日本在来の技術の併用が見られる。鋸屋根の増築部、煉瓦造の機関室や倉庫は、明治期の紡績工場の発展形態を示している。(文化庁データベース参照)

 

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3-2.旧新町紡績所(クラシェフーズ新町)・・・・写真は重要文化財「旧新町紡績所 機関室」1898(明治31)年竣工、煉瓦造、建築面積414.21㎡、一部地下一階、鉄板葺、北面倉庫附属、木造、建築面積70.59㎡、桟瓦葺。(文化庁データベース参照)

他に、重要文化財「二階家煉瓦庫」がある。

 

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4-1.前橋刑務所煉瓦壁・・・・写真は「前橋刑務所正門」。1888(明治21)年「前橋監獄」が竣工。1922(大正11)年「前橋刑務所」の名称になった。周囲約1kmの及ぶ煉瓦造の高い壁。赤煉瓦総数は約170万個。(随筆:出典失念)

 

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4-2.前橋刑務所煉瓦壁・・・・写真は「前橋刑務所 煉瓦壁」。壁を支える補強のための柱は177ヵ所。刑務所の隣接地には家が並び、掘割に沿う道路は散歩道になっている。

(随筆:出典失念)

 

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5-1.旧安田銀行担保倉庫(協同組合前橋商品市場倉庫)・・・・登録有形文化財(建造物)。1913(大正2)年竣工、煉瓦造2階建、瓦葺、建築面積693㎡。群馬商業銀行附属前橋倉庫として建設。主として生糸等の担保用倉庫で、桁行30間 梁間6間規模、切妻造、桟瓦葺の煉瓦造2階建、煉瓦は日本煉瓦製造製、イギリス積、階下2枚・階上1枚半積で木造床、小屋組は木造のキングポストトラスである。(文化庁データベース参照)

 

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5-2.旧安田銀行担保倉庫(協同組合前橋商品市場倉庫)・・・・写真は旧安田銀行担保倉庫の北西面側を撮影したもの。当初は南側にもう一棟、同様の倉庫があったが1945(昭和20)の前橋空襲で焼け落ちたという。(パンフレット参照)

 

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6-1.上毛倉庫(株)・・・・写真は「道路側から見た2号倉庫」。矢印の銘板に「上毛倉庫株式会社 田中町レンガ倉庫 1896年竣工 前橋が「糸のまち」として栄えていた明治中期、繭・生糸の保管の必要性から、当時の群馬県知事や日本銀行の後援のもと、江原芳平を中心とした第三十九国立銀行(現・群馬銀行)の役員らを発起人として、明治28年(1895)12月6日上毛倉庫株式会社が設立されました。翌1896年前橋駅前の田中町(現・表町)に、2階建て瓦葺レンガ造の倉庫3棟(床面積295坪)が建てられ業務を開始しました。このレンガは、東京駅舎と同じく、深谷市の日本煉瓦製造株式会社で作られたものです。前橋空襲では屋根が焼け落ちたものの、戦後にすぐに復旧しました。その後、昭和25年の戦災復興区画整理の道路拡幅の為、けやき通り側の1棟が解体されました。残された2棟のレンガ倉庫の保管品は、乾繭・生糸・食料品・家具・家電製品・新聞用紙・段ボール原紙等、時代と共に移り変わり、倉庫としての使命を果たし続けながら、現在に至っております。平成27年12月 創立120周年記念事業により設置 上毛倉庫株式会社 代表取締役社長 江原友樹」と記されていた。(説明板参照)

 

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6-2.上毛倉庫(株)3号倉庫・・・・前橋駅側から見て正面奥に見えるのが「3号倉庫」

 

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7-1.伊勢崎市境赤レンガ倉庫・・・・建築年:1919(大正8)年、用途:当初 繭保管庫・生繭乾燥場、建築主:境運輸倉庫株式会社(当時)、建物構造:レンガ造(イギリス積)、建築面積:355.19㎡。境赤レンガ倉庫は、大正8年に繭の保管庫として建築され、平成12年に旧境町が取得。平成23年東日本大震災により、屋根の葺き替え工事を実施。平成26年に活用計画作成後、赤レンガ倉庫活用検討会議を開始。地元の代表者の方々の声を活かしながら、平成28年12月工事開始、平成29年11月完成。(伊勢崎市境赤レンガ倉庫パンフレット参照)

 

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7-2.伊勢崎市赤レンガ倉庫・・・・正面右斜めから見た旧境運輸倉庫赤レンガ倉庫

建物はレンガ造2階建、長さ20間(36.4m)× 幅5間(9.1m)× 高さ9.6m。レンガ壁はイギリス積み、繭の輸送には東武伊勢崎線 1910(明治43)開通が利用され、富岡製糸場にも運ばれたそうです。かって蚕種・養蚕・製糸・織物などの絹産業で栄えた境地区の歴史を今に伝える貴重な近代化資産である。(パンフレット「境まちなか散策マップ 境遺産めぐり」参照)

 

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8.渡良瀬川橋梁と東武鉄道煉瓦造橋梁・・・・写真は東武佐野線渡良瀬川橋梁(館林市側)の煉瓦造橋脚。群馬県内の東武鉄道のうち煉瓦造橋脚と橋台のある橋梁16ヵ所を調査した小野田滋によれば、渡良瀬川橋梁が最長で396.0mの橋梁である。2基の橋台及び16基中12基の橋脚は煉瓦造りである。特に橋脚には錫飾りが付いている。流水部分はコンクリート製になっている。(土木学会 関東支部ホームページ参照)

 

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 9-1.旧(株)金芳織物工場鋸屋根工場(ベーカリーカフェ・レンガ)・・・・1919(大正8)年竣工、煉瓦造平屋建、鉄板葺、建築面積298㎡。大正8年12月14日上棟の織物工場。施工は高崎市の島田組。外周壁を煉瓦造とし、木造で「鋸刃」状の屋根を架けた標準的な工場建築の造りを示す。京都西陣と並ぶ高級織物産地として知られる桐生の繁栄ぶりを今に伝えていることで貴重である。(文化庁データベース参照)

 以前は金井レース工業と称していた。

 

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9-2.旧(株)金芳織物工場鋸屋根工場(ベーカリーカフェ・レンガ)・・・・写真は2014.3.21撮影であるが、すでにパン屋になっていた。かなり繁盛していた。

 

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10-1.旧矢野蔵群(煉瓦造有鄰館)・・・・桐生市指定重要文化財 旧矢野蔵群(有鄰館)は、1717(享保2)年に現在の株式会社矢野の創業者である近江商人の初代 矢野久左衛門が桐生に移住し、二代目久左衛門が1749(寛延2)年に現在地で店舗を構えて以来、桐生の商業に大きく貢献してきた矢野本店の蔵群の総称である。この蔵群は酒・醤油・などの醸造業が営まれていた頃の建物で、江戸時代から大正時代に建築された蔵9棟と祠社2棟が桐生市指定重要文化財になっている。他に、煉瓦造仕込蔵(現レストハウス)、長い煉瓦塀がある。(有鄰館案内板参照)

 

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10-2.旧矢野商店蔵群(煉瓦造有鄰館)・・・・煉瓦造の腰部分の水切り煉瓦には「逆さ梅にタ」の刻印が並んでいる。この煉瓦の製造所は東京都北区堀船の田中煉瓦工場である。田中煉瓦工場は関東大震災で煉瓦焼成窯が損傷したので煉瓦製造は休止したが、経験を活かし煉瓦販売業に転換していた。煉瓦工場の跡地は現在も存在し、屋敷内に同じ焼き過ぎ煉瓦が多数残っている。

 ◎日本赤煉瓦建造物番付 群馬県場所 令和元年十月

          《ベスト30》のうち 11~20位

       勧進元  東京産業考古学会  行司  八木司郎

  《順位》  《所在地》    《 名 称 》         《備考》

前頭・・・・11.(桐生市みどり市)わたらせ渓谷鐡道トンネル群・・・・・・・登録・総覧

前頭・・・・12.(下仁田町下仁田煉瓦造倉庫2棟・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・13.(中之条町)光山商事 煉瓦造2連棟倉庫・5号倉庫・・・・・・・・総覧

前頭・・・・14.(富岡市)富岡倉庫 煉瓦造1号倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・15.(甘楽町甘楽町歴史民俗資料館

            (旧甘楽社小幡組煉瓦造倉庫)・・・・・・・・・・・・総覧・自指            

前頭・・・・16.(富岡市)小間金属工業倉庫

            (旧上高瀬製糸組合煉瓦造倉庫)・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・17.(前橋市)旧大竹酒造煉瓦蔵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧

前頭・・・・18.(富岡市)旧上丹生製糸組合煉瓦造倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・19.(前橋市)旧勝山社煉瓦蔵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧

前頭・・・・20.(前橋市)旧奈良製糸煉瓦造倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

 

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11-1.わたらせ渓谷鐡道坂下トンネル・・・・(写真:2019.9.30撮影)

江戸川橋梁より約1800m南西に位置する。延長82m。単線仕様の直線状の隧道。坑口は煉瓦4枚厚の馬蹄形とし、南坑門をほぼフランス積風の布積で築く。官鉄によるわが国初のトンネル規格である「鉄作乙第4375号型」とほぼ同じ断面をとる。(文化庁データベース参照)

 

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11-2.わたらせ渓谷鐡道第二神梅トンネル・・・・(写真:2019.9.30撮影)

第三神梅トンネルより約90m南東に位置する。延長27m。単線仕様の直線状の隧道で、覆工は全体を煉瓦積で築く。坑口は煉瓦4枚厚で江戸切仕上げの要石を用い、坑門は南北で積み方の異なる石積とする。北側には延長7.7mの谷積擁壁を連続的に築く。(文化庁データベース参照)

 

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12-1.下仁田煉瓦造倉庫 2棟・・・・(写真:2012.9.5撮影)

上信電鉄下仁田駅前に位置する煉瓦造 2棟のうち、左側の倉庫。出入口2カ所、2階の観音開きの鉄の扉は4カ所。右奥に見えるのは規模が小さい煉瓦造倉庫。

 

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12-2.下仁田煉瓦造倉庫2棟・・・・(撮影日:12-1と同じ)

上信電鉄下仁田駅前に位置する2棟の煉瓦造倉庫。裏側から撮影した写真。手前の倉庫は規模が小さい。

 

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13-1.光山商事 煉瓦造2連棟倉庫・・・・(写真:2019.9.27撮影)

中之町伊勢崎942に建つ、光山商事の煉瓦造2連棟倉庫。腰から下は小口積、外壁はイギリス積。腰から下の小口面に、太字縦書きの「七五」の刻印、〇の中にサ・タ・カ・・・などの刻印が多く見つかる。上敷免製の刻印もあった。

 

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13-2.光山商事 5号倉庫・・・・(撮影日:13-1と同じ) 写真の左側が道側。5号倉庫の手前の広場から右奥に進むと2連棟の倉庫(13-1)が建っている。5号倉庫からも上敷免製の刻印があった。

 

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14-1.富岡倉庫煉瓦造1号倉庫・・・・(写真:2014.11.8撮影)

上信電鉄富岡駅近くに建つている2階建の煉瓦造倉庫である。正面に車回しのロータリーに樹木が繁り、正面からの撮影はできなかった。

 

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14-2.富岡倉庫煉瓦造1号倉庫・・・・1号倉庫の裏側(撮影日:14-1と同じ)

写真(14-1)の1号倉庫裏側を撮影したもの。正面側には出入口が5~6ヵ所あったが、裏側の開口部は少ない建物になっている。

 

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15-1.甘楽町歴史民俗資料館(旧甘楽社小幡煉瓦造倉庫)・・・・(写真:2012.9.5撮影)

「この建物は、1926(大正15)年1月、製糸工場甘楽社小幡組の繭倉庫として建設された。戦時下の1943(昭和18)年製糸工場が閉鎖されたため、小幡町農業会に移管され、次いで甘楽町農業協同組合が引き継いで、農産物・肥料等の倉庫として使用していた。1984(昭和59)年2月、町がこれを買い受け、文化庁の指導を受け資料館に転用のうえ保存するため、1985(昭和60)12月から改装に着手し、1987(昭和62)5月、甘楽町歴史民俗資料館として開館した。この地の養蚕最盛期を象徴する建物として、1986(昭和61)年町の重要文化財に指定された。煉瓦造2階建・瓦葺き・延床面積289㎡」(説明板参照)

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15-2.甘楽町歴史民俗資料館(旧甘楽社小幡組煉瓦造倉庫)・・・・甘楽町歴史民俗資料館の裏側(撮影日:15-1と同じ)新版日本近代建築総覧(1983年11月発行)によれば、設計者は「小林某」になっている。

 

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16-1.小間金属工業倉庫(旧上高瀬製糸組合煉瓦造倉庫)・・・・(写真:2012.9.5撮影)

富岡市上高瀬182に建っ。新版日本近代建築総覧(1983年11月発行)によれば、施工者は「吉沢某」としている。

 

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16-2.小間金属工業倉庫(旧上高瀬製糸組合煉瓦造倉庫)・・・・小間金属工業倉庫の裏側(撮影日:16-1と同じ)

 

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17-1.旧大竹酒造煉瓦蔵・・・・1919~1926(大正後期)竣工。煉瓦造2階建、瓦葺、建築面積236㎡。前橋の中心市街地(前橋市三河町一丁目28-23)に残る唯一の酒造蔵。1988(昭和8)年に大竹酒造が建物を取得し、1972(昭和47)年まで醸造を行なっていた。煉瓦造を主体とするが壁厚は一枚分で内部に柱を二列八本立て、和小屋を組む。外壁は軒蛇腹、破風や柱型の一部に焼き過ぎ煉瓦を配し、立体感を強調している。(文化庁データベース参照)(写真:2014.11.7撮影)

 

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17-2.旧大竹酒造煉瓦蔵・・・・正面 (撮影日:17-1と同じ)

 

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18-1.上丹生製糸組合煉瓦造倉庫・・・・富岡市上高瀬にある2階建、瓦葺き寄棟の煉瓦造倉庫。(写真:2012.9.5撮影)T字路の一角にあり、当時、未活用物件のようであった。正面中央の出入口はシャッターに改造されていた。

 

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18-2.上丹生製糸組合煉瓦造倉庫・・・・他の製糸組合の煉瓦造倉庫に比べ窓が多いように感じた。(撮影日:18-2と同じ)

 

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19-1.旧勝山社煉瓦蔵・・・・1902(明治35)年竣工。煉瓦造2階建、瓦葺、建築面積45㎡。前橋市本町2-3-8。桁行8.8m梁間5.1m妻入り煉瓦造2階建で、屋根は切妻造桟瓦葺である。外壁の煉瓦はイギリス積で、鉢巻や窓まわりに土蔵風の意匠を見せる。正面出入口は後世の改修。小屋組はキングポスト・トラスである。軒が高く重厚な外観を呈している。(文化庁データベース参照)(写真:2012.3.18撮影)

 

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19-2.旧勝山社煉瓦蔵・・・・側面を写す。煉瓦はすべて焼き過ぎ煉瓦を使用している。焼き過ぎ煉瓦は普通煉瓦の2倍弱くらい高価であるため、建築主は裕福な人物であったとみられる。(撮影日:19-1と同じ)

 

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20-1.旧奈良製糸煉瓦造倉庫・・・・(写真:2014.11.7撮影)現在、民間の人が居住しており、手前の瓦葺きの下屋は改修されたものと見られる。軒先の蛇腹には異形煉瓦を使用したり、2階の開閉扉下に石材を敷いたり、周りに要石のようなものを取り付けるなど、他の製糸保管倉庫には見られない外観を呈している。

 

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20-2.旧奈良製糸煉瓦造倉庫・・・・道路側から見た旧奈良製糸煉瓦造倉庫の裏側。切妻造りの2階建。妻面上部の三角部分中央に円形の明かり窓を設けている。この種の意匠の製作には優れた技術力を持った職人が施工したものと見られる。また、高い腰部には焼き過ぎ煉瓦を使用している。(撮影日:20-1と同じ)

 ◎日本赤煉瓦建造物番付 群馬県場所 令和元年十月

            《ベスト30》のうちの21~30位

         勧進元  東京産業考古学会  行司  八木司郎

《順位》  《所在地》    《 名 称 》         《備考》

前頭・・・・21.(高崎市上信電鉄 烏川橋梁の煉瓦造橋梁・橋台・・・・・・・・総覧

前頭・・・・22.(高崎市)吉田家(旧釜浅肥料店)煉瓦造倉庫・・・・・・・・・・総覧・自指

前頭・・・・23.(安中市)旧米庄商店 煉瓦造米保管倉庫・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・24.(伊勢崎市)旧時報鐘楼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧・赤煉・自指

前頭・・・・25.(高崎市)旧茂木銀行煉瓦塀 (現 山田文庫煉瓦塀)・・・・・総覧・自指

前頭・・・・26.(高崎市)美蜂酒類煉瓦造倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・27.(安中市)有田屋 煉瓦造煙突(丸形)・・・・・・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・28.(高崎市)岡醤油醸造(株)煉瓦造煙突2基・・・・・・・・・・・・・総覧

前頭・・・・29.(桐生市)旧桐生高等学校染織学校正門・・・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧

頭・・・・30.(桐生市)無鄰館煉瓦造塀一及び二・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・総覧

 

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 21.上信電鉄 烏川橋梁の煉瓦造橋脚・橋台・・・・上信電鉄の前身上野鉄道(こうずけてつどう)は1897(明治30)年に軌道763mm・蒸気動力で営業を開始した。1924(大正13)年 軌道を1067mmにし電化を採用した。橋脚の写真を見ると、中央上部は幅が狭く軽便鉄道時代の跡が残っており、軌道を拡げた時、橋脚の上流、下流部分を拡張強化した跡が見られる。また、当初は9基の橋脚であったが、4基増設し13基の橋脚にした。今回、現地に行ったら流水部分の橋脚がコンクリート製になっており、煉瓦造橋脚5基と橋台2基が残っていた。(Wikipedia参照)

 

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22.吉田家(旧釜浅肥料店)煉瓦造倉庫・・・・吉田家は江戸期から昭和初期まで続いた肥料店の老舗である。木造の旧店舗や主屋、門、煉瓦倉庫などが商都高崎の歴史を今に伝えている。(高崎市ホームページ参照)煉瓦倉庫の出入口は3ヶ所あり、瓦葺寄棟の屋根のは3ヶ所換気用の出窓がある。恐らく倉庫内は3区画になっていると見られる。湿気防止のため外壁の腰の部分がかなり高く積まれてる。

 

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23.旧米庄商店 煉瓦造米保管倉庫・・・・城下町安中の中心地である3丁目にある。現在は休業しているパチンコ屋が広場の反対側にある、恐らくパチンコ屋を含めた土地が米庄商店の敷地であったと見られる。米保管用の煉瓦造倉庫の軒下蛇腹は5段積み。水平の蛇腹から妻面の軒下蛇腹に変わる部分の積み方に特徴がある。普通煉瓦を削り出し異形煉瓦に仕上げている点に煉瓦職人の高い技術力が見られる。

 

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24.旧時報鐘楼・・・・横浜で薬種商を営んでいた小林桂助(市内三光町出身)の寄付で1915(大正4)年に着工、翌年に竣工した。江戸時代から親しまれていた中台寺の釣鐘を塔部に移して市民に時を告げていた。釣鐘は戦時中に金属回収で供出され、塔屋部は戦災で焼失した。市政施行50周年を記念して、創建当時のドーム状の姿に復元し、保存されることになった。(説明板参照) 建築総覧などでは、木骨煉瓦造となっていたが、近代化遺産総合調査で「鉄筋コンクリート造」にされた。現地の説明板には「鉄筋コンクリート煉瓦張り」なっているが、本物の煉瓦を多用しているので「鉄筋コンクリート煉瓦造」とすべきであると考えている。

 

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25.旧茂木銀行煉瓦塀(現山田文庫煉瓦塀)・・明治・大正・昭和と高崎の産業界で中心的な役割を担った山田昌吉、山田勝次郎らの居宅でしたが、1974(昭和49)年に勝次郎が創設した(財)山田文庫の図書館として、現在一般に公開されている。屋敷蔵、土蔵2棟、明治16年に移築した茶室、九蔵町の茂木銀行から移築されたと伝えられる煉瓦塀などが近代商都高崎の歴史を物語っている。煉瓦塀は高崎市内で現存する最古の煉瓦塀といわれている。1998(平成10)年「たかさき都市景観賞」を受賞している。(説明板参照)

 

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26.美蜂酒類煉瓦造倉庫・・・・戦時中の酒不足に対応するため、群馬県内の甘藷等により焼酎や合成酒の製造からスタートし、戦後、幾多の困難を乗り越えて、現在は甲類焼酎を始めとした酒類全般の製造販売までを行うアルコール総合メーカーになっている。

煉瓦造は外壁は長手積(半枚)であるが、開口部は厚く見えるので内側に漆喰壁かコンクリート壁が張ってあると見られる。(会社のホームページ参照)

 

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27.有田屋 煉瓦造煙突(丸形)・・・・安中藩の御用商人として有田屋は1832(天保3)年より190年近く、味噌、醤油の製造を続けている老舗である。有田屋の一族は、本業の醸造業だけでなく、明治、大正、昭和の三代に亘って日本の教育、社会、文化に貢献した多数の人物を輩出したことでも知られている。三代目治郎は新島襄に師事しキリスト教の洗礼をうけ、安中教会の建設や新島なき後の同志社英学校の運営に尽くし新島襄・八重との交流も知られている。(有田屋のパンフレット参照)煙突の煉瓦はすべて小口積みであり、先端は損壊しているが、古い写真を見るとかなり高く90尺煙突と見られる。高さ2mぐらいのところに蛇腹と模様が描かれていた。(有田屋のパンレット参照)

 

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28.岡醤油醸造(株)煉瓦造煙突2基・・・・1787(天保7)年 近江商人 初代 岡忠兵衛が足尾銅山から江戸へ銅を運ぶ街道の要衝として栄えた群馬県大間々の地に「河内屋」の屋号を掲げ、醤油醸造業を営んだのがはじまりである。1897(明治30)年 四代目宗一郎が高崎市常盤町の旧中山道沿いに支店を開設したのが現在地である。合理化のため醤油の醸造は大間々を行なっており、高崎では醤油と関連商品を販売しているという。(会社のホームページ参照)

 

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29.旧桐生高等染織学校正門・・・・1916(大正5)年竣工。煉瓦造、鉄製門扉附属、高さ3.7m、幅16.8m。旧桐生高等染織学校創立時の正門。本館の移設に応じて、本館玄関前の現位置に移設保存された。煉瓦造の門柱上部四面にゴシック風のポーチコを付けて頂部に門灯を掲げる。東京大学本郷キャンパスの煉瓦塀に似た門として知られる。(文化庁データベース参照)

 

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30-1.無鄰館煉塀一(旧北川織物工場女工宿舎煉瓦造外壁)・・・・1916(大正5)年頃建築。煉瓦造、延長18m。敷地北側境界に沿って建つ高さ6.2m、延長18.3mの煉瓦塀。防火を目的に、工場女工宿舎の北側外壁として建てられた。煉瓦をイギリス積で積上げ、現在は鉄骨で補強する。工場主屋の鋸屋根と共に地域の歴史的景観を特徴づける。(文化庁データベース参照)

 

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30-2.無鄰館煉瓦塀二(旧北川織物工場煉瓦塀)・・・・1916(大正5)年頃建築。煉瓦造、総延長33m。女工宿舎煉瓦造外壁の両端から敷地北西隅及び北東隅まで延びる煉瓦造。高さ2.4mで、東側延長14.0m、西側延長19.2mになる。煉瓦の寸法ならびに積方は女工宿舎煉瓦外壁と同じイギリス積で、一連の景観を形成する。(文化庁データベース参照)

 

《備考》 (略字)

国宝・・・・国宝に指定されているもの

重文・・・・国指定重要文化財に指定されているもの

登録・・・・登録有形文化財(建造物)に登録されているもの

総覧・・・・群馬県近代化遺産総覧(平成3年度)に記載されているもの

赤煉・・・・日本赤煉瓦建築番付に記載されているもの

赤土・・・・日本赤煉瓦土木番付に記載されているもの

土木・・・・日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2000に載っているもの

自指・・・・市(町)指定文化財に指定されているもの

無・・・・・・無指定のもの

 ◎日本赤煉瓦建築物番付 栃木県場所 令和元年九月

           《ベスト30》のうち1~10位

         勧進元 東京産業考古学会 行司 八木司郎

 《順位》《所在地》 《 名 称 》            《備考》

横綱・・・・1.(野木町)旧下野煉化製造会社煉瓦窯・・・・・・・・・・・・・・・・重文・調査・赤煉

横綱・・・・2.(高根沢町宇都宮市)鬼怒川橋梁

     (JR東北本線宝積寺駅・岡本駅間上り線)・・・・・・・・・・・調査・土木

大関・・・・3.(佐野市群馬県館林市渡良瀬川橋梁 (田島駅渡瀬駅間)

         と東武佐野線の煉瓦造橋梁群・・・・・・・・・・・・・・・・調査

関脇・・・・4.(大田原市矢板市)箒川橋梁(野崎駅・矢板駅間)と

         JR東北本線の煉瓦造橋梁群・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査

小結・・・・5.(真岡市)五行川(勤行川)橋梁(北真岡駅西田井駅間)と

         真岡鉄道の煉瓦造橋梁群・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査・土木

小結・・・・6.(足利市)トチセン(旧足利織物)・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・調査

前頭・・・・7.(宇都宮市宇都宮市水道戸祭配水場配水池・・・・・・・・・・登録・調査・土木

前頭・・・・8.(日光市足尾銅山煉瓦構造物群・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査・赤土

前頭・・・・9.(那須塩原市那須拓陽高校大山記念館・・・・・・・・・・・・・・調査・赤煉

前頭・・・・10.(野木町)旧新井製糸所煉瓦蔵・漆喰蔵・・・・・・・・・・・・・登録

 

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1. 旧下野煉化製造会社煉瓦窯・・・・1889(明治22)年頃竣工。煉瓦及び木造、建築面積840.0㎡、十六角造、鉄板葺、中央煙突付、階段2箇所附属。1979(昭和54)年2月3日国指定重要文化財に指定。明治初年から我国でも造られ始めたドイツのホフマン式輪窯という煉瓦焼成用の大規模な窯である。煉瓦造で平面十六角形(差し渡し32.6m)の中央に煙突(高さ34.3m)を立て、木造の上屋を架ける。窯は環状トンネル型で、16区画に分かれ、順次循環・移動しながら煉瓦を焼く。煉瓦造の建造物として優れており、建築材料である煉瓦を製造した産業遺跡の一つとしても、きわめて価値が高い。(文化庁データベース参照)

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2. 鬼怒川橋梁・・・・JR東北本線宝積寺駅・岡本駅間の上り線の橋梁である。ワーレントラスは鉄道院が設計し、東京石川島造船所で1915(大正4)年に製作された。架設は1917(大正6)年、橋長482.9m、支間長29.7mのワーレントラス10連と支間長12.9mのブレートガーター11連の混合橋である。橋脚は長方形で隅石飾りと三角水切りの付いた美しい煉瓦造りである。全体として橋脚20箇所がすべて赤煉瓦と石造で建設されている。栃木県内で最も多く赤煉瓦を使用している構造物は、この鬼怒川橋梁である。

 

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3. 渡良瀬川橋梁・・・・東武佐野線田島駅渡瀬駅間の橋梁である。1914(大正3)年に架設された橋長396mの単線橋梁である。アメリカン・ブリッジ社製作の曲弦ブラットトラス橋で輸入品である。夏草が繁っており、近くで撮影できなかった。群馬県館林市側は橋脚を含めて新しいものに改修されており、当初の構造物は全体の約1/3程度である。東武佐野線の橋梁のなかで次に長いのは、橋長87mの第三秋山川橋梁(多田駅葛生駅間)で橋脚は煉瓦造である。

 

 

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4. 箒川橋梁・・・・JR東北本線野崎駅・矢板駅間の上り線の橋梁である。橋長は322.7m、支間長22.9mの上部プレートガーター14連。13箇所の橋脚は煉瓦造で角部に石材を使用している。河床保護のため特殊なコンクリートブロックを敷き詰めてある。

栃木県内の東北本線で、次に長い橋梁は那珂川橋梁(黒磯駅高久駅間上り線)橋長126.89mで、橋脚は煉瓦造である。

 

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5. 五行川(勤行川)橋梁・・・・真岡線北真岡駅西田井駅間にある五行川の橋梁である。1913(大正2)年7月11日の鉄道開業に合わせて架設された橋長42.71mの単線ポニーワーレントラス(支間長29.98m)と単線上路プレートガーターの混合橋である。

真岡線には五行川橋梁とほぼ同一の小貝川橋梁(西田井駅益子駅間)がある。真岡線には他にも橋梁があるがすべて煉瓦造である。

 

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6-1. トチセン(旧足利織物)・・・・「赤レンガ捺染工場」1913(大正2)年~1919(大正8)年頃創業、煉瓦造平屋建、瓦葺、建築面積1,587㎡、1999(平成11)年11月18日登録有形文化財(建造物)に登録。煉瓦造の外壁と木造の内部軸組からなる広大な工場建築で、6連の鋸屋根を架ける。頂部まで立ち登る柱型と重厚な軒蛇腹とで縁取る妻壁の意匠や、出入口・窓の大きな開口部を一石のまぐさ石で支える手法に特色がある。(文化庁データベース参照)

 

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6-2. トチセン(旧足利織物)・・・・「赤レンガサラン工場」1913(大正2)~1919(大正8)年頃創業、煉瓦造平屋建、瓦葺、建築面積357㎡、1999(平成11)年11月18日登録有形文化財(建造物)に登録。東西棟の長大な工場建築。煉瓦造、切妻造で、東妻側に差し掛け屋根の張り出しを設ける。北側面大きな石材を窓枠とする窓が密に並んでいる点に特色がある。北面東半部では上部にも窓を設けて二階建ての趣き見せているが、上段の窓は後補。(文化庁データベース参照)

3件目の登録有形文化財(建造物)「汽罐室」:煉瓦造平屋建、スレート葺、建築面積239㎡、ボイラー2基付。工場敷地の南西隅に位置する煉瓦造平屋建で、波形スレート葺の切妻屋根を2連にかける。妻壁は北棟が山形、増築の南棟が方形である。外壁は煉瓦のイギリス積で柱形が付く。内部にはランカシャーボイラーを2基ずつ設置した。黒色迷彩塗料が残り戦時を物語る。(文化庁データベース参照)

 

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7. 宇都宮市水道戸祭配水場配水池・・・・1915(大正4)年竣工、煉瓦造及びコンクリート造、面積1,910㎡、2006(平成18)年10月18日登録有形文化財(建造物)に登録。

市の中心部に位置する。コンクリート造の一辺31mの正方形の2池を並列し、導水壁の上部に煉瓦5枚厚の連続欠円アーチで屋蓋をつくる。外壁はフランス積風の煉瓦貼とし、隅部と階段には花崗岩を用いる。宇都宮市近代化の水道施設遺構のひとつ。(文化庁データベース参照)側面の煉瓦5枚厚の連続欠円アーチ部は12面あり、約62mの長さで壮大な景観である。反対側も同じ造りであり、欠円アーチ部は24面、階段の斜面4面(約2.5m×4面)合計28面、約134mの赤煉瓦壁が水道山の緑地によく映えている。赤煉瓦は手抜き成形の焼き過ぎ煉瓦をフランス積で積むとは美的感覚の人物が設計したものと見られる。

 

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8-1. 足尾銅山煉瓦構造物群(宇都野火薬庫跡)・・・・宇都野火薬庫は1909(明治42)年に造られたと言われる。足尾銅山では掘削の際の発破として火薬は必需品であり、扱いは非常に厳重であった。写真は火薬庫跡の隧道の入口か。

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8-2. 足尾銅山煉瓦構造物群・・・・(宇都野火薬庫跡)宇都野火薬庫の建物は煉瓦造1棟、石造3棟(うち1棟は小規模の石造)があった。4棟の火薬庫は山腹に造成された敷地に各々土手で囲まれて独立した空間に建てられていた。

その他、小滝地区、通洞地区の製錬所跡、選鉱所跡等にも煉瓦構造物が残っている。

 

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9. 那須拓陽高校大山記念館・・・・明治の那須野が原開拓により大山農場地内に建てられた別邸である。大山記念館の建設時期は不明確であるが、建築用煉瓦(赤煉瓦)が1903(明治36)年~1909(明治42)年にかけて製造され、その一部を別邸に使用したといわれる。別邸は内部や天井が改装されているとはいえ、全体的に創建当時の姿を留めており、素朴で重厚な明治建築であり、那須野が原で唯一の赤煉瓦の別邸でもある。

1970(昭和45)年、大山家から栃木県に譲渡され、県立那須農業高校(現那須拓陽高校)の実習農場内の施設として維持され、「大山記念館」として整備されている。

 

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10. 旧新井製糸所煉瓦蔵・・・・新井家には登録有形文化財(建造物)として登録された建物が3棟ある。「旧新井製糸所煉瓦蔵」「旧新井製糸所漆喰蔵」「旧新井製糸所事務室」である。「旧新井製糸所漆喰蔵」は1894(明治27)年、煉瓦造及び土蔵造2階建、瓦葺、建築面積42㎡、1階は繭の保管庫、2階は生糸製品庫として建てられた。1階の外壁は下野煉化製造の焼き過ぎ煉瓦の三等品を積み、2階の壁は漆喰土蔵造りに仕上げていた。この頃の新井製糸所はまだ小規模の養蚕家であり生糸の生産量もわずかであった。1899(明治32)年富岡製糸場を視察して機械製糸に転換した。その後、飛躍的に事業を拡大し、1907(明治40)年には従業員数女工・男工合わせて190名、総釜数300で県内で有数の製糸工場であった。1902(明治35)年養蚕飼育のため「旧新井製糸所煉瓦蔵」を建設した。煉瓦はすべて旧下野煉化製造の屑煉瓦(不良品)を購入して建築した。そのため外壁の色合いは不揃いである。工事には見習いの職人を用いて技術向上を図った。関東大震災東日本大震災にも耐え壁面に亀裂が起きなかったという。

 

 ◎日本赤煉瓦建築物番付 栃木県場所 令和元年九月

           《ベスト30》のうち11~20

        勧進元  東京産業考古学会  行司  八木司郎

 《順位》 《所在地》   《 名 称 》         《備考》

前頭・・・・11. (宇都宮市宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫

        (旧第六十六歩兵連隊倉庫)・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・調査・赤煉

前頭・・・・12.(日光市)旧足尾銅山鉱業事務所付属書庫・・・・・・・・・・登録・項目

前頭・・・・13.(那須塩原市)大山通り赤煉瓦屋敷・・・・・・・・・・・・・・・・無

前頭・・・・14.(日光市足尾銅山細尾発電所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査

前頭・・・・15.(佐野市足利市)旧須花(大正6年竣工)隧道・・・・・調査

前頭・・・・16.(宇都宮市宇都宮市水道今市水系第六号接合井

                   ・・・・・・・・・・・・・・・・・登録・調査・赤土・土木

前頭・・・・17.(宇都宮市)鬼怒橋(旧橋)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査・土木

前頭・・・・18.(日光市)間藤水力発電所跡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査

前頭・・・・19.(小山市)第二思川橋台と両毛線の煉瓦造橋梁群・・・・項目

前頭・・・・20.(日光市足尾銅山社宅防火壁・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・項目

 

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11. 宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫(旧第六十六歩兵連隊倉庫)・・・・1907(明治40)年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵連隊の厨房関係施設として建設され、現在は倉庫に用いられている。切妻造・平屋建で、イギリス積み煉瓦造、小屋組は木造トラスである。宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物。(文化庁データベース参照) 外壁は全体はイギリス積、角部はオランダ積の手抜きの赤煉瓦造で、出入口と半円アーチの窓を並べただけの簡潔な造りである。1925(大正14)年軍縮政策によって第66歩兵連隊が解散すると、その跡地に1928(昭和3)年栃木県立師範学校が移転し、この建物は理科実験実習室として使用された。1956(昭和31)年以降は県立宇都宮中央女子高校の倉庫として使用されている。2000(平成12)年12月に修復工事が行われ、屋根を瓦葺に復元された。

 

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12. 旧足尾銅山鉱業事務所付属書庫・・・・銅山中枢部の掛水移転にあわせて建設された書庫。煉瓦造二階建とする。イギリス積の外壁で、四隅に白い石材を帯状に配した付柱を設け、両側面と正面中央には妻壁を立ち上げて重厚な外観を持つ、銅山の中心施設の遺構として希少。1907(明治40)年竣工、煉瓦造2階建、鉄板葺、建築面積69㎡、 (文化庁データベース参照)

 

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13. 大山通り赤レンガ屋敷・・・・JR西那須野駅から歩いて400mぐらいのところにバス停「赤煉瓦前」がある。角地にかなり大きな平屋の煉瓦造がある。写真右側が大山通りに面した部分で建物は鋭角になっている。恐らく、大山牧場の門番詰所か受付があったと見られる。奥の方の広い部分は、管理人の家族の居住場所と考えられる。

 

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14. 足尾銅山細尾発電所(細尾第1発電所)・・・・日露戦争を目前にした日本国は銅の需要が増加していた。1906(明治39)年6月、第1期計画である2,000kwの発電設備が完成した。これが足尾銅山細尾発電所である。建物は幅9.5m、長さ23.7m。煉瓦造り平屋建て。床はコンクリート叩き。内部側面は漆喰塗り。屋根は鱗形天然スレート葺きである。発電所の設備は1,250馬力2台及び124馬力1台のフォイト式水車と1,000kw2台及び80kw1台の発電機を備えていた。この発電所が生み出した電力は11,000vの特別高圧によって標高1,300mを超す細尾峠を越え、間藤、簀子橋、小滝の各変電所を経由して足尾銅山の坑内外に配電された。1910(明治43)年4月細尾第1発電所の下に新たな細尾第2発電所を建設し、6,000kwの送電を開始した。1936(昭和11)年、細尾第1発電所の機能を第2発電所の位置に移動。設備の大改善を行なった。このため1906(明治39)建設の細尾発電所は空家になり、現在は屋根がぬけ廃屋の状態である。

 

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15-1. 旧須花(大正6年竣工)隧道・・・・佐野市下彦間と足利市名草町とを結ぶ須花峠に3本の隧道が並んで位置している。佐野市側から見て、左側にあるのが明治期に鑿と槌による人力だけで、1889(明治22)年1月に完成した全長117mの素掘の隧道である。現在は通行禁止である。1917(大正6)年、素掘隧道の北側に県の所管として隧道が掘削された。石積と煉瓦による円弧アーチ形状の構造である。全長81.9m、アーチの高さ・幅とも3.65mで入口部分の約2.4mは御影石、そこから内部は煉瓦造である。側壁はイギリス積、アーチ部は長手積である。栃木県の道路用隧道では現存する唯一の煉瓦組成による隧道である。その後、車両の交通量が多くなり両隧道の間に1979(昭和54)年コンクリート構造・アーチ形状の隧道が竣工した。

 

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15-2. 旧須花(大正6)年竣工隧道・・・・1917(大正6)年竣工の石造と煉瓦造による隧道の内部。この隧道は新規隧道の竣工により自転車と歩行者専用隧道として供用されていたが1998(平成10)年に防護柵が設置され、現在は通行禁止になっている。写真は防護柵の隙間から撮影した。

 

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16. 宇都宮市水道今市水系第六号接合井・・・・市北部に位置し、日光街道にほぼ並行して敷設された延長約25kmの送水管にかかる水圧を調整するための施設。深さ2.3mのコンクリート造構造物の上に、西洋城郭風意匠をあしらう八角形平面の煉瓦造上屋を建てる。宇都宮市近代化の水道施設遺構のひとつ。1915(大正4)年竣工。コンクリート造、面積17㎡、煉瓦造上屋付。(文化庁データベース参照)

第六号接合井は、今市浄水場で処理された水を約26km・標高差240mの戸祭配水場まで送水する際に、送水管にかかる水圧を緩和するため6箇所設置された接合井の一つです。これらの接合井は、標高が約30m下がる毎に1箇所設置されました。1949(昭和24)年の地震による被害により、当時のまま現存するのはこの第六号接合井だけです。(「関東の土木遺産」参照)

 

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17. 宇都宮市石井町から鬼怒川を東方(左岸)へは渡し舟であった。最初の木造橋が架かるのは1915(大正4)年3月で橋長554m、橋幅10.2m、径間約37m、15スパンの木造トラス橋であった。木造のため腐食や老朽化が進み、1931(昭和6)年9月、工期1年3ヶ月と短い期間で、橋長560m、スパン36.6mの曲弦鋼プラットトラス15連の橋が完成した。短期間で完成したのは木造橋の時、使用していた橋脚及び橋台を嵩上げ継足したことによる。写真は橋脚を写したもので、流水部分は焼過煉瓦を使用している。その上に石材を積んで橋脚としている。「嵩上げ継足した」というので、水流部分は木造橋時代のものを使用したと見られる。

 

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18. 間藤水力発電所跡・・・・1887(明治20)年代前半における足尾銅山の四大工事のひとつと言われた間藤水力発電所が完成したのは1890(明治23)年12月であった。足尾銅山の発展に伴う動力源を確保するため、古河市兵衛シーメンス社の技師ケスラー及び技手ブリュートゲンに依頼して渡瀬川上流部の松木川に間藤水力発電所を建設した。これが日本における最初の水力発電所である。遺構として道路脇に導水管の一部が残っている。川岸には発電所時代の煉瓦造の一部が残っている。当時の遠景の写真は残っているが水力発電所の配置図や水車・発電機の能力などは明らかでない。煉瓦造を含む発電所跡の遺構が残っているだけである。

 

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19. 第二思川橋台と両毛線の煉瓦造橋梁群・・・・両毛線小山駅思川駅の間に第一思川橋梁が架かっている。現在は3連の鉄橋とコンクリートの壁のようなものが築かれている。当初の橋梁は橋長160m、7径間連続鋼トラス橋で、6つの橋脚は全部煉瓦造であった。しかし、洪水で橋脚にずれが生じて危険なため、17m下流に新しい現在の橋梁を建設した。両毛線で次に長い橋梁は第二思川橋梁である。橋長76m、プレートガーター8連の橋梁である。7っの橋脚はすべてコンクリートで補強してあった。嵩上げした橋台だけが煉瓦造であった。次に長い橋梁は佐野駅富田駅間にある橋長48.2mの出流川橋梁であり、橋脚は煉瓦造である。

 

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20. 足尾銅山社宅防火壁・・・・足尾銅山には従業員と家族のための社宅が各地に建設されていた。火災が発生すると、木造住宅のため多くの社宅が被災した。それを防ぐため背の高い煉瓦造の防火壁が建造された。愛宕下社宅・深沢社宅・中才社宅の防火壁がある。足尾地区全体を集計すると20~30ヶ所の防火壁があると見られる。

 ◎日本赤煉瓦建築物番付 栃木県場所 令和元年九月

          《ベスト30》のうち21~30位

        勧進元  東京産業考古学会 行司 八木司郎

《順位》  《所在地》   《 名 称 》       《備考》

前頭・・・・21.(小山市)西堀酒造煙突・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録

前頭・・・・22.(栃木市)櫻井肥料店煉瓦蔵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登録

前頭・・・・23.(佐野市)永島鋳物工場(佐野鋳造所)・・・・・・・・・調査

前頭・・・・24.(佐野市)江州屋の煙突・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・調査

前頭・・・・25.(さくら市JR東北本線氏家駅他の危険品庫・・・・調査

前頭・・・・26.(栃木市)西水代尋常小学校校門・・・・・・・・・・・・・・項目

前頭・・・・27.(小山市)小野塚イツ子記念館の煉瓦煙突・・・・・・無

前頭・・・・28.(日光市)わたらせ渓谷鐡道足尾駅危険品庫・・・・登録

前頭・・・・29.(栃木市)大塚邸煉瓦倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・項目

前頭・・・・30.(野木町熊野神社煉瓦積土塁・・・・・・・・・・・・・・・・無

 

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21.西堀酒造煙突・・・・小山市大字栗宮にある酒造会社の敷地のほぼ中央に位置する煉瓦造の煙突である。基底部は1.9m角、高さは約14mである。煉瓦は下野煉化製造会社の製品と伝えられている。イギリス積、四隅を山形鋼でおさえ、丸鋼をナット締めして補強している。地域のランドマークとして親しまれている。(文化庁データベース参照) 煙突の周りを人が頻繁に通行するため、危害防止用の金網が取り付けられたいる。また煉瓦に剥離が生じている部分が散見される。

 

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 22.櫻井肥料店煉瓦蔵・・・・煉瓦蔵は主屋の西南方に位置し、文庫蔵と向き合って建っている。桁行2間半梁間1間、寄棟造、桟瓦葺、平入の平屋建煉瓦造物置で、壁厚は煉瓦1枚積とする。小規模ながら、フランス積で、壁上部に煉瓦を抜いて千鳥模様を造りだすなど煉瓦積技法にも見所がある。(文化庁ベータベース参照)櫻井肥料店は栃木市街の中心部の四ッ辻に建ち、手広く商いをしていた老舗である。屋敷の裏から船を出し巴波川を利用して江戸方面に物資を運んで商売をしていた。創業は1490年頃という。

 

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23.佐野の鋳物「天明鋳物」の歴史は古く、室町時代には「西の芦屋、東の天明」と言われ、全国にその名を知られてきた。明治期に入っても生産が継続され、戦前までは地域の重要な産業として息づいてきた。写真はキューポラ(溶鉱炉)を覆う建屋(覆屋)である。明治後期の鉄骨煉瓦造である。煉瓦は長手積、内側は煤で黒くなっている。最近周りの建屋を解体したので、覆屋がよく見えるようになった。全国的にも極めて珍しい物件である。

 

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 24.江州屋の煙突・・・・江州屋は大正時代創業の味噌・醤油醸造会社。創業者である亀山家は近江の出身で、近江井伊家直轄の領地であった佐野に入植し、江州屋を創業したとされる。大釜から続く煙突は、建物外まで煙道を暗渠としており煙突は離れた場所に建っいる。現在は個人用の味噌を醸造しているだけである。煙突は外部から見たところ補強用の鉄材などは使用しておらず、建設当初の姿を保っているように見えた。

 

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 25.JR東北本線氏家駅他の危険品庫・・・・氏家駅の危険品庫は1909(明治42)年に建てられた。煉瓦造全体はイギリス積、角部はオランダ積である。大きさは縦3.85m・横2.95m・軒高2.16m・最高の高さ2.60mで妻面上部は円弧になっている。(文化庁データベース参照) 危険品庫は各駅に建っていたが、JRの合理化でかなり減少している。氏家駅片岡駅矢板駅(白ペンキで塗られている)には残っ入るが、間々田駅・野崎駅の危険品庫は解体された。

 

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26.西水代尋常小学校校門・・・・南小学校の西側に煉瓦造校門は立っていたが、小学校の前に広い道路が開通し、正門の位置が変わった。1889(明治22)年12月11日西水代尋常小学校の正門として煉瓦造の校門が竣工した。学制の変遷等で小学校の名称も変更し現在は南小学校になっている。1975(昭和50)年3月現在地に記念物として移築した。煉瓦の平面を確認したが、下野煉化製造会社の刻印は発見できなかった。

 

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27.小野塚イツ子記念館の煉瓦煙突・・・・小山市神町に小野塚イツ子記念館がある。その敷地に煉瓦造煙突も建っている。これらの建物等は小野塚イツ子氏が小山市に寄贈したものである。醤油工場の跡地であり、高さ15mほどの煉瓦煙突は1923(大正12)年頃、築造されたようである。小山市は煙突の内部にコンクリートを充填し補強したようである。煉瓦は手抜き煉瓦で全体をイギリス積、角部をオランダ積としている。

 

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28.わたらせ渓谷鐡道足尾駅危険品庫・・・・本屋の南西に位置する。灯油等の危険品を収納するために造られた間口2.7m奥行1.8mの片流、波形スレート葺の煉瓦造平屋建。外壁は半枚厚の長手積で、四隅に柱形をつくり、間口部は欠円アーチ形とする。わたらせ渓谷鐡道で数少ない煉瓦造建築のひとつ。(文化庁データベース参照)煉瓦の4分の1程度露出している部分から深谷の上敷免製の刻印を発見した。

 

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29.大塚邸煉瓦倉庫・・・・栃木県の近代化遺産調査報告書のうち、項目のみを列挙した個所から、この煉瓦倉庫のことを知った。栃木市倭町2番17号に行って確認した。煉瓦造の前の部分は解体し、車庫として使用していた。

 

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30.熊野神社煉瓦積土塁・・・・下野煉化製造会社の煉瓦を古河市方面に陸送する場合、熊野神社横の上り坂を通行するのが近道である。神社は高い場所にあり、大雨の後など土が流れ落ちて悪路になっていた。石板の記念碑があり、「熊野神社境内 土止土盛工事之記、煉瓦七分下野煉瓦製造株式会社寄附、煉瓦三分大字野渡負担、運搬野渡馬車一同献納、土運搬氏子一同献人夫 氏子総代(以下略)」。今は崩れ欠けているが会社と住民が協力して完成させた煉瓦積土塁である。長さは約100mの煉瓦積土塁である。

 

《備考》(略字)

重文・・・・国指定重要文化財に指定されているもの

登録・・・・登録有形文化財(建造物)に登録されているもの

調査・・・・栃木県の近代化遺産総合調査報告書に解説(調査)されているもの

項目・・・・栃木県の近代化遺産総合調査報告書に項目のみ記載されているもの

赤煉・・・・日本赤煉瓦建築番付に記載されているもの

赤土・・・・日本赤煉瓦土木番付に記載されているもの

土木・・・・日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2000に載っているもの

自指・・・・市(町)指定文化財に指定されているもの

無・・・・・・無指定のもの

「印刷博物館」を見学しました

         ■凸版100年記念事業の博物館

 

 TIASの9月の見学会(9月6日実施)は、文京区水道橋1丁目にある凸版印刷印刷博物館でした。


 凸版印刷は2000年に、創立100年記念事業の一環として、21階建ての「トッパン小石川ビル」(高さ95㍍)を建設、併せて「印刷の過去、現在、未来を伝える」ため、国内外の印刷関係の資料を収集・展示した博物館を同ビルの地階に設けました。
この小石川ビルは、近辺では高さ、デザインとも目立つだけに、凸版印刷の本社と思っている人が多いらしいですが、そうではありません。   f:id:TIAS:20190914130521j:plain

   印刷博物館売店で購入した絵はがき。18世紀の植字室の風景)


 それはさておき、この日の見学会参加者から「TIASの見学先にここを選んだのは何か理由があるの? 産業遺産に関する企画展でも?」との質問がありました。


 これに対し、見学会を企画したTIASの理事は、「いや、特にそういうわけではなくて…」と答えましたが、当会の見学会・講演会はこれまでもそうですが、「今、なぜこのテーマで?」ということとは関係なく企画することが少なからずあります。


 産業遺産に関する見学会・講演会のテーマを選ぶ際、「今なぜそれなの?」はあまり問わないようにしている、と言っていいかとも思います。当方(TIAS)の見学会等は、産業遺産全体についてまんべんなく勉強することが主目的で、言ってみれば大学の教養課程みたいなものといえるでしょう。

 が、見学先を選ぶに当たっては、理由はないよりあった方がもちろんいいです。タイムリーなものであれば、参加者が増えることが期待できますので。


         ■凸版のリクルート「持ち合い株」


 筆者なりに今回の見学会の趣旨を解釈させていただければ、凸版印刷はこの9月に、長年保有していたリクルートホールディングスの株式を大量に売却、859億円もの特別利益を計上したことが産業界、株式市場で話題になっていることと関係があります。


 通常の株式売却による特別利益計上ならさほど話題にならないのですが、凸版の株式売却は、戦後の日本企業の慣行とも言えた企業同士が絆を強めるため互いの株式を保有し合う「持ち合い」の解消に伴うものだったから注目されました。

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      (リクルート株の売却を伝える記事。日経新聞 19.9.11付)


 リクルートですが、団塊世代を含む70代から60代の高齢者世代にとっては、「就職ジャーナル」などを通じて様々な青春時代の思い出にリンクする会社かと思います。大学新聞の広告代理店として1960年に創業した当時、リクルートは紙媒体が中心で、広告代理店のほか、印刷会社、製紙会社などの主要取引先に自社株を持ってもらいました。凸版もその1社でした。


 株式の持ち合いは戦後長く続きました。もちつもたれつの日本特有の企業文化でしたが、株主総会の形骸化につながるなど、近年そのマイナス面が問題視され、外国人投資家からはクリアでない慣行として是正が強く求められていたのです。
 こうした大規模な持ち合い解消は初めてのことです。


 今回、リクルート株を売却した企業は大日本印刷電通など他にもありましたが、凸版印刷は、その株数と売却益で注目されるものとなりました。凸版が売却で得た特別利益を今後どのように使うのか、業界や投資家の関心が集まっています。


  以上、なぜ今、凸版の博物館見学なのかについての私なりの解説でした。


 前置きがずいぶん長くなりすいません。では、印刷博物館の見学記を始めます。

                ■活版印刷


 本など印刷物は、かつては活字を組む活版印刷でした。今日では特殊な分野でほそぼそと続いていますが、その活版印刷作業場が同博物館に再現されていました。


 活字を一つ一つ拾って木箱に詰めて版を作り、それにインクを乗せて刷るのが活版印刷ですが、下の写真のような活字棚の前に初めて立つ人は、活字の種類の多さと、その小ささに呆然と佇むしかないのです。それがベテラン職人の場合、原稿を見ながら3秒程度に1個のスピードで活字を拾うことができるそうです。

 

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             (印刷博物館の活字棚)


 筆者は2013年に、短歌や俳句の雑誌を主に印刷している新宿区のS活版印刷会社を見学したのですが、同社経営者は、1個の活字を拾う平均時間は7~8秒と言っていました。もちろん、どんな本によるかでそのピードは違ってくるのでしょう。


 その文選工は多くが歩合給-ひとつの仕事をこなせばなんぼの世界-で、彼らの多くは、その日もらったお金は飲み代にすべて消えていったそうです。貯蓄というか老後のことは考えなかったようです。


 筆者は、そのS印刷会社で名刺を作ってもらった(100枚注文)のですが、竹の繊維をすり込んだやや特殊な和紙だったこともあり、1枚100円でした。同社の担当者は、「名刺印刷では圧力を加えて凹凸感が出るようにしてくれとの注文が若人中心に多い。昔は滑らかな表面がいい印刷で、でこぼこ感を出すなんて邪道だったのに。時代は変わったね」と苦笑していました。

 

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                 (見学風景)


    ■ヴァチカン教皇庁図書館展を2回開催


 印刷博物館はヴァチカン教皇庁図書館展を2002年と2015年に2回目開催しています。ヴァチカン教皇庁図書館といってもピンとくる人は少ないかもしれませんが、世界で最も歴史のある写本等の図書館です。


 筆者は2000年の展示を見ました。当時、自由が丘のカリグラフィー教室に通っていたため、中世の写本の実物を是非とも見てみたいと思ったのです。


 2015年の2度目の展覧会を受けて出版された本を読んでみたら、同図書館のチェーザレ・パジーニ館長が冒頭のあいさつでこう述べています。


 「ヴァチカン教皇庁図書館は15世紀中頃の人文主義の時代、ルネサンスの最盛期に誕生し、その当時浸透していた初期の着想のもと今も生き続けています。人文主義とは、その普遍性の精神によって特徴づけられ、その精神はそれより何世紀も前の古代劇作家テレンティウスの言葉『人間に関わるもので私に無縁なものなどない』の中にまさしく表されています」
 

 さらに、同図書館は「すべての言語、すべての国、そしてすべての文化の書物を保管する場所として作られ、あらゆる信念のもとにあらゆるところからやってくるすべての学者、研究者に開かれたものでした」としています。
 なるほどですね。

            ■スタンホープ印刷機


 印刷博物館には世界に数十台しかないとされる印刷機、スタンホーププレスがあります。下の写真がそれです。

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         (日本に4台しかないスタンホープ

 

 同印刷機は19世紀初めに英国のチャールズ・スタンホープによって開発されました。それまでの印刷機は木製でしたが、初めて鉄製のフレームを使ったことで耐久性が高まって大量印刷が可能となった画期的な製品でした。総鉄製印刷機の元祖です。(グーテンベルグ印刷機は、木製のブドウ絞り器を改良したものでした)


 現在、スタンホープ印刷機は英国に10台保存されていて、日本には印刷博物館含め4台あります。


 このうち、「お札と切手の博物館」(国立印刷局)にあるのは日本で最初に輸入されたオランダ製で、国の重要文化財に指定されています。


 残りの2台は、ミズノプリンティングミュージアムと個人(木版画家)が保有しています。


 以上、印刷博物館の見学会報告でした。

 

 <お知らせ>

 東京産業考古学会(TIAS)では、さまざまな講演会・見学会を毎月行っています。 

 会員でなくてもみなさんどうぞ自由にご参加下さい。参加費は基本的に1千円です。                                           (K.O)